§1 15才の私:   どんな大人になるんだろうか?

 1950年、昭和25年である。戦争が終わってから5年たった。
 今、私は中学3年生。とても元気だ。昨今、私は人生の目標を発見した。だから元気に学校へ通っているのだ。広島県の安佐郡祇園町立祇園中学校の生徒である。

楽しい仕事を発見
 私は物を作るのが大好き、小さい頃からいろんなものを作って遊んできた。竹トンボから模型飛行機、鉱石ラジオから短波放送受信機、絵本から壁新聞、学級雑誌、、、、。
 最近知ったのは、作った物を人が褒めてくれると余計嬉しいということだ。だから、大勢の人に褒めてもらいたいことに夢中になる。

 今、それは学校新聞を作ることだ。学校の新聞部の編集長をやって、月に一回「祇中新聞」を発行する。熱心に読んでくれる生徒は数人だが、たいてい、苦心したところを見付けて出来映えを褒めてくれる。先生も二三人はていねいに見てくれて、たいていは感心してもらえる。
  原稿が足りなかったり行事の報告がうまく書けなくて、苦労しながらどうやら紙面を埋めることもよくあるのだが、「ここんとこはうまくまとめたじゃないの」とこちらの苦労が分かるらしく、そこをいたわって貰ってるようだ。
 新聞がちゃんと形をなしてできあがるだけですばらしいことなのだ。なにしろ始まったばかりだから。

 昨年の秋に学校新聞を出すことになって新聞部ができて、国語の先生が三年生を何人か集めてきて、年末と翌年3月に第1号、第2号が生徒に配られた。ちゃんと新聞の形になっていたけれど、あとで先生に聞いたら、作るのはたいへんだったらしい。
 学校新聞というものを作るという話は、中学校に入った頃から校長先生のお話しなどでときどき聞いていた。アメリカのハイスクールでは、生徒が学校の新聞を作るのだそうだ。アメリカではどこでも、どの学校でも小さな田舎町でも、学校や町の新聞がある、野球部でもダンス部でもクラブの新聞がある、といわれた。



↑中学校校舎(友人・上床直人が想起して近年描く)


できたての新制中学校
 だけど、この中学校だって、できたばかりだ。新制中学校と呼ぶ。旧制の中学校は男子だけの学校で、入学試験があって、合格したものだけが入れた。
  2年前に6-3-3-4制の新学校制度になって、中学校3年間は義務教育になり全国民が入ることになった。
 我々の校舎は、町内の大きな工場が持っていた工員養成学校の建物を譲ってもらったものだ。その建物は、3年前の広島に落とされた原子爆弾のおかげでガラス窓や天井がなくなったままで、廃虚のようだったのだが、大きな講堂や道場などを備えていた。
  教室は数が足りなくて、道場に間仕切りをしたり、控え室のような狭くて細長い部屋も教室になった。部屋の大きさに合わせてクラスの人数が変えてあった。窓ガラスは冬の来るまで無いままで、台風のあと、広い講堂が吹き込んだ雨で一面水浸しになり、木張りの床が裸足だとつるつと良く滑るので、大勢の生徒がスケート場のように滑り廻って遊んだことがあった。

 そんなひどい設備の中でも図書室ができて本が並んで、夏目漱石や芥川龍之介を借り出して読んだり、百科事典のようなものを拾い読みしたりしていたが、部屋が足りないので、教室や職員室の隅に書棚が移ったりしていた。
 そんな本の中で、ある日「学校新聞の作り方」というのを見付けて読むと、いろんな記事を集めたり編集したりすることはとてもおもしろそうに思えた。

(著者の扇谷正造さんは朝日新聞の偉い人だとは、かなり後で知った。)
 まだ二年生の時だ。手近の何人かを誘ってクラス内の新聞を作り始めた。
 放課後の教室に残って、謄写版で50枚ほど刷る。原版を作る作業、「ガリ切り」は、政田のキッちゃんがうまい。字が四角で読みやすくて、カットの絵やかこみものの罫線もじょうずに入れる。ヤスリ板にロウ引き紙を載せて鉄筆で字や絵を書き込んで原紙を作り、これを絹を張った枠に取り付けて、上からインクを塗ったゴムローラーを転がして下の紙に刷り出すのだ。
 身辺のたわいないお話しを集めて、ガヤガヤ騒ぎながら2号ほど出したが、そこでもう、作ろうとする人が集まらなくなった。
 しかたがないから、第3号は私がガリを切って、本で読んだ話やら、連載小説めいた作文を、格別つたない私の文字で書き連ねていたら、思いがけず女子中の才媛、T子さんが「私がやったげよう」と言い出してガリを切ってくれて、それにつれて女性陣がどっと加わってくれて、おかげで今度は男性陣がどっと復帰してきて、一度に賑やかになった。

 私たちは小学校6年生から男女共学になり、中学校も男女混成の学級だったのだが、それまで男女はほとんど別々に集まっていて、いっしょに遊ぶことはまずなかった。この時以来、男女の堰が切れて、お互い楽しく言葉を交わすようになれた。日々が嬉しくなってきたのはその頃からだ。


新聞部の部長に
 三年生になる頃、私は国語の先生・福島清人先生に呼び出されて、学校新聞をやれ、と命ぜられた。クラスでやってた新聞は自分たちで勝手にやってた遊び事だが、今度は全校の生徒会の予算で発行する公式の新聞だ。
 これまで新聞部は上級生のもので、下級生は近寄れはしなかった。紙面にも難しそうな文章が並んでいた。
  先生は、君のクラス新聞のようなのがよいと言ってくれた。上の連中は大人の新聞をまねようとするばっかりで、なかなか進まんから苦労した、身近なことを扱えばいいのじゃ、仲間をまず集めなさい、と、樫原など2,3の級友の名を挙げた。
 「T子さんにも頼みますよ」「おお、女子も入れるか、それはええ。それならU子さんも頼め」
「あの人はちょっと恐いから先生から言ってください」「恐いことはないぞ。わしから言っとくが」。

 祇園中学校は、できた頃から野球部やバレー部が強くて、安佐郡の大会でよく優勝したり、広島市へ出ていっても成績がよかった。 今年もうまい選手がたくさんいるので、活躍してくれそうだ。試合ぶりを記事にしたらみんなが喜ぶぞ。二塁手をやってる亀田君が新聞部へ入ってくれたから、原稿を書いてくれる。
  バレー部もだれかに頼むか。ダンス部は広島市のコンクールなんかに出て賞状をよく貰ってる。U子さんもT子さんもダンス部だから原稿はまかせて大丈夫。

 陸上競技部も、グランドの石拾いを全校生で何回もやったんで走りやすくなって、強くなってきた。去年から体操専門の土井先生が赴任されて練習が盛り上がるようになってきた。ここも部員の羽川君が新聞部員だ。

 新学期も進んで、近くの中学校との対抗戦や郡部の予選が始まると、なるほど我が校はどの部も強い。どの試合でも好成績で勝ってくる。これを新聞に載せると、みんなが喜んだ。遠方での試合や普段の日の試合はみんなが見ていないので、格別喜んでくれる。だが、記事を書く者がたいへんだ。選手と記録を掛け持ちではできない、と言う。試合中にメモを付けてなんかいられないから、後で仲間の記憶を集めると、間が抜けたり合わなかったりして、やれんよと言っている。
 よし、私は従軍記者をやろう、と校長先生に頼んで、平日の試合に行くときは選手と同じように授業を休んでもよいことにしてもらった。公休と言っている。私は小学校の頃ちょっと野球に凝って、スコアブックの付け方を修得していたので、迫真の観戦記を書くことができた。バレー部は指導の土井先生がとても熱心で、鋭い批評を含んだ試合レポートを書いてもらえたので、選手たちも新聞の出るのを楽しみにしている。

 ダンス部は活動がとても盛んだ。練習日には髪型をオールバックにした音楽の山野先生がレコードをたくさん持って来て、講堂にはたくさんの女生徒が拡がって、先生の振り付けるダンスを練習する。

 男生徒も覗き込んだり、音楽を聴いたり、うまく蓄音機の係りになってレコードを乗せ替えたりゼンマイを巻いて手伝ったり、楽しい時間だ。よくコンクールで優勝しているが、どんな記事にするか難しいなと思っていたら、U子さんとT子さんがレコードの曲と踊りの感じを上手に説明した文章を書いてくれて、音楽を聴くのが楽しみになった。

 記事はクラブのことばかりではないぞ。U子さんはたくさんの本を読んでいて、図書館の本を紹介したり、もっとおもしろい本を教えてくれたりする。「若草物語」なんか知らなかったけど、 わくわくしながら読んでしまった。男の本は樫原や上山が教えてくれる。「十五少年漂流記」や「TVAの少年」なんかだ。映画なんか時々町の映画館に団体鑑賞に行くくらいだが、U子さんはこないだ広島市の映画館に総天然色のアメリカ映画「赤い靴」を見にいって、しばらくぼーっとしていた。バレリーナがヒロインの、入場料がすごく高い映画で、親に一所懸命頼んで行かせてもらったんだそうだ。私なんかそんなこと考えもできない。

社会を眺めつつ
 私はたくさんの部員を引率して、町内の役所や工場などの社会見学に出掛ける。一二年生の部員が増えてきたので、かなりの人数だ。町役場や駅や郵便局や、三菱重工、油谷重工、フマキラー薬品などの工場に行って、説明を聞き、動いている現場を見せてもらって、記事を書く。


↑ 当時の「下祇園」駅 (友人・上床直人が想起して近年描く)

 何人かで分担して原稿を書くのだが、まとめて一本の見学記にするのが難しくて苦労する。
 でもいい勉強になる。皆で、おとなになったらどこで働くのがいいのか言い合っている。

 郵便局の二階は電話局になっていて、交換台で町内の電話を接続している。電話を使ったことがない者もいるので、中学校につないでもらったりして皆でしばらく遊んだ。工場では、旋盤やら蒸気シャベルなどの大きな機械、縄綯い機(ナワナイキ)や畳表織り機など見たことのある機械、大きな釜や配管からきつい臭いを立てる薬品機械などいろんな機械を作ったり動かしたりしている現場を眺めて驚きの連続だった。


 電車の駅だって、窓口の裏側に切符がたくさん並んでいるのもおもしろかったが、単線運転で電車が衝突しないように通票を交換する仕組みなんて知らなかったことだった。でも、登記所も覗いてみたが、ここの話はよく判らなくて、書くのはやめた。警察では留置場をみせてもらったぞ。

新憲法のありがたさを実感
 こんな風に、学校新聞にどんなことを載せるかをみんなで相談したり、作業をするのはとても楽しい。ちゃんと読んでくれる人は少ないが、読んだ人は何か言ってくれるので手応えがあって嬉しい。
  それでいろんな智恵が出てくるし、うまいやり方を考え出すことができる。戦争中にはこんなことはありはしなかった。

 5年前に戦争が終わるまで、私は小学校(当時は国民学校といったが)の低学年だったから余計なのだけれど、何か生意気なことを言ったら先生や上級生にすぐに怒られた。決まった通りにしなさい、といつも言われた。命令に従いなさい、と言って殴られた。命令がよく判りません、と言ったら、自分で考えなさい、と言ってまた殴られた。
  それにくらべて、今のように、自分で考えて自分の思うようにやれる、なんて、有頂天になるほど嬉しいことだ。
 そりゃー、自分勝手にやってしまうと皆がぶうぶう言うから、気合いを入れて相談をもちかけなきゃならんけれど。

 そして、みんなはそんなに一所懸命に仕事をするわけじゃない から、時々は「おまえら、やる気あるのか!」と怒鳴らんきゃならんけれど、智恵を出し合って進める仕事だから、お互いに不満はない。みな手応えを楽しみに仕事をしている。文を書いたり筋道を考えたりすることがこんなに楽しいとは知らなかった。このことはみんなそう言っている。

 そして、女の子といっしょに仕事をしていると、こんなに智恵がよく出るものか、ということも最近しきりに実感していることだ。
  いっしょに相談していると、一人では出ない智恵がどんどん出てくる。彼女らは私の知らないことをいっぱい知っているのに、私がちょっと考えたことを言ってみると、びっくりして褒めてくれるのだ。そうすると頭の中が熱くなって、また智恵が出てくる。
「こんな言い方じゃあ通じません。ここが判りません。」とU子さんが言う。なるほど、書き直せばずっと良くなる。

 新聞部の部室として、講堂のステージの横の小部屋を貰った。運動場に面しているので、野球部や陸上部の部員がよく遊びにくる。ダンス部も講堂で練習した後、遊びに来る。時々は皆で流行歌を歌っている。
 美空ひばりの「私のボーイフレンド」というのが、みんなの好きな歌だ。私は流行歌が嫌いなのだが、怒るわけにもいかない。我慢して、時々は彼たち彼女たちの写真を撮らせてもらう。


  写真機やフィルムは貴重品だが、父に頼み続けて貸してもらう。無駄なシャッターは切れないから、ピッチングのフォームや踊りのポーズを入念にかまえて撮影する。

 お天気の良い日には、編集会議を中断して皆で武田山に登ることもある。学校のすぐ西側から斜面が始まる武田山は、400mの頂上まで行くのはちょっと骨だが、中腹がゆるやかでゆったりしていて、立木がまばらで山道でも歩きやすく見晴らしがよい。
  少し登れば広島市街を越して瀬戸内海が見える。春にはつつじが咲き乱れ、甘酸っぱい木いちごの実を摘んだりして、走ったり休んだり崖を滑り降りたり、女の子たちはしゃべりまくったり、楽しく過ごせる。降りてきて、また仕事を続ける。

 こんなことをしていたら、下司な生徒たちが言い触らして、誰と誰がアベックしてる、とか、学校中に野次馬めいた噂が飛び通っている。親や先生ははらはらして見つめているようだ。
  数年前までは、男女は席を同じうせず、と儒教的な教訓の元に、禁欲を美徳として身を慎んでいたのだから。おまけに私たちは街なかの講習会でスクェア・ダンスを覚えてきて、放課後の講堂や教室でレコードをかけてダンス・パーティをやり始めたから、よけいにざわめきは大きくなる。

 だが、前々年に新憲法が施行されて、主権在民、男女同権、そして戦争放棄が新憲法の根幹の精神だと日夜教育されている当世だ。

↑武田山中腹を散策。 こんなに見晴らしがよいのは、戦時中、樹木を薪炭や造船材、はては松根油(代用ガソリン)の原料として、ほとんど切り倒したからだ。

 我々は時代の最先端の行動を示しているのだ、と胸を張って叫ぶ。学校新聞だってスクェア・ダンスだってクラブ活動だって、民主主義を日本に定着させようと占領軍総司令部GHQが懸命に推進している政策の柱なんだ。先生方も講習会や研究会などで指導法を研修されているそうだ。
 そして我々は実際に体験してみて、新憲法下の世界はすばらしい生き方だと思う。


 戦時中の窮屈な何も言うことのできない生き方にくらべて、自由にものが言えて新しいやり方がどんどん実行できる今は、回りに物が不足していて物は不自由であっても、よっぽど今の方が良い。
  日本が戦争に負けてアメリカが勝ったのも、アメリカの社会がすばらしく発展しているのも、社会制度の違いのせいだ、みんなが盛り上げるから活気が出るのだ、と私は今、確信している。

 この間も野球部でちょっと事件があった。町から野球部の練習を指導にきている人が、講堂でやってたダンス・パーティに野球部員が入ってるのを見て、軟弱になるからやめさせろ、と言ったらしい。それが職員室で話題になったとき、最上先生が「野球部員だってダンスするのは当然です。禁止したら反抗してかえって弱くなりますよ」とか言われたというんで騒ぎは終わってしまった。最上先生は女性最年長のこわい感じの先生だ。見直してしまった。

新聞作りの技術
 発行部数600枚の新聞は、普通の月はプロのガリ版印刷屋が刷ってくれる。手書きだが活字のような字が並んでとても読みやすい。でも見出しの字はもっと太くしてください、と頼んだこともある。秋に1回と卒業の月は活版印刷の予定だ。
  できた原稿は福島先生のところに持っていって、見てもらう。綴り方の採点のように、細かく赤が入って戻ってくる。 紙面の制約で、作文なんかどれを入れてどれを落とすか、迷うことがある。 先生に相談すると、たいていおとなしい方を推薦される。

「先生は事なかれ主義ですね」と悪態をついてしまって、ちょっとまずかった。 (恩師追悼 -別ページ)

 「君の字は、もうちょっと読めるように書かんと将来困るぞ」といつも言われる。「他のやつがうま過ぎるんですよ」と言い返すが、T子さんや樫原の字はすごくきれいだ。とても真似できない。
  でも、字は速く書きたいのだ。思い付いた文章をどんどん書かないと頭の中に詰まってしまって後が出てこなくなる。一度考え始めたら、続く文章が後の方まで一遍にできてきて、いくら速く書いても間に合わないのだ。
  新聞社に見学に行って見せてもらった原稿の書き方は具合がよい。一枚の白紙に4行、一行は10文字で、大きく走るように書く。紙はどんどん使うが、速く書けて割と読みやすい。
 この間、近所のお兄さんに「カナ速記術」という本を見せてもらって、一応使えるようになった。カナをくずしたような記号で速記するのだ。文を思い付いた時にすごく速く書ける。 それを使って座談会の速記をやった。
 亀田君のプランで「祇中を斬る」という題だ。
  「斬るて何や」「ほらスポーツ新聞なんかで<カープを斬る>とかやってるじゃないか。斬って中身を見るということじゃ」。
  彼は野球部員でもあるからスポーツ新聞を見ている。
 そこで、生徒会長や役員、各部の代表などを集めて、座談会をした。私は司会と新聞部代表と生徒会書記役と速記とをやり、くたくたになったがおもしろい記事ができた。


↑ ただ一部のみ現存する「祇中新聞」。記念号とて活版刷り。

 そう、私は生徒会の役員なのだ。5人のうちの一人で書記という役になっている。全校生の選挙で選ばれるが、候補者は三年の4学級でそれぞれ推薦されて、演説会に立つことになっている。
  私は「これまでの生徒会の予算を見ると、野球部とバレー部がほとんど使っているが、ダンス部や新聞部のような文化的な部の活動をもっと支援すべきだ」と述べた。
  20人の全候補者が5分ずつ演説した後、校長先生の講評があって、例によってU子さんの話っぷりが一番良かったとお褒めがあった後、
「しかし全候補者とも決まり文句の挨拶しか述べていない。私はどうしたいと政策を述べたのは喜利君だけだ。」と締めくくられたので、私は一番人気のピッチャー大田君を僅差でしのいで当選してしまった。私自身は大田君に投票したのだが。
  おかげで新聞部やダンス部、合唱部などの予算は少し増えたが、野球部、バレー部には恨まれてしまった。

←[論説とは恥ずかしいが、当時の思いを述べている。]


大きくなったら何になる?

 この頃しきりに考えてる。 私は、将来、大きくなったら、成人したら、社会にでたら、どうなるのか。何になりたいか。どうすればよいのか。何をすればおもしろいのか。何ができるのか。何に向いているのか。
 卒業式で優等賞は貰えなかった。小学校では特別に大下賞まで貰ったのに、どうした、と母がなじる。
  でも、来賓の話の中で祇中新聞のことを誉められたぞ。


  ボカァ死ぬときは、アァおもしろかった、と言って死にたいのだ、と叫んで、母を嘆かせる。つまらん勉強なんかしたくない、と口げんかになる。
 だけど、新聞記者にはなりたいとは思わない。所詮、人のやってることを書いてるに過ぎない、と思うからだ。自分でなにかをやりたい、自分の手で、自分の力で何かを作りたい。どんな進路がよいのか、何を勉強すればよいのか、人生の先に何が待っているのか。どう探ればよいのか。誰に聞けるのか。

 理科の宮本先生はおもしろいぞ。理科のほかに、英語も数学も教えてもらったことがある。ぼそぼそとまとまらない教え方なので、皆には評判が悪いが、時々おもしろい話が出る。英語の時間に noise という単語が出てきた。街は喧しい、といった場面だったか。
 先生はとたんに喜んで、「そうだ、ノイズ、すなわち雑音は、電話の品質を示すのに大事な言葉なんだ。君たちは電話は音が大きい方が良いと思ってるだろうが、雑音がいっしょに大きかったら何にもならない。雑音が小さいことが良いことなんだ。」と懸命に説明された。
  皆はぽかんと聞いていたが、先生は戦時中は南方で電話線を敷設する電話技師をしてたんだそうだ。

 二年の時、数学の時間に、「1, 2, 3, ..., n までの合計S を求める公式を考えてごらん」と言われた。
 一晩考えて、

    S = n × ( n + 1 ) / 2
と答えたら、
「こないだノーベル賞をもらった湯川さんは自分でこの問題を考えたんだ。もっといろんな問題があるぞ」といわれたが、もう勘弁してもらった。
  ラジオの作り方で相談に行ったら、電波の伝わり方はこうなんだ、と、電気と磁気が交互に交わる輪っかを紙の上にたくさん描いて熱心に説明されたが、余計に判らなくなった。

 社会科に新しい先生が赴任してきた。元気な若い先生で、新聞部の部室にやってきて、 「君らは社会を知らんよ。社会は悪者ばっかりで構成されているのだ。法律には抜け穴がいっぱいあって、そこを利用すると大儲けができるから、そのために大会社は頭のいい大学卒業生を競って採用しているのだ。ここの中学校の校長さんも頭がいいから、悪いことばっかりしている。僕にはそれが見えるんだ。」などと言った。夏目漱石の坊ちゃんみたいだな、と皆は言い合った。その先生は数日していなくなったが、そんな見方もあるのかと感心した。でも悪いことは何も見えてこなかった。

 宗教をもっと勉強しなさい、自分と世界を考えさせます、と熱心に言う先生もいる。あまりうるさいので、とうとう教会の日曜学校に行く羽目になってしまった。でも行ってみると、何かうそ寒いことばっかり言うので、一遍でやめてしまった。


物作りの世界を覗く
 近頃、おもしろい本を読んだ。社会科の百科事典のような本だが、なかの一節に、物を作る工場の仕組みを解説している。
 「工場で物を作るには、図面がいる。図面は設計者が描く。設計者は専門の学校で必要な知識を学んできているが、工場の実際の生産状況をよく知らないと、実状に合わない、それでは物が作れない図面を書いてしまう。机上の空論ならぬ空図ができる。
  だからどこの工場でも、年配の経験を積んだ設計者と学校を出たての若手は組になって、大きな構造を経験者が設計し、若手は指導を受けながら細かい部分を考えて図面に描き表す。
  それでも図面どうしの間の間違いや、作りにくい仕掛けを考えてしまうことは避けられないから、設計課長による「検図」作業が待ちかまえている。
 設計課長は経験数十年、その人物は<秋霜烈日>型か<春風駘蕩>型かいろいろだが、歴戦の猛者だ。現場にも猛者がいて、「こんな図面じゃ作れるかい」と投げ返されたり、できた物がうまく組み立てられなかったり動かなかったりして大騒ぎになる修羅場をさんざん経験しているから、検図には力がこもる。
 秋霜烈日型の課長にかかったら、若い設計者はたいへんだ。大きな机に広げたたくさんの図面を付き合わせて、ミスが見つかる度に怒鳴りつけられ、次には鉄拳が頭に胴に押しつけられる。しっかり頭に入れ肝に銘じておけというわけだ。
  春風駘蕩型の課長にもミスを洗いざらい指摘されて、じっくりと脂を搾られる。

 検図作業はたいてい時間のたっぷり取れる夕刻から始まるから、いつも夜中までの作業になり、時には夜が明けてもまだ終わっていない。そしてミスを直し図面を描き直す作業が、せかされながらそれから始まるのだ。
 こうしてできた図面一式は製作現場に渡され加工が始まるのだが、ここでは物をどれだけ正確に作り、しかもそれをできるだけ安価に短時間に作るかが重要だ。....」

 読んでいて、わくわくしてきて、体中が熱くなった。まるで私が課長に怒鳴られている若い設計者のような気がしてきた。大人になったらこんな仕事がしたいなあ。経験を積んで設計課長になるのだ。物を作るってすばらしいなあ。手応えがあって、社会の役に立って...。
 この本はおもしろい。読みごたえがある。玉川大学出版会が出してる。分厚い大判のシリーズ物である。もっと読もう。どんな人がこんな文章を書いたんだろう。

父の世界
 私の父は三菱重工に勤めている。ここは工作機械を作っている。機械を作る機械だそうだ。時々父に弁当や届け物を持って工場に入ることがあって、中をあちこち眺めてみる。近所に住んでる職工のお兄さんたちがあちこちにいて、仕事を覗き込むと、大きな歯車が削り出される、真っ赤な鉄塊がエアハンマーで叩かれて長い棒に延びていく、など見とれてしまう。父は製作現場をとりまとめる仕事をしているようだ。


家によく職工さんたちが集まって酒を飲む。「おまえのお父さんはうちの工場(コウバ)の大親父じゃ」と言ってた。時々「うまく出来ん」と言って工場に何日も居続けていることがある。「あん時ゃほんまにどうしようか、思うたよ」「あれがうまく収まったのは喜利さんの智恵じゃ」とか、酒飲みながら出る職工さんの話で、父の仕事を想像する。

「男の一生」という本
 前から何度も読み返している「男の一生」という本がある。父の本箱にあったので読み始めた。進藤義輔伝と副題されている。進藤さんはここの三菱重工の工場を作った人だ。東洋一の工作機械量産工場を作るのだ、と雄大な構想を描き、「東洋機械株式会社」として昭和14年(1939年)に完成させた。
 だがご本人は昭和12年に突然亡くなった。新会社の将来を描くためにアメリカに出張して視察中、トラクターの働きを16ミリ映写機で撮影するために車道に後退して自動車にはねられた。残された会社の人たちが悼んで、この伝記を刊行した。この人は筆頭技術者として東洋製罐株式会社を動かし、その子会社として東洋鋼鈑株式会社を建設し、そしてその子会社としてここの工場を作った。戦時中に三菱に併合されて社名が変わった。

←「男の一生」のあるページ。昭和14年4月29日発行、非売品
 著者:井舟 萬全、進藤義輔伝記編纂委員会 刊 全550ページ
 ご覧のように旧漢字書体、旧かなづかいだが、総フリガナ付きで何度も読み返した。いまでもおもしろく読める。この文章の言い回しや表現は、私に大きく影響した。


 私の父は、進藤さんに追従して、この3社の建設と運営に携わってきた。仏壇に進藤さんの遺影が置いてある。「こんな立派な工場は世界中にもめったにないぞ」と父はしばしば自慢する。私の中学校の建物も元はこの工場の一部だったのだ。
 「あそこの廊下も、わざわざアメリカの木材を取り寄せて張った。木目が詰まっているから、ささくれができない。だから裸足で走っても怪我をしないんだ」などとよく聞かされた。
 この本は、会社を建設し経営する進藤さんの逸話に満ちている。大正から昭和の初期、缶詰の缶の量産技術向上を手始めに、製缶用鋼板製造工場を建設し躍進させ、鋼板製造設備の補修技術や製缶機械製造技術を蓄積した中から、機械中の機械の雄たる工作機械(旋盤やフライス盤など)の、高品質なものを量産して、日本の製造業の根底からのレベルアップを目指そうと活躍する氏の、苦心談、くふうの記、見識を偲ばせる挿話、に満ちている。
  この頃は、たいていの機械、装置類は、アメリカやドイツからの輸入だった。そして製造技術を自社に確立させた企業が発展していった。

 この本は何度読み返してもおもしろい。ふりがな付きだから早くから読み始めたが、難しいところも読むたびに内容が判ってきて嬉しい。文中に父の名も出てくる。父はこの頃に、年末のボーナスに月給11カ月分ほどの高額を貰ったのが自慢だ。
 父は昭和9年、私の生まれる前だが、この会社からアメリカに視察に行った。


↑ 私の工作室
 いろんな型式のラジオや模型を、たえずこしらえていた。

「氷川丸」で2週間の航海、アメリカ各地で製缶機械、鋼板圧延機械、それらの補修機械などの、購入調査、運転・保守技術の習得などで4カ月ほど滞在、そしてまた船に2週間乗って帰ってきた。
 このアメリカ旅行の話は父からじっくり聞いたことがあって、様子をとてもよく知ることができた。
 終戦直後、電力不足とかで毎晩の食事時に2時間ほど停電することが何カ月も続いた頃、真っ暗でなにもできないなかで、「では、わしのアメリカに行ったときの話をしてやろう、」と始まったのが半年も続いた。父を囲み暗闇の中で、兄妹弟が固唾を呑んで聴く。母も聞き手に加わる。


 「昨日はピッツバーグで工場を見た話だったか。そこから汽車でシカゴの工場へ移った。この汽車も大きなもんだぞう。」「世話をしてくれたスミスさんが、休みの日にミシガン湖の公園に自分の車で遊びに連れていってくれた。」

 停電が終わって電気が灯った後、その時の写真を探し出して見ると、若い父がスミスさんや子ども達といっしょに写っている。背景には、りっぱな乗用車、広い砂浜と湖面が映えている。「アメリカ人はみんなこんな車を持っているんだ。」
 すごいな。「しかし日本でも、もっと世の中が落ち着いたら、こんな車を持てるようになるぞ。」 ホンマかいな。途方もない未来の話だ。信じられない。乗用車なんかめったに見たことがないぞ。

 さあ、日本の将来はどうなって行くのだろう。
  「東洋のスイスたれ。スイスは資源が乏しい国だが、時計や精密機械を輸出して国を豊かにしてきた」と校長先生の話。日本は資源がない。工業は戦争で破壊されてめちゃめちゃになったままだ。
 外地に行っていた元軍人や民間人など大勢の引揚者が連日帰国して来ていて、食料がない、職がない、働くところがない、と新聞には暗い話ばかりだ。国民みんなが勉強して働いて、輸出して外貨を稼いで、日本をすこしずつ復興させないと、4等国はおろか、もっと転落して貧民の国になる、と言われる。
 その中を私たちはどう成長していくのか、何者になることができるのか。何をどう学べばよいのか。新聞部の皆で話し合ったりするが、よく分からない。


                <第1章 完>

探していた父のアルバムから古い写真が出てきたのでお目にかけたい。

ミシガン湖畔にて、父とスミスさんの子供たち。

(裏に、September 10, 1934 とスタンプされている。)

裏庭にて餅つき、父と祖母。 1952年か。

 臼と杵(キネ)は、父と私が作った。戦後の食糧難を克服する貴重な道具だった。餅米(陸稲)も畑を借りて作ったことがあるぞ。背景の鶏小屋は、もちろん食料の生産のためだ。


祇中新聞部の主なメンバー (1951年3月)