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砂の器 日 1974年 143分 |
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製作 橋本忍 佐藤正之 三嶋与四治 |
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関連映画 野村芳太郎 ・張込み 丹波哲郎 ・豚と軍艦 ・切腹 ・怪談 ・魔界転生 加藤剛 緒方拳 ・魔界転生 |
松本清張の推理小説の映画化。先日スマップの仲居の主演でテレビドラマ化された。 国鉄蒲田の操車場構内で扼殺死体が発見される。警視庁の今西と地元警察の吉村が周辺の聞き込みをするが被害者の身元はわからず、唯一被害者が若い男と一緒に飲んでいたという情報をバーの従業員から聞きだす。その際、被害者が口にしたというズーズー弁と「カメダ」という名称を手がかりに、今西は推理を進めるのだが・・・。 この映画は一般的に邦画史上の傑作の一つとされている。僕も傑作であることに異論はないが、今回改めて観てみて推理部分の構成が弱いことに気がついた。それを以下に書く。 若い刑事吉村がなぜ犯人が返り血を浴びたであろうシャツの始末について、あれほど執拗にこだわるのか?確かに近くの川にでも捨てれば足が着く。ならばすぐにシャツを脱いで持っていたかもしれない紙袋にでも入れて家に持って帰り、そのままゴミに出すなり燃やすなりすることができる。だとしたら、シャツそのものへのこだわりはあまり意味がない。ところが、この推理はその後、走っている中央線の車窓から細切れになった紙か布をばら撒いたという女性を偶然見ていた新聞記者の記事に繋がる。吉村は偶然それを読んでその女性がばら撒いたものが、犯人が犯行当時に来ていたシャツではないかと推理し記者に連絡を取る。すると、記者はその女性が銀座の高級バーで働いているのを偶然見かけたという。吉村はすぐにそのバーに向かうのだが、推理ものであるにも関わらず偶然が重なりすぎる。血のついたシャツをいかに細切れにしたとはいえ、中央線の車窓からばら撒いたら人目につきすぎるだろうが!しかも、それをわざわざ記事にする記者とそれを掲載する編集者がいるか!推理物なのにこういう偶然が連続する展開はまずいだろう。 しかし、東北弁と「カメダ」という名前を追う今西に関する場面は優れている。東北だと思っていたのが、実は山陰の一部で話されている東北弁に似た方言であるという事実を突き止め、「カメダ」が島根県の山間の地名だとわかるエピソードは論理的に納得いくし、何よりも手がかりを求めて今西が日本の各地を訪れる場面がロケーションを多用して美しく描かれるのがよい。そして、被害者の息子が現われて島根県の元駐在であったことが確認されるに及んで、捜査線上に和賀英良という若き天才作曲家が浮かび上がる。 この映画が傑作と呼ばれるゆえんは終盤の展開に集約される。和賀の新作発表のコンサートと捜査会議での今西の推理と、そこで語られる和賀の過去(同時に和賀の回想にもなっている)が、交響曲「宿命」の旋律に乗って交差するこの場面は、レプラを患った父と共に村を追い出され放浪する和賀の姿が、日本各地の美しくも寒々しい景色の中に描かれて非常に感動的で、同時に和賀がなぜ過去を消し自分を親身になって世話してくれた駐在を殺さざるをえなかったかがよく表現されており、それまでの展開の弱さを補って余りある出来だ。この映画はこの場面を撮るために企画されたといっても過言ではない。 ところが、そんな傑出した場面にも疑問点がある。レプラから回復した父が今西の差し出す和賀の写真を見て思わず涙を流して「お、おら、知らねえ!」という名場面があるが、なぜ父は赤の他人を装ったのか?彼はまだ和賀の犯行を知らないはずだし、知らない以上彼を知らない振りをするのは疑問といわざるを得ない。作曲家として大成している息子の名誉を慮って赤の他人を装うのはわかるが、彼は息子の成功さえ知らないはずだ。父の気持ちは痛いほどわかるだけに、こうした矛盾は残念だ。 これは人間の業を描いた名作だと思う。が、業とは不可避の運命であり、それゆえ辻褄が合ってこそ心に深く突き刺さってくるものだ。その点で「砂の器」は多少ムードに流されているきらいがある。水上勉の小説の映画化「飢餓海峡」も人間の業の深さを描いた犯罪ドラマの傑作だが、こちらの方がギリシア悲劇のような強靭な展開と絶望感が漲り、原作はともかく映画としては上だろう。 ただし、ロケの美しさや丹波哲郎や加藤剛を始めとする出演者の好演で、こちらもまた名作には違いない。また、レプラに罹病した人へのいわれない差別をテーマに据えたことも社会派としての重みを加えていると思う。 |