銃 後 の
少 国 民 の 記

集団疎開学童の耐乏記

 

 「銃後」とは、銃をもって戦う戦線の後ろ、すなわち祖国・日本のこと。
 「少国民」とは戦線に参加するまでに至らない年代、すなわち子供たち、当時は国民学校と呼んだ初級学校の生徒たちを指す。

 いずれも、戦時の人々の気を引き締め、戦局の苦難に立ち向かわせるべく使われた政治用語である。

《 1. 大戦末期、
   学童の集団疎開始まる 》


 昭和20年という年は、若い人たちには神話の時代のようであろうが、お分かりではあろう、日本の運命を賭けた大東亜戦争の最後の年であり、年半ばに敗戦,米軍占領によって、

日本文化の規範が逆転した時である。

 キリさんはこの時を、子供ながら懸命に生きていた。文化が逆転して規範が裏返しになって、それで当たり前に戻って、やっと当たり前の事がまともに言えるようになった、と驚喜した時である。

 昭和20年は初頭から、敗色濃い世相であった。キリチャンも広島市立己斐(コイ)国民学校4年生。防空頭巾をかかえて学校に通った。
 毎朝、近所の広っぱに集合して、6年生の班長の点呼,号令で、隊列を組んで登校した。

  校門に差し掛かると、班長が「歩調とれッ」と号令する。班員は行進の歩調を揃えて奉安殿の前に進み、東方遥拝、楠正成の銅像と二宮尊徳の銅像に敬礼してから整列解散、それぞれの教室に向かった。

  遅刻など思いもよらなかった。行進の態度がふにゃふにゃしていると、班長や上級生、時には校門で睨んでいる監督の先生の前に立たされて、気を付け、の姿勢のまま、両頬にたっぷりとビンタを喰らった。(平手でほっぺたを、力一杯ひっぱたかれるのである。)


歩調そろえて登校、
  もろもろの権威に敬礼

 (奉安殿、二宮尊徳、楠木正成、
  校長先生、生徒隊長、来訪軍人、、)

 登校の途中、冬の空にしばしば米軍の爆撃機 B-29が単機で現れて、長く飛行雲を曳きながら、高く横断した。時には周囲で高射砲の弾煙が並んだり、小さな戦闘機が追ったりしたが、B-29はまっすぐに飛び去った。
  生徒はみんな防空頭巾をかぶって、こわい班長もあんぐりと口をあけ青鼻汁を垂らしながら、空を見上げていた。 時々は空襲もあって、防空壕にもぐった。
  ある日は近くの呉市にたくさんの艦載機が来襲して、めちゃめちゃに爆撃、銃撃した、と伝わってきたりした。大都市は次々に空襲を受けていた。

 広島市内の、建物強制疎開が始まった。家々の密集した市街地に建物を強引に取っぱらった大通りを作って、空襲時の防火線と避難道路にするのだ。
  指定された家の住人は追い出されて(行き場のない人には遊廓の空き家が当てがわれたと聞いた)、勤労奉仕で徴集された町の人々が、家に綱を付けて曳き倒すのだ。
  己斐駅前の名代の菓子屋が壊されたときには、キリチャンも近所の腕白と連れだって見物に行った。見ものだったが、菓子屋の子は泣いていた。

 学童の集団疎開も始まった。山間部に隔離して、混乱時の足手まといを避け、また次期戦力に温存するのだ。
  己斐校では、結局、3年生以上、100人余が志願して、世羅郡東村と大見村に行くことになった。広島市から東北方向に、直線で約60kmの中国山脈まっただ中の村だ。

 5月12日早朝、広島駅頭で大勢の他校生といっしょの壮行式があり、万歳に挙手の礼で見送りの親と別れた児童たちは、遠足気分にはしゃぎながら汽車に乗り込んだ。
  山間をあえぐ汽車が途中でトンネルを越すと川が北行するのを見つけて、異境を感じたりしながら、3、4時間もへて小人数に別れつつ、次々と小さな駅々に降りていった。
  キリチャンの50人も、あまりの田舎駅にびっくりしながら出迎えのトラックの荷台にしゃがみ、険しい谷間の荒れた道を揺られて、夕方、やっと田圃の中の小さな学校の、畳を敷いた教室に、これからいつまで暮らすか判らない住処に、ふくらんだ小さなリュックを抱えて座り込んだ。

 部屋は5月というのにひんやりして、だから大火鉢に炭火がおこり、そして歓迎の夕食が、久しぶりに見る山盛りの真っ白な飯も鮮やかに待っていた。
  が、実は児童たちは途中の乗り換え待ちの駅で、携行した2食分の弁当を、それは指令では日の丸弁当と定められていたが、

親たちは無理を重ねてヤミの材料を集め、卵焼きや甘いきんとんをたっぷり詰めていたので、残さず胃袋に納めていて、もう食欲がおこる状態ではなかった。
  それでも日頃の飢えを思い出すと、いっせいに食べ出して、とうとう本当に喉元まで詰め込んでしまった。やがて数日後からは食事は貧弱になって空腹に苦しみ続けるのだが、この時の口元まで喰らった満腹感、そのとき出てきた消化不良のゲップのたのもしい記憶は、あとまでみんなで嬉しく言い合ったものだった。

 親から離れた寂しさは、突然襲って来る。隣室の女子組では初めての夜から泣き声が洩れていたが、男の子は鈍い。
  一週間した頃、誰かがいきなり泣き出すと、たちまち周りに移って、意地っぱりの6年生の組長までが、歯を食いしばってうめき出す。
  ひと月ほどもそんなことが続いたか。キリチャンも、教室で授業のさなか、ふと、父親のこと、にわか雨の夜に駅頭に父に傘をもって出迎えたことを思い出すと、なぜかワッと泣き出してしまって、するとクラスの中の疎開学童10人ほどだけが10分くらいもいっしょに泣いた。
  あとの20人ほどの地元の子は、遠くからやってきた異人種たちを白けた顔で眺めていた。「君らは海を見たことがあるか」と会ったそうそう聞かれて、迷惑そうな風情の彼らであった。


《 2. 集団生活の哀歓 》

 日々、疎開学童は、早朝いっせいに寝具をたたむと、組長や引率の先生の号令で、近くや遠くの神社、時には村境までも駆け足、東方を遥拝し、戦陣訓のようなものを唱え、体操や冷水摩擦。やっと朝飯にありつく。
  授業にも、午後の日課である<鍛錬>にも、
 「戦地の兵隊さんの苦労を思え」、
 「皇国の御恩を忘れるな」、
 「父母の慈しみを偲べ」
と繰り返し叩き込まれる軍隊式の強要社会であった。

  鍛錬とは、体操であったり行軍(行進)であったり、山行き、水泳、ある頃からは松脂採取(揮発分を蒸留して軍用ガソリンの足しにする)であったり、すべては体を鍛え、団体で文句を言わず一緒に行動することを体得させるプログラムで満たされた。
  手旗通信やトンツー電信も訓練した。山の中で大勢で走り回る戦争ごっこはけっこうおもしろかった。手紙(学校や親への紋切り型の報告、戦地の兵隊さんへの慰問文)や、日記、作文を、しきりに書かされた。

  風呂の水汲みや便所掃除はつらい仕事であったが、やがて慣れた。
  「欲しがりません、勝つまでは」、
  「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」、
  「訓練には限りがない、力は無限だ」 ....
戦時を忍ぶ標語が、絶えず唱えられた。

当時を伝える 新聞残片

 長い農繁期休暇があって、疎開学童は手分けして村中の農家へ手伝いにいった。麦刈、田植え、苗運び、飼い葉作り、稲架(ハサ)干し、など百姓仕事は一通り経験した。
  非力であんまり役には立たないのだが、田圃の夏草取りには酷使された。
 子供の手と足は水稲の根を痛めず、目が低くて葉の下の雑草がよく見えるので、大人がやるよりも結果が良いのだ。


 だが、たいへんな仕事だ。夏日の照る水田はムムーーッと蒸し暑くて、稲の葉先で目、顔面、体中をチカチカ刺され、足にはヒルがたくさんぶら下がり、イネとヒエの似た葉を間違えて抜くと、監督の農家のオバサンにドヤシつけられてしまう。

  それでもせっせと農家に通ったのは、銀飯が腹いっぱい食えるからであった。疎開学童には配給食料しかなかったから、いつも空腹だった。せめて一口100回噛んで食えと強制されて、茶碗一杯の麦豆飯を1時間かけて喰ったが、すぐに消化してしまって、後は、かすかに甘味のある木の葉を土地の子に教えられてしゃぶったりした。ドジョウやナマズも採ってきて食べた。

 ある日、カタツムリは上等な食品なのだ、と誰かが言い出して、山へ入ってたくさん捕ってきた。
  殻から中身を取り出して、醤油をつけて七輪の炭火で焼くと、実にうまそうな、サザエのツボ焼きのような匂いがあたりに充満した。

  惹き寄せられて、洟垂れ学童が輪になって七輪を取り囲むと、カタツムリの身はどんどん焼け細って、最後に刻み分けて口に入れたかけらは、味などなかった。だが、あの空腹にしみこんだ、焼けているときの匂いは、終生忘れられない。

 当時はやった「ラバウル小唄」を、どこから伝ってきたのか、皆で良く歌ったが、その内、替え歌ができた。寮長の6年生、佐々木君あたりが作ったように思う。

  替え歌

 さらば広島よ また来る日まで
 しばし別れの 涙を隠し
 遠い広島 あの山見れば
 松の木陰に 北斗星

  元の歌詞

 さらばラバウルよ また来る日まで
 しばし別れの 涙が滲む
 恋し懐かし 島山見れば
 椰子の葉陰に 十字星

 寮の裏手の崖の上で、大勢でよく歌った。涙を隠し、とか、恋し懐かし、とは言わないとか、やせ我慢に満ちていて、当時の気分がよく現されている。後に、わが家に帰った頃に時々歌っていたら、母がうしろでふと聞いていて、涙ぐんでいたようだった。

 皆でよく歌った歌は、「抜刀隊」「加藤隼戦闘隊」「ラバウル航空隊」「雪の進軍」などの軍歌、「勝ち抜く僕等、少国民」「ぼくらの団結」「山の杉の子」など少国民の歌とか。明治天皇御製の和歌とか万葉集の防人の歌などを、厳かなメロディーで歌うことも教わったなあ。


 7月18日、母親たちが集団で面会に来た。キリチャンの母も妹を連れてトラックから降りてきた。皆、わが子とふろに入り、並んで寝て、あくる日にまたトラックの荷台に固まって帰って行った。

 その前日、何かがあって、副組長が制裁された。組長の命令で、6年生の副組長が、3年生から6年生にいたる男子生徒全員から尻を叩かれた。

 しかし、制裁の儀式は厳粛に行われた。その子に巣喰う「我心」を追い出すのだ、天に代わって我心を征伐するのだ、決して個人的な恨みで暴行するのではない、と組長は宣言し、罰を受ける副組長も、我心を捨てますと宣誓して、歯を食いしばって耐えた。
  我心、すなわち「わがまま」は集団生活を乱し、陛下に報恩の赤志を損ねる、として、日夜、訓戒されていたのである。

 

《3. 新形爆弾で
    広島市が壊滅?》


 原爆が広島に落ちたことは、すぐには伝わってこなかった。
  まず、その日(8月6日)の夕方、広島駅付近に空襲があったらしい、と伝わってきた。次の日の伝聞は、空襲がその隣の横川駅にも及んでいるもののようであった。
  広島市が全焼したと伝わってきたのは3日後であった。これは目撃者のいた地点と逃げ帰るに要した日数とを示しているもののようである。

 全市壊滅、新型爆弾、原子爆弾であるらしい、などの全容が明らかになるのは、数日後から届き始めた小さな代替え新聞(広島市の新聞社が焼けたので、どこかの他社に印刷依頼した)が少しずつ報じ出してからである。


制裁の図  

 キリチャンも順番がきて、おそるおそる叩いた。日頃その子は、その弟とともに威張っていたので、叩きたかったのではある。
  その子に限らず、兄弟で来ている子は、特に下の子が実力以上に威張っていた。皆に叩かれたその子の尻は、あくる日は腫れ上がって歩きにくそうだった。
  母親とふろに入るのをいやがったが、強いられて見られてしまった。母親は泣いていたと言う。その親がその一月あとの原爆で死んでしまった。皆は叩いたことを後で悔いた。

 引率の先生が苦労して広島に戻り、一週間ほどかけて、全学童50人の家を訪ねて、それぞれの家の消息を持って帰ってきた。疎開学童は、一人ずつ先生の前に呼び出されて、かしこまって聞いた。
  告げられたとたんに泣き出す子が何人かいた。母校の街は市域の辺縁にあって、爆心地からの火災は川向こうで止まり、学区の街での死者は少なかったのだが、市内の建物疎開の作業に駆り出された人が多くて、不幸な目にあった。多くは母親だったが、両親を失った子もいた。

 キリチャンの一家は無事だった。父は、一度は町内警備隊の役を仰せつかったが、軍需産業の要員であると軍から指定されて、郊外の航空機エンジン工場(祇園の三菱重工)に戻っていて、難を逃れた。
  母と弟は自宅で、その時は幸い爆風の影にいて、怪我を免れた。祖母と妹は縁故先に疎開していた。
  父は被爆直後、職場から救護隊を組織して、市内へ急行した。燃え盛る市内から数十人を救出したが、そのほとんどの人は一月も生存しなかったという。(死因の大半は放射線障害であろう。当時、広島の人は「ピカのガスでやられた」と会話した。)
《 4. 敗戦、
    荒廃の故郷へ引き揚げ 》


 さて、田舎で8月15日はお盆、夏を締めくくる大事な祭事。地元の人は疎開学童を手分けして前夜から自家に招いてくれた。
  キリチャンも名家・原田さん宅にて、りっぱな墓地を清めたり花を挿したりし、夜は「鮒のてんぷら」や大きなよもぎ餅にかぶりついて、久々に食欲を満たす。

 翌15日朝、役場から村中に触れが廻り、正午から原田さん一家に交じってラジオの前に座れば、聞き取りにくい声で、終戦の詔勅だ。キリチャンにはまるで意味が判らなかったが、中学生の息子さんが、「日本は、負けたんじゃー」と呻いて、一同は唖然となる。

 それから幾日ほど気の抜けた生活が続いたか。やっと9月13日に、疎開学童は連れだって、今度はトラックも特別列車もなく、山道を歩いて満員の汽車に乗り込み、故郷に向かった。
 ひどく傷んだ汽車がどうやら広島駅に着くと、プラットホームからいきなり海が見えて驚かされた。遮っていた家々が一面の瓦礫に消えて、数キロ先の海岸が目前にあった。


駅頭焦土  


 わびしい解散式の後、自転車で迎えに来ていた父と焼け跡を2時間ほど歩いて、郊外に越していた我が家に帰った。
  広島市内の前の住処は爆風でひどく傷んで、また通勤事情や治安の不安もあって、勤務先の社員寮の一室に転宅していた。
  そのまわりのたくさんの寮室には、戦時の徴用で集まっていた大勢の臨時工員さんたちが故郷へ引き上げた後へ、市内から焼け出された人たちが、次々と居座り加わってきていて、互いに顔が会うと、
  「ピカドンのときアンタは? 」
  「そんとき私ゃドコでドウなって、ドウ助かったけど、コンナ目にあって、」
と、あらゆる悲惨な場面が語り交わされた。
(人々は原爆をピカドンと俗称し、そのうち、ピカと縮まった。)

 キリチャンが転校手続きのため元の学校(己斐国民学校)に行ってみると、出発前にイモ畑になっていた広い運動場には、今度は長い溝が一面に掘り進められていて、そこに数メートル間隔で、見渡すかぎり、火葬した人骨が体形を保ったまま並んでいた。
  疎開でいっしょだった同級生が偶然に来ていて、
  「ここに被災者が市内から避難してきて、700人が死んだんじゃと」
と教えてくれた。その子にもっと話を聞きたかったのだが、白骨の列に恐れをなして、キリチャンは早々に逃げ帰ってしまった。
 (この場面は、とても絵に描くことができない)

《 5. 世は一転、
    復興と成長と 》


 やがて、米占領軍がジープや10輪トラックに乗って現れ、ラジオはカムカム英会話番組が人気をとり、学校では教科書のあちこちに墨を塗って民主教育が始まり、先生や上級生は威張らなくなった。

 戦後の数年は、食料事情も交通も電力も、戦中よりもひどくなったが、ちょっと生意気なことを言うと殴られた陰惨な空気がなくなった解放感あふれる時代感覚とともに、キリチャンは、疎開先で習い覚えた自作の藁ぞうりで小学校に通い、やがて中学校では人並にニキビをこしらえ、強くなった女の子たちとともに青春の胸を焦がして、いっときベースボールに夢中になったその次は学校新聞の制作に狂い、その次はラジオ作りから校内放送の番組作りに熱中、と次々にいろんな集団に参加して揉まれながら、自由の満ちたありがたい時代に感謝しつつ、成長していったのであった。

 だから、高校生の時、京都に引っ越してきて、映画「原爆の子」の鑑賞会があったとき、ノンキな級友たちが口々に
  「あんなに悲惨に描かんでもええのに。あれは映画の誇張や」
などと言うのにムキになって反論して、
  「現実はモット酷かったのだ」
と、ついでに
  「戦時中はひどかった、戦争はあってはいかん」


と言いまくるものだから、女の子たちに煽られて、反戦論者の牙城たる生徒会にかつぎこまれそうになったりした。

 振り返れば、戦時中は暗かった。物の不足もありはしたが、無理が通って道理が引っ込む理不尽な世相が、子供の世界と言えども強い圧迫感となってかぶさっていた。
  上級生が、先生が、親が、軍人が、警察官が、弱いものをつかまえては、無理を強いた。反抗すれば制圧される仕組みが、古めかしい理屈とともに、幾重にも取り囲んでいた。

 どうやら、ひとこと言えばたちまち「生意気だ」と押さえつけられた被害意識を反骨のバネにして、道理が通る世を求め求めて、キリさんは成長してきたようであるらしい。


《 付. その後 》
 この人々の同窓会が既に何度か開かれた。人々は皆たくましく成長し、今、還暦を過ぎて孫を愛でているが、世を終えた人も幾人かになる。
  だが、もっとも苦労をされた先生方は、今なお元気だ。この難行を背負うべく若さと剛毅で選抜された方々だ。世の逆転にも英知で対応して、教育の責務を果たされた。座は賑わう。

(了)

父の原爆体験記へ

もくじへ戻る