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病変タンパク質の迅速な検出

 −−MALDI-TOF MS の 臨床検査への活用−−

病状を調べる臨床検査

 病院で、患者さんの症状や病因を調べるために、体の組織や血液の少量を取り出して、その内容のいろいろを、種々の分析装置や観測装置を使って測定し、医学知識に照らし合わせて病状を判定している。これを臨床検査という。
 実用されている検査法は無数にあるが、まだ 調べることのできない病気はそれ以上に多い。
 また、これまでの検査方法では 時間がかかり手間がかかり、あるいは判定が不十分、被検者の負担が大きい、など改善が望まれる手法もたくさん残っている。
 タンパク質をずっと手軽に調べることのできる MALDI-TOF MS法は、病気の探索と、検査法の開発、改善のための有力な武器になっている。
 研究が進んでいる一例を紹介しよう。


異常トランスフェリンのじん速な検出

  トランスフェリンはヒトの血清中にあって、を結合して運搬するタンパク質である。 右図→
  分子量は約80kDa(ダルトン、分子量の単位)、右の図のように、679個のアミノ酸がペプチド鎖として結合し、2個所にそれぞれ2.2kDaの糖鎖が接続している。

 ところが、ある種の先天性異常を持つ人や、体調の悪化している人では、この糖鎖が部分的に欠落していることがある。まれな病気だから、負担少なく検査できることが望ましい。


タンパク質
(蛋白質 protein)
  生物体の構成成分の一をなす複雑な構造の含窒素有機化合物。基本構造は、鎖状につながった百個以上のアミノ酸残基から成る。細胞質や核に含まれるものは生命現象に密接な関係をもつ。酸または酵素により加水分解を受けてアミノ酸のみを生ずるものを単純蛋白質、他を複合蛋白質(糖蛋白質・リポ蛋白質・色素蛋白質など)という。動物の重要な栄養素の一であり、工業的にも重要。   (広辞苑より)

(アミノ酸の構造式、記号は、3種類だけ例示した)

 タンパク質は、多数のアミノ酸の、両端の H-と-OH が取れて、その位置に横並びに、数百個の種々のアミノ酸が決まった配列で結合して、その長い列が、その配列で定まる ある形で折り重なり 絡まって、塊状の1分子になっている。

  トランスフェリンでは、さらに特定のアミノ酸の端に、糖鎖と呼ぶ炭水化物の枝が結合して、1分子ができあがる。小腸で 鉄分子(液体中でイオン)を受け取って抱き抱えたり、血中を流れて他の器官で放出したりする機能が現れる。
 糖鎖が加わっているタンパク質を糖タンパク質と呼ぶ。

 アミノ酸(と糖鎖)が並んだ配列を1次構造、塊状に折り畳まれた形状を高次構造と呼ぶ。

 ←左の図は、X線結晶構造解析法により測定されたトランスフェリンの立体構造を示す。赤い球が、運んでいる鉄分子である。

 この図は、京都大学 大学院 農学研究科 応用生命科学専攻  応用構造生物学分野研究室(廣瀬 正明 教授)のホームページより、ご厚意を得て、引用しました。
 両眼で熟視すれば、立体の形が見えてきます。

Tf3+:三価トランスフェリン。
    プロトンが3個付いて、
    正の3価に荷電している。
    m/z は、mの1/3になる。
IgG5+:五価の免疫グロブリンG。

 ←左の質量スペクトルは、正常人と患者の採血試料の、MALDI-TOF MS 測定結果を、上下に対比させて示す。
 表示範囲には、 双方とも、正常トランスフェリンの三価ピーク Tf3+ と、免疫グロブリンGの五価ピーク IgG5+と六価ピーク IgG6+ が得られているが、患者由来のスペクトル(a)には、糖鎖が片方欠落した 副ピーク(着色部分)が、約730目盛りほど低い位置に現れている。

*三価イオンのスペクトルは、質量/電荷数(m/z)が一価イオン質量数の1/3に測定されるから、約730目盛り左にシフトしたピークは、糖鎖1本(分子量約2200)の欠落を意味する。


試料の作成が簡単

 この測定には、抗トランスフェリン抗血清を被検者の血液中の血清成分に混合する免疫沈降法によって得た沈殿物を、そのままサンプルとして用いていて、それ以上の特別な精製(不純物除去処理)をしない簡便な調整方法ですませている。
 採血した血液から血清を分離するには、また、血清から沈殿物を分離するには、試験管を遠心分離器に入れて、数分間運転すればよい。
 抗血清は、ウサギなどの実験動物の体内で免疫反応を起こさせて作製する。昨今は純品が市販されている。

  サンプルには、加えた抗血清や血清中のほかの成分が混入しているが、MALDI法では、一度に全成分をイオン化させ、成分イオンを、質量の違いによって分離して、測定する。
 これまで使われてきた生化学的な湿式分離測定法に比べて、はるかに簡単な操作で分析できる。
 また、これまでのイオン化法では、分子がばらばらに分解してしまうので、こんな高分子の試料は、質量分析では扱えなかったのだ。

 試料の調整が簡単になり、測定が短時間ですむので、臨床検査や医学の実験のような、多数の試料を簡便に分析したい用途に効果的な方法である。

物質をイオンにして、分子量を測る

 物質をイオンにすれば、電気や磁気の力で動かすことができ、動く経路や速さから、重さを測る=質量の測定が容易になる。質量から分子量 が分かれば、分子構造を推定できるのだ。
(電荷の重さzに対する質量mの比、m/zが測定される。z=1に対する m/z=質量数=分子量。 )

 タンパク質や核酸のような、生体の中で重要な役割をになう高分子物質のイオン化は、以前にはお手上げであった。
 通常のイオン化法は、分子に、強い光や電子ビームを照射して、結合している電子や弱い結合部分をはぎ取って、電気的に正または負の電荷を持った粒子にするが、 分子量が数千〜数万の物質は、イオン化しようとすると、分子がばらばらに壊れてしまうので、その多数の断片の質量スペクトルから、元の物質の分子構造を間違いなく推定することは、はなはだ困難な作業であった。

 MALDI法では、試料と「マトリックス」と呼ぶ特殊な物質とを混ぜておいて、強いレーザー光をパルスとして、ごく短時間あびせる。光が、試料には直接に吸収されず、マトリックスのみが吸収して活性の強いガスになるような条件を選ぶ。マトリックスが、プロトンや陽イオン、それ自身のイオン、電子などになり、これらが試料分子に付着して、分子イオンになる。 (下図 ↓)
 試料分子はソフトにイオン化されるので、 壊れていない分子のままのイオンになり(親イオンという)、分子量を知ることができるので、物質の同定が確実になる。

 MALDI法は、イオン化効率が高く、広範囲の物質がイオン化でき、未精製混合物でも安定にイオン化できる。
 また、瞬時にパルス状にイオン化されるので、後節で述べるように、検出電極に走り着く時間で質量を測定する、簡便な『飛行時間型』質量測定法 を採用することができる。


イオン
【ion】
(ファラデーが電気分解のとき電場で移動すると考えられるものを、ギリシア語の「行く」という語に因んで名づけた) 正または負の電気をもつ原子または原子団。陽イオン(カチオン)と陰イオン(アニオン)がある。気体分子(原子)は、X線や放射線などの作用により電子を失うか得るかしてイオンになる。電解質は水に溶かすと電離してイオンを生ずる。

原子量
天然の元素の原子の相対的な質量を一定の基準に基づいて表したもの。以前は天然の酸素を基準にとり、その原子量を16とした。1961年以降は質量数12の炭素原子を基準にとり、その原子質量を12として他の元素の原子の質量を表す。

分子量
分子の質量の相対値。その基準は原子量の場合に準じる。

スペクトル【spectre フランス】
1. 光を分光器にかけて得られる、波長とその波長における強さを示したもの。その形によって、連続スペクトル・線スペクトル・帯スペクトルに分ける。
2. 複雑な組成のものを成分に分解し、その成分を特定な量の大小に従って順次配列したもの。

スペクトル分析
原子・分子がそれぞれ固有のスペクトルを持つことを利用して行う化学分析。

質量分析器
イオンの質量を測定する装置。磁場と電場を用いて、イオンの運動する方向やエネルギーが違っても質量の等しいものが一点に集まるような集束を行なって、イオンをふるい分ける。

(以上、広辞苑より)

測定条件の検討

 試料の種類に対応して、マトリックス物質を適切に選定することが重要である。 (よく使われるマトリックス剤を、参考文献(2)より拝借して、別表に示した。)

 

 2種類のマトリックスに対して得られたトランスフェリンのスペクトルを、下図に示す。 ↓ 

 2種類のマトリックスに対するトランスフェリンのスペクトルを比較すると、シナピン酸よりもCHCAを使用した方が、多荷イオンの出方が大きい。すなわち、1分子に数個の正電荷が結合したイオンがたくさん生成されている。
 n荷の多荷イオンにより、1/nの質量のところに、多数の鋭いピークが現れている。

 一般に、低質量域は高質量域よりも、質量分析装置の質量分解能が良好なので、ピークは鋭く、谷は深くなる。

 今、ここでの課題は、トランスフェリンの変異体を検出することにあるので、Tfピークの低質量側が、隣接ピークとできるだけ分離していること、が望まれる。

 図を観察すると、CHCAを使ったスペクトルのTf3+ピークにおいて、低質量側に隣接するIgG6+ピークとの間の谷が深い。すなわち、隣接ピークの重なりが、この組み合わせの場合が最小になる。
 また、*印で示した不純物ピークの影響も避けられる。

 こうして、最適な条件の質量測定範囲が定まり、先に示したような病変トランスフェリンの存在を鮮やかに示す質量スペクトルが得られたのであった。

検査法を社会システムに組み込む

 大仰な題目を付けたが、医療行為の中に組み込まれる臨床検査法は、有効性(efficacy)が肝要である。検査結果は、病状の診断から、治療・療養の方針決定に、寄与しなければならない。それにはさらに、以下のような多大な課題を解決し、医療実務の中に定着させなければならない。

 ・検査結果から、病状の分類、程度が推定できること。
 ・治療法、療養法の選択に寄与すること
 ・できれば、予防に寄与できること 

 そして、
 ・できるだけ広範囲の医療機関で、
  検査と活用が円滑に実施できること
 ・経済性が公認されること
  (医療保険に組み込まれること)

 以上を推進するには、課題の整理と組織化へのたいへんな努力、大勢の関係者の協力、種々の組織による支持支援や主導、が必要である。目標を達成するまでには、数年単位の長い期間と多大な努力が費やされる。

 病状を測定しただけでは医療は進まないが、病因を訴求し、症状改善を探求するにも、測定・検査が道しるべになる。測定技術研究家の誇りが、そこにある。

謝 辞

 この一節の題材は、下に示す文献 1)、2)に依った。そして、この研究を推進された大阪医科大学 病態検査学教授 清水 章 先生に、懇切な説明と資料をいただいた。この研究には、田中耕一さんも参加している。清水先生のご厚意に、多大な感謝の意を表したい。
 ただし、記述への文責は、理解が至らなかったであろう私・喜利にある。記して、明らかにしておきたい。

参考文献

1) T. Nakanishi, N. Okamoto, K. Tanaka and A. Shimizu:
"Laser Desorption Time-of-flight Mass Spectrometric Analysis of Transferrin Precipitated with Antiserum: A Unique Simple Method to Identify Molecular Weight Variants", BIOLOGICAL MASS SPECTROMETRY 23, 230-233 (1994)

2) 田中 耕一:「マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法」 ぶんせき , 253-261 (1996)

 また、次の書はたいへん参考になった。
3) 丹羽 利允 編著:「最新のマススペクトロメトリー−生化学・医学への応用−」 化学同人・刊(1995)

次ページ:高分子イオンの分子量を測定するための、飛行時間型・質量分析装置を説明。

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