被爆直後の救助隊「原爆被爆体験記」京都府原爆被災者の会・刊 より喜利 光夫 (68歳/1975年) |
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| 私は広島市外祇園町(現在は広島市に編入)にある三菱重工業に勤め、当時、施設課長であった。 前夜の空襲警報は一応解除されていた。私たちは、8時出勤早々から防空会議が行われるので、階上の会議室に5人ほどが、まだ全員が揃わぬので待ち合わせていた。前夜から徹夜で警戒に当たった人たちで、話もなくボンヤリとあくびをしながら、机にもたれていた。 そんな時、屋外がピカピカピカ...と青白く光った。と誰かが 「照明弾か」 と言った。 「今ごろになって照明弾か」 と私は<バカの昼行灯か>との侮蔑をこめてつぶやきながら立ち上がった。 すでに2人の仲間がバルコニーへ出て、私が3人目に室外に片足を踏み出し、光り続く南方を見ると、中空に灯光形状の焔が燃えさかっていた。その瞬間、ドーンと轟音、続いてバァッと爆風が顔面に痛いくらい吹き付けた。私たちは思わず室内に引き返して、机の下にもぐりこんだ。 |
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原爆による被害のようす
(最新地図に被爆図を重ねて示す) (1),(2) は救助隊の出発地と目的地。 <クリックで 拡大図 別窓表示> |
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爆風はおさまった。私たちはもう一度、バルコニーに出て南方を見た。隣接する油谷重工業の屋上に、先程の輝きは消えて爆煙に変わり、黒い煙がもくもくと盛り上がっている。 |
当時、広島市の中心部は防空対策から、建物の疎開工事が行われていた(幅広の帯状の空き地を形成して空襲火災の類焼を止める)が、人手不足で軍需工場にも勤労奉仕団を派遣の要請があり、当日はこの工場からも350人の奉仕団が、爆心地から7、800mの堺町に出動していた。 直ちに救助隊を出すことになり、強健な者60人が選抜されて、私は副隊長に指名された。隊員はそれぞれ軍装に近似の服装を整え、工事器具と弁当を携帯し、付属病院の医師1名と看護婦2名、また工場に配属の航空少佐も加わって、隊伍を組み、午前10時ごろ徒歩で出発した。 |
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長束の半ばまで来ると、数軒の家が火災で消火作業中である。また東に見える牛田から二葉にかけての山の数カ所に煙が上がっている。 広島市内への橋は、こわれたり付近が火事で通れない、との情報があり、わが隊は市電の鉄橋を渡ることにして、新庄橋の北詰から川添川−己斐川の右岸(現在は放水路に包含されている)を迂回して、己斐町−福島町−天満町−堺町に至る、いくつかの鉄橋を渡るコースを選んだ。祇園町から堺町までの全距離が15kmくらいの回り道になる。 |
これより先、高層の空から忽然と湧いた黒い数条の雲が、爆心のキノコ雲に向けて逆放射状に集まってきて、中心より半径2km以内の空は真っ黒になった。続いて、大粒の雨が降り出し、新庄橋に来たときには大豪雨となった。この雨をまともに受けて、私たちは全身ズブ濡れになった。しかも煤煙を含んだ黒い雨で、顔は汚れ衣服も黒ずんだ。この豪雨は己斐町に至るまで40分間続いたが、カラリとあがって青空になった。 己斐町に出て、市電の鉄橋を渡るとき、栗の枕木が燻っている。爆風の熱線で、燃えにくい枕木を長時間にわたり燻らせる、何と威力ある爆弾だ、と一同がいまさらに驚いた。 そのとき、ひと騒ぎがもちあがった。医師のグループの立てた救護所の旗に、7、8人の負傷者が群がって来た。白衣の医師に、われ先にすがり付くようにして、 |
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そのほとんどは女の人で、顔は一様に黄灰色であり、なかには頬や眉の皮膚がめくれてぶら下がっている。衣服がまた破れて垂れ下がっている。まさに惨憺たる様相であった。 堺町筋を東に、勤労奉仕団の人はいないかと、探しながら進んだ。路面には、見渡す限り死体が横たわっていた。さっそく一人の奉仕団員が、路傍にうずくまっているのを見付けた。足を負傷して衰弱もしているので、直ちにタンカに乗せて送り帰した。 道路の死体もあらためて綿密に調べた。ふしぎに、この人たちは無傷であったので、顔を確かめ得た。初期の衝撃で路面にたたきつけられて即死したらしい。この中には団員はいなかった。 |
われわれは引き続いて、半壊の家の中や倒れた屋根の下などをかきわけて団員を捜したが、見つからないので、住人の救助に当たった。一人の婦人が、潰れた家の下敷きになって、助けを求めていた。瓦礫などを取り除き、柱を2本も3本も切って、3時間にわたり手を尽くしたが、 太陽も西に傾き、救助作業も一段落したので、われわれは現地において、状況分析を行なった。奉仕団は、当日の朝ここに到着後、数班に分かれて、家や壁を引き倒す作業に取りかかった直後に被爆した模様で、一部の人はそれらの下敷きになったが、多くの人たちは市外に向けて逃げたものと推察された。せっかく救助に来たものの、多数の団員を助け得ず、残念に思いながら夕刻の道を歩いて会社に帰った。 |
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前記の日下部君は、それ以来会社の病院に半年間入院して、頭髪が抜け、歯までが抜けるなど心配な容態であったが、幸いに回復して、60歳近くまで生き延びられた。団員350人中、この人のように生存した人は数人だけである。 後日になって思い当たったのは、当夜帰社して空襲警戒となり、会社で夕食後ひどく嘔吐した。こんなことは何年かぶりで、私にとっては異状であった。 × × × 1995年(平成7年)没 |
父の書き残した原爆体験記を、近く巡り来る57回目の8月6日にちなみ、ここに掲げる。 父の会社は、戦時下、三菱系列に統合されて、軍需産業の基礎になる工作機械類の量産に邁進、さらに航空機用エンジンの大量生産に取り組んでいて、父は「産業戦士」として兵役も免れ、日夜、忙しく働いていた。 戦争の最後の年、1945年(昭和20年)は敗色濃くなり、各地の大工場、大都市は空襲を受けて被害が大きく、残存する地方工場の生産力がさらに重要となって、工場屋上に対空機関銃座が設けられたり、工場屋根が迷彩模様に塗装され、さらに生産ラインを山中洞穴に移設して空襲を避けようと、近くの山腹に多数のトンネルを掘り進めたりしていた。(戦後、これらの残骸を私は目撃して驚嘆した。) 「軍都・広島」はいずれ爆撃されるに違いないと、市や工場は防災対策に努め、市民は疎開(田舎への転宅)を勧告され、学童は集団で山間に移住することが推進された。 そこへ、世界初の原子爆弾が投下され、惨劇が展開された。その姿がこうして語り継がれていく。 私の別の体験も、別の章に掲げる。知ってほしい話だ。 2002. 7. 31 喜利 元貞・記 |
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