復讐するは我にあり

日 1979年 140分

製作 井上和男
監督 今村昌平
原作 佐木隆三
脚本 馬場当
撮影 姫田真佐久
美術 佐谷晃能
編集 浦岡敬一
音楽 池辺晋一郎
出演 緒形拳 三國連太郎 ミヤコ蝶々  倍賞美津子 小川真由美 清川虹子 殿山泰司 垂水悟郎 絵沢萠子 フランキー堺

関連映画

今村昌平

豚と軍艦

緒方拳

砂の器

魔界転生

大誘拐 RAINBOW KIDS

三國連太郎

切腹

怪談

 佐木隆三が直木賞を受賞した同名ノンフィクションを、「神々の深き欲望」の今村昌平監督が映画化した問題作。その年のブルーリボン賞やキネマ旬報などで多数の賞を受賞した。

 昭和38年秋、福岡で起った強盗・殺人事件をきっかけに、犯罪史上空前の延べ12万人に及ぶ捜査網をかいくぐり、78日間の逃亡の末に逮捕され、43歳で死刑になった榎津厳の犯行の軌跡と人間像が、自身の少年時代、父や嫁との相克、安宿の女将との交情などを通して描かれていく。

 「惜しくなか。俺の一生こんなもん」という映画のキャッチコピーそのままに、巌は血も涙もない凶行をいともあっさりやってのける冷血漢でありながら、一方で大学教授や弁護士といった知識階級になりすまして弁舌爽やかに詐欺を働いてみせる。また、精力絶倫で行く先々で女をたらしこむ。そんな巌の中に今村昌平は人間性の不思議を見出しているかのようだ。巌が同僚を防水シーツに包んで執拗に千枚通りで刺し殺す場面も迫力あるが、同様の執拗さで安宿の女将の体をむさぼる場面もねっちりとして生々しい。このヴァイタリティの過剰さは今村の過去の諸作「豚と軍艦」や「にっぽん昆虫記」を彷彿とさせるが、むしろ、隙のない身のこなしで弁護士になりすまして裁判所に入り込み、係争中の被告の親族をたぶらかして示談金をせしめる場面に巌のヴァイタリティの真骨頂がある。緒方拳が巌になりきったような熱演で、その存在感で映画全体を支配しているかのようだ。

 この映画のもう一人の主役、クリスチャンの父鎮夫も忘れるわけにはいかない。病気の妻を看病しながら旅館を切り盛りし、巌の妻加津子と精神的に結ばれながら一線を越えられず苦悩する姿を三國連太郎がこれまた圧倒的な演技で見せる。聖と俗という対極の精神を二つながら表現できる三國連太郎の個性と演技は、日本映画史上でも稀有の才能だと思う。ともかく、信仰のために自分の欲望を押さえつける静雄と、欲望の赴くままに罪を重ねる巌。この対比が映画を支える柱となっている。

 この映画では、巌の犯行の動機は父鎮夫への反発として描かれている。大戦中に鎮夫は信仰上の理由から軍が漁船を徴発するのに反対するが、軍人が巌を小突きまわしたために泣く泣く漁船を提供する。それをきっかけに巌は父に反抗的な態度を示し始めるのだが、それは(自分のためとはいえ)鎮夫が権力の前に屈服する姿に失望し、それでもなお信仰を持ち続けることに一種の偽善を感じたためと思われる。しかし、自分ではそのことを意識していない。安宿の女将の母親で終戦直後に人を殺して入獄したこともある老婆(清川虹子好演)を殺そうとする場面で、「あんたは本当に殺したいヤツを殺してないだろう」と看破され、はじめて父鎮夫への殺意に気付く。この場面は取調室での巌と鎮夫のやりとりと対をなす名場面だ。

 ここまで書いてきて巌の犯行の動機についてある考えが浮かんだ。もしかしたら、巌は罪を犯すことによって神を試しているのではないか?父静雄に対する反発も天にまします父に対する反発に通じるのではないか?花村萬月の芥川賞受賞作「ゲルマニウムの夜」も冒涜の限りを尽して神を試す主人公が描かれているが、その姿は巌とだぶるし、巌が常に十字架のペンダントを身に着けているのもそうした心理と関係あるかもしれない。なお、「復讐するは我にあり」というタイトルは、新約聖書の一節「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」という神の言葉で、罪を犯した者はそれによって神に裁かれるという意味だ。

 この映画は榎津巌という非常に特異な人間性によって成立している。そのため人によっては割り切れない思いが残るだろう。しかし、割り切れないからつまらないということは決してない。僕も割り切れないからこうして書いているわけで、理解しようとする行為そのものを楽しんでいる。「わからないからつまらん」というのは、「この方程式は理解できないから間違っている」というのと同じだ。ともあれ、観るものに強い印象を与えずに置かない力作であることに間違いはない。

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