§1 15才の私: どんな大人になるんだろうか? |
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1950年、昭和25年である。戦争が終わってから5年たった。 |
昨年の秋に学校新聞を出すことになって新聞部ができて、国語の先生が三年生を何人か集めてきて、年末と翌年3月に第1号、第2号が生徒に配られた。ちゃんと新聞の形になっていたけれど、あとで先生に聞いたら、作るのはたいへんだったらしい。
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できたての新制中学校 |
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(著者の扇谷正造さんは朝日新聞の偉い人だとは、かなり後で知った。) |
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新聞部の部長に 祇園中学校は、できた頃から野球部やバレー部が強くて、安佐郡の大会でよく優勝したり、広島市へ出ていっても成績がよかった。 今年もうまい選手がたくさんいるので、活躍してくれそうだ。試合ぶりを記事にしたらみんなが喜ぶぞ。二塁手をやってる亀田君が新聞部へ入ってくれたから、原稿を書いてくれる。 |
陸上競技部も、グランドの石拾いを全校生で何回もやったんで走りやすくなって、強くなってきた。去年から体操専門の土井先生が赴任されて練習が盛り上がるようになってきた。ここも部員の羽川君が新聞部員だ。 新学期も進んで、近くの中学校との対抗戦や郡部の予選が始まると、なるほど我が校はどの部も強い。どの試合でも好成績で勝ってくる。これを新聞に載せると、みんなが喜んだ。遠方での試合や普段の日の試合はみんなが見ていないので、格別喜んでくれる。だが、記事を書く者がたいへんだ。選手と記録を掛け持ちではできない、と言う。試合中にメモを付けてなんかいられないから、後で仲間の記憶を集めると、間が抜けたり合わなかったりして、やれんよと言っている。 よし、私は従軍記者をやろう、と校長先生に頼んで、平日の試合に行くときは選手と同じように授業を休んでもよいことにしてもらった。公休と言っている。私は小学校の頃ちょっと野球に凝って、スコアブックの付け方を修得していたので、迫真の観戦記を書くことができた。バレー部は指導の土井先生がとても熱心で、鋭い批評を含んだ試合レポートを書いてもらえたので、選手たちも新聞の出るのを楽しみにしている。 ダンス部は活動がとても盛んだ。練習日には髪型をオールバックにした音楽の山野先生がレコードをたくさん持って来て、講堂にはたくさんの女生徒が拡がって、先生の振り付けるダンスを練習する。 |
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男生徒も覗き込んだり、音楽を聴いたり、うまく蓄音機の係りになってレコードを乗せ替えたりゼンマイを巻いて手伝ったり、楽しい時間だ。よくコンクールで優勝しているが、どんな記事にするか難しいなと思っていたら、U子さんとT子さんがレコードの曲と踊りの感じを上手に説明した文章を書いてくれて、音楽を聴くのが楽しみになった。 記事はクラブのことばかりではないぞ。U子さんはたくさんの本を読んでいて、図書館の本を紹介したり、もっとおもしろい本を教えてくれたりする。「若草物語」なんか知らなかったけど、 わくわくしながら読んでしまった。男の本は樫原や上山が教えてくれる。「十五少年漂流記」や「TVAの少年」なんかだ。映画なんか時々町の映画館に団体鑑賞に行くくらいだが、U子さんはこないだ広島市の映画館に総天然色のアメリカ映画「赤い靴」を見にいって、しばらくぼーっとしていた。バレリーナがヒロインの、入場料がすごく高い映画で、親に一所懸命頼んで行かせてもらったんだそうだ。私なんかそんなこと考えもできない。 社会を眺めつつ |
何人かで分担して原稿を書くのだが、まとめて一本の見学記にするのが難しくて苦労する。 郵便局の二階は電話局になっていて、交換台で町内の電話を接続している。電話を使ったことがない者もいるので、中学校につないでもらったりして皆でしばらく遊んだ。工場では、旋盤やら蒸気シャベルなどの大きな機械、縄綯い機(ナワナイキ)や畳表織り機など見たことのある機械、大きな釜や配管からきつい臭いを立てる薬品機械などいろんな機械を作ったり動かしたりしている現場を眺めて驚きの連続だった。 |
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電車の駅だって、窓口の裏側に切符がたくさん並んでいるのもおもしろかったが、単線運転で電車が衝突しないように通票を交換する仕組みなんて知らなかったことだった。でも、登記所も覗いてみたが、ここの話はよく判らなくて、書くのはやめた。警察では留置場をみせてもらったぞ。 新憲法のありがたさを実感 5年前に戦争が終わるまで、私は小学校(当時は国民学校といったが)の低学年だったから余計なのだけれど、何か生意気なことを言ったら先生や上級生にすぐに怒られた。決まった通りにしなさい、といつも言われた。命令に従いなさい、と言って殴られた。命令がよく判りません、と言ったら、自分で考えなさい、と言ってまた殴られた。 |
そして、みんなはそんなに一所懸命に仕事をするわけじゃない から、時々は「おまえら、やる気あるのか!」と怒鳴らんきゃならんけれど、智恵を出し合って進める仕事だから、お互いに不満はない。みな手応えを楽しみに仕事をしている。文を書いたり筋道を考えたりすることがこんなに楽しいとは知らなかった。このことはみんなそう言っている。 そして、女の子といっしょに仕事をしていると、こんなに智恵がよく出るものか、ということも最近しきりに実感していることだ。 新聞部の部室として、講堂のステージの横の小部屋を貰った。運動場に面しているので、野球部や陸上部の部員がよく遊びにくる。ダンス部も講堂で練習した後、遊びに来る。時々は皆で流行歌を歌っている。 |
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写真機やフィルムは貴重品だが、父に頼み続けて貸してもらう。無駄なシャッターは切れないから、ピッチングのフォームや踊りのポーズを入念にかまえて撮影する。 お天気の良い日には、編集会議を中断して皆で武田山に登ることもある。学校のすぐ西側から斜面が始まる武田山は、400mの頂上まで行くのはちょっと骨だが、中腹がゆるやかでゆったりしていて、立木がまばらで山道でも歩きやすく見晴らしがよい。 だが、前々年に新憲法が施行されて、主権在民、男女同権、そして戦争放棄が新憲法の根幹の精神だと日夜教育されている当世だ。 |
我々は時代の最先端の行動を示しているのだ、と胸を張って叫ぶ。学校新聞だってスクェア・ダンスだってクラブ活動だって、民主主義を日本に定着させようと占領軍総司令部GHQが懸命に推進している政策の柱なんだ。先生方も講習会や研究会などで指導法を研修されているそうだ。 |
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戦時中の窮屈な何も言うことのできない生き方にくらべて、自由にものが言えて新しいやり方がどんどん実行できる今は、回りに物が不足していて物は不自由であっても、よっぽど今の方が良い。 この間も野球部でちょっと事件があった。町から野球部の練習を指導にきている人が、講堂でやってたダンス・パーティに野球部員が入ってるのを見て、軟弱になるからやめさせろ、と言ったらしい。それが職員室で話題になったとき、最上先生が「野球部員だってダンスするのは当然です。禁止したら反抗してかえって弱くなりますよ」とか言われたというんで騒ぎは終わってしまった。最上先生は女性最年長のこわい感じの先生だ。見直してしまった。 新聞作りの技術 |
「先生は事なかれ主義ですね」と悪態をついてしまって、ちょっとまずかった。 (恩師追悼 -別ページ) 「君の字は、もうちょっと読めるように書かんと将来困るぞ」といつも言われる。「他のやつがうま過ぎるんですよ」と言い返すが、T子さんや樫原の字はすごくきれいだ。とても真似できない。 でも、字は速く書きたいのだ。思い付いた文章をどんどん書かないと頭の中に詰まってしまって後が出てこなくなる。一度考え始めたら、続く文章が後の方まで一遍にできてきて、いくら速く書いても間に合わないのだ。 新聞社に見学に行って見せてもらった原稿の書き方は具合がよい。一枚の白紙に4行、一行は10文字で、大きく走るように書く。紙はどんどん使うが、速く書けて割と読みやすい。 この間、近所のお兄さんに「カナ速記術」という本を見せてもらって、一応使えるようになった。カナをくずしたような記号で速記するのだ。文を思い付いた時にすごく速く書ける。 それを使って座談会の速記をやった。 亀田君のプランで「祇中を斬る」という題だ。 「斬るて何や」「ほらスポーツ新聞なんかで<カープを斬る>とかやってるじゃないか。斬って中身を見るということじゃ」。 彼は野球部員でもあるからスポーツ新聞を見ている。 そこで、生徒会長や役員、各部の代表などを集めて、座談会をした。私は司会と新聞部代表と生徒会書記役と速記とをやり、くたくたになったがおもしろい記事ができた。 |
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↑ ただ一部のみ現存する「祇中新聞」。記念号とて活版刷り。 |
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そう、私は生徒会の役員なのだ。5人のうちの一人で書記という役になっている。全校生の選挙で選ばれるが、候補者は三年の4学級でそれぞれ推薦されて、演説会に立つことになっている。
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ボカァ死ぬときは、アァおもしろかった、と言って死にたいのだ、と叫んで、母を嘆かせる。つまらん勉強なんかしたくない、と口げんかになる。 理科の宮本先生はおもしろいぞ。理科のほかに、英語も数学も教えてもらったことがある。ぼそぼそとまとまらない教え方なので、皆には評判が悪いが、時々おもしろい話が出る。英語の時間に
noise という単語が出てきた。街は喧しい、といった場面だったか。 二年の時、数学の時間に、「1, 2, 3, ..., n までの合計S を求める公式を考えてごらん」と言われた。 |
S = n × ( n + 1 ) / 2 社会科に新しい先生が赴任してきた。元気な若い先生で、新聞部の部室にやってきて、 「君らは社会を知らんよ。社会は悪者ばっかりで構成されているのだ。法律には抜け穴がいっぱいあって、そこを利用すると大儲けができるから、そのために大会社は頭のいい大学卒業生を競って採用しているのだ。ここの中学校の校長さんも頭がいいから、悪いことばっかりしている。僕にはそれが見えるんだ。」などと言った。夏目漱石の坊ちゃんみたいだな、と皆は言い合った。その先生は数日していなくなったが、そんな見方もあるのかと感心した。でも悪いことは何も見えてこなかった。 |
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| 物作りの世界を覗く 近頃、おもしろい本を読んだ。社会科の百科事典のような本だが、なかの一節に、物を作る工場の仕組みを解説している。 「工場で物を作るには、図面がいる。図面は設計者が描く。設計者は専門の学校で必要な知識を学んできているが、工場の実際の生産状況をよく知らないと、実状に合わない、それでは物が作れない図面を書いてしまう。机上の空論ならぬ空図ができる。 だからどこの工場でも、年配の経験を積んだ設計者と学校を出たての若手は組になって、大きな構造を経験者が設計し、若手は指導を受けながら細かい部分を考えて図面に描き表す。 それでも図面どうしの間の間違いや、作りにくい仕掛けを考えてしまうことは避けられないから、設計課長による「検図」作業が待ちかまえている。 設計課長は経験数十年、その人物は<秋霜烈日>型か<春風駘蕩>型かいろいろだが、歴戦の猛者だ。現場にも猛者がいて、「こんな図面じゃ作れるかい」と投げ返されたり、できた物がうまく組み立てられなかったり動かなかったりして大騒ぎになる修羅場をさんざん経験しているから、検図には力がこもる。 秋霜烈日型の課長にかかったら、若い設計者はたいへんだ。大きな机に広げたたくさんの図面を付き合わせて、ミスが見つかる度に怒鳴りつけられ、次には鉄拳が頭に胴に押しつけられる。しっかり頭に入れ肝に銘じておけというわけだ。 春風駘蕩型の課長にもミスを洗いざらい指摘されて、じっくりと脂を搾られる。 |
検図作業はたいてい時間のたっぷり取れる夕刻から始まるから、いつも夜中までの作業になり、時には夜が明けてもまだ終わっていない。そしてミスを直し図面を描き直す作業が、せかされながらそれから始まるのだ。 読んでいて、わくわくしてきて、体中が熱くなった。まるで私が課長に怒鳴られている若い設計者のような気がしてきた。大人になったらこんな仕事がしたいなあ。経験を積んで設計課長になるのだ。物を作るってすばらしいなあ。手応えがあって、社会の役に立って...。 父の世界 |
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家によく職工さんたちが集まって酒を飲む。「おまえのお父さんはうちの工場(コウバ)の大親父じゃ」と言ってた。時々「うまく出来ん」と言って工場に何日も居続けていることがある。「あん時ゃほんまにどうしようか、思うたよ」「あれがうまく収まったのは喜利さんの智恵じゃ」とか、酒飲みながら出る職工さんの話で、父の仕事を想像する。 「男の一生」という本 前から何度も読み返している「男の一生」という本がある。父の本箱にあったので読み始めた。進藤義輔伝と副題されている。進藤さんはここの三菱重工の工場を作った人だ。東洋一の工作機械量産工場を作るのだ、と雄大な構想を描き、「東洋機械株式会社」として昭和14年(1939年)に完成させた。 だがご本人は昭和12年に突然亡くなった。新会社の将来を描くためにアメリカに出張して視察中、トラクターの働きを16ミリ映写機で撮影するために車道に後退して自動車にはねられた。残された会社の人たちが悼んで、この伝記を刊行した。この人は筆頭技術者として東洋製罐株式会社を動かし、その子会社として東洋鋼鈑株式会社を建設し、そしてその子会社としてここの工場を作った。戦時中に三菱に併合されて社名が変わった。 |
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←「男の一生」のあるページ。昭和14年4月29日発行、非売品 |
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私の父は、進藤さんに追従して、この3社の建設と運営に携わってきた。仏壇に進藤さんの遺影が置いてある。「こんな立派な工場は世界中にもめったにないぞ」と父はしばしば自慢する。私の中学校の建物も元はこの工場の一部だったのだ。
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「氷川丸」で2週間の航海、アメリカ各地で製缶機械、鋼板圧延機械、それらの補修機械などの、購入調査、運転・保守技術の習得などで4カ月ほど滞在、そしてまた船に2週間乗って帰ってきた。 |
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| 「昨日はピッツバーグで工場を見た話だったか。そこから汽車でシカゴの工場へ移った。この汽車も大きなもんだぞう。」「世話をしてくれたスミスさんが、休みの日にミシガン湖の公園に自分の車で遊びに連れていってくれた。」 停電が終わって電気が灯った後、その時の写真を探し出して見ると、若い父がスミスさんや子ども達といっしょに写っている。背景には、りっぱな乗用車、広い砂浜と湖面が映えている。「アメリカ人はみんなこんな車を持っているんだ。」 すごいな。「しかし日本でも、もっと世の中が落ち着いたら、こんな車を持てるようになるぞ。」 ホンマかいな。途方もない未来の話だ。信じられない。乗用車なんかめったに見たことがないぞ。 |
さあ、日本の将来はどうなって行くのだろう。
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探していた父のアルバムから古い写真が出てきたのでお目にかけたい。
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ミシガン湖畔にて、父とスミスさんの子供たち。 (裏に、September 10, 1934 とスタンプされている。) |
裏庭にて餅つき、父と祖母。 1952年か。 臼と杵(キネ)は、父と私が作った。戦後の食糧難を克服する貴重な道具だった。餅米(陸稲)も畑を借りて作ったことがあるぞ。背景の鶏小屋は、もちろん食料の生産のためだ。 |
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![]() 祇中新聞部の主なメンバー (1951年3月) |
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