恩師の十三回忌に追悼
故・福島 清人 先生
(祇園中学・国語。新聞部・顧問)
あだ名:『河童(カッパ)』、当時40代後半
1951年3月 撮影
言葉の術を拝受
■ 1950年初冬のある日、寒くなってきた教室。中学3年、国語の時間。
先生:『今日は文章の響き、余韻、といったものを味わってみよう。』
『 今から私が短い文を朗読するから、皆は目をつぶって聞くように。』
『ある寒い日、私は・・・・・・・・。 春、と私はつぶやいてみた。私の胸に、ポッと赤い火が灯った。もう一度、春と言ってみた。また一つ、赤い火が灯った。もう一度、春と言ってみた。しかしもう、火は灯らなかった。』
『どうだ。皆の胸に火は灯ったか。』
生徒たち:『・・?・・』、『灯りました。』、『分かりました。』、『つまらん、、、』、『何? これ、』、、、
反応はいろいろ。どの子も、一応、じっと聞いていた。ある子:『その文は、宮城道雄ですか。』 先生:『いや。わしが作った文だ。』
ある子:(へぇ〜、先生がこんな文 書くの?・・・)先生:『それでは書物を開いて。 今日は第×節の、詩を鑑賞することを、勉強することになっている。』
(載っているのは、北原白秋の「落葉松」である。)
『喜利、最初の節を読め。』喜利:『 からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。』先生:『もっと、しみじみと読むのだ。気持ちが伝わるように。』
『次の節を、U子さん、読んでください。』
U子:『 からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。』先生:『そうだ。このように読むと、落ち葉を踏んで歩く足音までが聞こえるではないか。』
『良い文章は、気持ちまでも伝える。そこを学んでほしいのだ。』 (講義は続く、、。)
■ リビングストンのアフリカ奥地探検の話が教科書に載っていた。一年生の国語の時間だったか。
1871年にアメリカ人新聞記者スタンレーが、アフリカの奥地で長く消息を絶っていたイギリス人探検家リビングストンを、苦労した探検旅行の末に、タンガニーカ湖畔で見付け出した。
先生:『喜利と小田、この情景を、前に出て演じてみろ。』
喜利:『リビングストンさんですね。』
小田:『そうです。スタンレー君ですか。』
先生:『だめだ、だめだ。そんなに叫ぶんじゃない。 相手はすぐ前にいるのだ。そしてお互いに知っているのだ。
再会の喜びとそれまでの苦労が、どちらの言葉にも込められているのだ。さ、もう一度。』熱演が、いくども繰り返された。万感を一声に込めるというのだ、と説明された。
■ 私が、文を書くことを好きになったのは、この先生のおかげだ。
私は、小学校でもずっと、そして中学校に入っても、作文が好きではなかった。ときどき、「綴り方」「作文」の時間があって、1時間まるまる、大きな紙に文章をぎっしりと書き連ねることを、強要される。題は漠然としている。何を書いてもいいよ、とも言われる。さあ、困った。何を書こう。
題を書いては消し、すこし書き始めては消し、無理矢理ことばを並べていくうちに、少しまとまった文が見えてくる。だが、そこに文をつなげていけない。あせっているうちに時間が迫ってくる。ついに終わりの鐘が鳴る。
やがて、赤ペンで先生の評が書き込まれて、返ってくる。「まとまっていませんね」「無駄が多い文です。よくわかりません」「字をていねいに書きなさい」ある時、こんな文に、福島先生の評が入って返ってきた。「ここはいりません」と前半がばっさり消してある。「ここがおもしろい」と最後の数行に二重丸が付けてある。「これを初めに書いて、その説明を続けると書き易い。途中経過や情景説明は余分です。」と補足してある。
私が苦労して少しずつ書き込んだ部分が、いらない、とおっしゃるのだ。やっと書きたい部分に到達したときに、授業の時間が終わってしまった。あせって、最後は猛烈に乱雑な字で書き飛ばしている。その読みにくい部分を一字ずつ案じながら読んでいただいて、そこに二重丸が付けてある。(前半だって、元々ひどい字で、書いたり消したり、汚い文面だけど。)
なるほど。そこは、言いたい聞かせたいところなのだ。先に書いてしまえば、後はその補足説明だから書き易くなる。
それまで、作文は、文章は、このように書きなさい、初めに情景を説明して、次に自分の状態を説明して、そして、自分の感じたことを説明して、終わりにそれをまとめるのです、などと習ってきた、そんなお手本を読んで聞かされたりしてきた。それに従おうとして苦労してきたのだけれど、書き易いところから書き始めれば、仕事がずっと楽になる。言う相手を決めて、その人に分かるように書きなさい。教場で朗読するつもりで文を書こうとすると、背伸びしてしまって、ろくな文章にはならんのだ、と授業で説かれて、身に浸みる。
以来、作文が苦にならなくなった。どころか、文を書くことが好きになってしまった。クラスで学級新聞を作ろうよ、と言い出して、ガリ版刷りで何号か作った。「2Dタイムス」、2年D組の学級新聞である。これが先生の目に留まって、3年生からは新聞部の部長になって学校新聞を作れ、と命じられた。福島先生は、新聞部顧問なのだ。(以後の痛快な展開は、既に§1に述べた。)
■ 新聞の原稿は、いつも真っ赤になって戻ってきた。
「祇中新聞」の原稿は、すべて顧問の先生に見せることになっていた。内容をどうこう言われたことは無かったが、文章には、ぎっしりと朱筆が入って戻ってきた。漢字や仮名遣いの誤りはもちろんだが、文頭と文末の整合、重複の削除、分かりにくい文の加筆修正、ことばの間違った使い方の指摘と言い換え、など、たいへんな気の入れ方だった。
まず、正しい文章であること、分かりやすいこと、気取った言い方を避けること。一人よがりの言い方は嫌いだ、と、だがこれは遠慮がちに注してあった。文の勢いを削いではいけない。主張をむげに矯めてはいけない。文を殺してはいけないのだ、と念を押された。校閲された原稿を、いただくだけでは終わらない。横に並んで座って、ひとつひとつの朱筆の意味を丁寧に説明される。説明はだんだんに激してきて、『この間違いを、君はこの前にもやったぞ』、『漢字の間違いは辞書を引けば分かるのだから、横着をしないで』。そして、『いつも言うが、君の字はひどすぎる。もっとていねいに書きなさい。これは原稿だから、新聞にはきれいな字になって現れるが、ガリ版を切る人、活字を拾う人はこれではやる気をなくす。字は人を動かすのだ。』と念を押されて、私はしょんぼりと引き揚げる。
「どちらの作文を載せましょうか」と先生に相談すると、たいていおとなしい方を推薦される。 「先生は事なかれ主義ですね」と悪態をついてしまって、ちょっとまずかったのだが、おとなしくない方には何かの主張ががんがん書いてあって、編集上はそちらに惹かれるのだが、文がいかにも荒い。まず、きちんとした文であること、が、先生の主張であったのだ。
■ 「情緒はジョウショと読まないと、自分にはどうしても情緒らしく感じられない。」
教科書に、何かについての情緒を論じた文が載っていて、それに何故かジョウチョと振り仮名してあった。先生はいかにも残念そうに、しかし教科書が厳然と読み方を示しているのだから、反論もできず、くりかえし不満を述べられた。
今日、辞書をひくと、ジョウチョには「→じょうしょ。」とあり、ジョウショには「ジョウチョとも」とカッコ書きされている(広辞苑 第四版)。
当時は、新かなづかい流布や漢字制限、教育漢字制定、など、国語規制の変動激しい時期だった。
■ 言葉には実に厳格、行いはいつも控え目に。文学青年を彷彿。校長先生が放さなかった。
大きな声で叱ることは決してなかった。まして殴ることはない(殴る先生がまだいた時代である)。だが、がさつな子がいいかげんな文章の作文を提出すると、先生は掴まえて克明に文の誤りを指摘する。勘弁してよ、と逃げ回っている子もいたな。
静かな、いつも控え目な、先生方の中でもなるたけ隅にいたい、とひっそりされていた方だった。早稲田大を苦学して卒業されたのだ、と生徒に伝わっていた。私は後に小説の尾崎士郎作「人生劇場」を読んで、早稲田大で仲間とさまよっている主人公:青成 瓢吉 を先生に重ね合わせていた。神楽坂の居酒屋街や芝居小屋をうろついている文士志望の若者の群の中に、先生の姿を思い浮かべるのは、はまり役だった。
ところで、祇園中学の2代目校長・藤井武夫先生は、早稲田大で福島先生と同期だった。英語と商業を教えていたが、生徒は『たぬき』とあだ名した。腹はでっぷりと、眼光ぬけめなく、いかにもやり手の物言いとスタイルは、名にふさわしかった。
でも、悪い人ではなかった。出世するには、あんな人間にならなきゃいけないんだ、と生徒にとって良いお手本になった。数年後に広島県会議員に立候補されて見事落選されたが、祇中卒業生がたくさん熱心に応援してくれて、と、長文の手紙を私は貰ったことがある。
その藤井校長先生が知恵袋として福島先生をさかんに活用された。学期初めや折々の藤井校長のあいさつは、いつも福島先生が原稿を書いているのだ、と生徒は噂した(事実、そうだったらしい)。藤井先生としては、福島先生を立てているというつもりだったかも知れないが、お世辞が上手な人だったから、生徒は寡黙な福島先生に同情した。
でも、おかげで福島先生の作品が今日まで祇園中学に残っている。校歌である。一、 緑かがよう武田山 二、流れさやけき太田川 三、光みなぎる春の窓
久遠の姿ゆるぎなく 山なみ幾重凌ぎきて 空澄みわたる秋の庭
時流を高く抽きんずる 若き血潮と たぎちゆく めぐる三年のいそしみに
そこに学びて我等あり そこに励みて我等あり 雄々し伸びゆく この力
見よ若き名に矜るもの 聴け蘇る国の声 いざ我が友よ 高らかに
真理究めん この集い 次代をになう者待てり 新生の歌 たたえつつ
自由の翼 うち連ね 平和の旗の指すところ 文化の泉 汲みとらん
祇園の暁の野に競う 鍛え磨かん この生命 ああ 我が祇園中学校(祇園中学校 校歌 福島 清人 作詞 山本 寿 作曲 昭和26年(1951年)制定)
そして[校訓]がある。
真純健全なる精神を重んじ、勤労を愛し、ひろく国家社会に奉仕せよ。
常に、現実と理想の調和を求め、真純健全よく勤労と奉仕を重んずるの
実践的人格を培い、平和文化の理念を再建の基盤とする新生日本の使命を
双肩にになって起つの気魄を堅持せよ。同様に、昭和26年制定となっている。この作者は示されていないが、当時の藤井校長が福島先生をたのんで定めたに違いない。
今の時代からみれば、なんとも古風な、と感ずるだろうが、われわれ世代には、実に、じーんとくるなあ。「蘇る(ヨミガエル)国の声」とか、「新生の歌 たたえつつ」は、敗戦後再興に励む当時を映し、「凌ぎきて シノギキテ」、「抽きんずる ヌキンズル」、「矜るもの ホコルモノ」など、読みかねる古語は、古典文学を崇めた(アガメタ)戦前文化を継いで(ツイデ)いる。
さすがに校訓は、昭和53年に、現代的でないからその心をいかして、と、次のようにまとめられたそうだ。
○ 校 訓 誠実・勤労・奉仕
■ 先生の13回忌に、この小文を捧げる
先日、「はじめまして」と、いただいた一通のメールを、勝手ながらここに、抜粋して引用させていただく。
初めてお便りします。
偶然、サイトを拝見しました。
「15歳の私」に登場する国語教師福島清人はおそらく私の亡き祖父だと思います。
私は、祖父の末娘(昭和21年生れ)の子供です。
祖父は91年に亡くなりましたが、私にとっては本当に優しい、穏やかな、尊敬する祖父でした。
祖父が祇園中学で教鞭をとっていたという話は何度も母から聞かされましたが、私が生まれた頃には、当然引退しており、そのような話を大昔のおとぎばなしのように感じていました。
しかし、今回偶然にも喜利さんのサイトで登場する「教師」であった祖父の一面を、確かにそのときにそこで生きていたという証を、このサイトで拝見でき、大変嬉しく思いました。
祖父は私が18歳のときになくなり、これから本当に人生について話ができる、アドバイスをもらいたい、というときでしたので、本当に残念でした。今でも、祖父のことはよく思い出します。
来月にはちょうど祖父の法事があります。
もし、お時間あれば、思い出せることなどあれば、是非、教えてください。先生には、中学卒業後、私が大学生の折りに、修学旅行で生徒を引率して京都の宿にお泊まりのときに訪ねて、「君は文系へ行くかと思ってたら理系へ進んだのだな」と言われたことを思い出す。私は、「モノを作り出したいと思うもんですから」と答え、いろいろと説明したり質問されたりして、興味深く肯かれた先生のお顔をよく覚えているが、それ以来、お目にかかれないままになってしまった。
私はメーカーに職を求めて、まさにモノづくりに邁進する生涯を過ごしたが、その間、文章の持つ力に驚きつつ、過ごした。社の内外に、説得力のある文章を示すことによって、仕事が意外に進展するのである。
そのつど、かって福島先生に文を書くおもしろさを啓発され、付きっ切りでそのワザを磨いていただいた、そのお陰で仕事が進む、充実した生涯が送れる、と先生を思い浮かべ、ありがたく思いつづけてきた。その感謝を表す折りを失ってしまった、と何度も残念に思ってきたので、今般、おぼろに消えかかる記憶をたぐって、この一文をまとめた。せめてこの機会に、この一文を先生のご霊前に捧げたい。
2003. 9. 20(この日、福島 清人 先生の13回忌 法要) 喜利 元貞 謹上再拝
【追記:法要の集いは追憶に充ちて過ごしたと礼状をいただいた。】