開ヶ丘狐谷V遺跡は、富山市南西部の射水丘陵東端部に位置する縄文時代中期の集落です。
平成14年度・15年度にわたって発掘調査が行われ、縄文時代中期の竪穴住居75棟、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)6棟などが確認されました。 遺跡の周辺には湧水地があり、当時の人々にとって、暮らしやすい土地であったようです。
縄文時代の住居
  竪穴住居は中期前葉(約5,000年前)の住居25棟、中期中葉(約4,500年前)の住居50棟が確認されました。住居の形は円形や楕円形、方形などさまざまです。住居の床には柱を立てていた穴があります。大半の住居は4本あるいは6本の柱で建てられていますが、なかには柱穴が1本しかない住居や、12本の柱で建てられていたと考えられる住居もあります。

 住居の中央には調理や暖をとるための炉があります。炉の多くは石で囲いを作った石組炉で、石を二重に囲んだものや、長さが1.5mを超える大型のもの、石囲いの中に土器を埋めたり、土器片を敷き詰めたものなどさまざまな種類がみられます。

 住居の平均的な面積は20u前後です。最も大きい住居は約35u、20畳ほどの広さがあります。最も小さい住居はその1/10の約3.5uで、2畳ほどの面積しかありません。こうした小型の住居は数棟見つかっています。どのような役割をもっていたのか現在のところはっきりとわかっていませんが、一説には出産小屋などとして使われたのではないかということが民俗例などから推定されています。
床面積が35uの大きな住居 床面積が3.5uの小さな住居
(F区第1号住居) (F区第8号住居)
 
 

 遺跡の南部から掘立柱建物が6棟見つかりました。
掘立柱建物は長方形に柱の穴が並んだもので、高床または地面を床にした建物と考えられます。
このうちの1棟(右の画像)は、建物の長辺(桁行)が11.5m、短辺(梁間)が3.5mもあり、きわめて大型の部類に入ります。
掘立柱建物の用途については、食料の貯蔵庫、祭祀にかかわる建物、夏季の住居など様々な推定がなされています。
大型の掘立柱建物
(F区第1号掘立柱建物)
   また、火災で燃えた住居(焼失住居しょうしつじゅうきょ)が3棟みつかりました。焼失住居は焼けた木材などが残っているため、当時の住居がどのような構造であったのかを推定できる格好の資料となります。
住居内に残っていた炭化した木材の上から焼けた土が検出され、屋根に土が葺(ふ)かれていた可能性の高いことがわかりました。国指定史跡である北代遺跡(富山市)の竪穴住居でも、土葺き屋根が復元されています。

生活の道具・まつりの道具
 遺跡からは縄文人が使用した多量の道具類が出土し、当時の暮らしぶりがうかがえます。道具類の多くは竪穴住居内から出土しました。

 最も多いのは煮炊きや貯蔵に使ったとみられる土器です。土器の形や大きさは千差万別で、また表面に付けられる文様も、縄目のものや半分に割った竹で線を描くものなどさまざまなデザインがあります。ほかに新潟県や東北地方の土器に似たものも見つかっています。
 
 石器には、矢の先に付ける石鏃など狩猟用の道具のほか、木材伐採用の磨製石斧、土掘り用の打製石斧、漁網用の石錘、ドングリなど堅果類を磨り潰すための磨石や石皿などがあります。
 
 
出土した縄文土器
 こうした日常生活に使った道具のほかに、土偶や三角とう形土製品など呪術に関係する道具も出土しています。

 土偶は子孫繁栄や豊穣の願いをこめて作られたと考えられ、一般に破損した状態で見つかります。当時の人々が願いを込めて、人為的に打ち割ったと考えられます。これまでに本遺跡から14点出土しましたが、腕や足が失われていたり、妊婦のお腹の部分だけが残るなど、いずれも破損した状態で見つかりました。

 三角柱状の三角とう形土製品は、表面に文様がつけられています。1つの面には文様が無いことから底面を意識して作られたようです。置いて使われたものと考えられますが、どのような目的で使用されたのかについては、はっきりとわかっていません。

 
土偶 三角とう形土製品
このほか、耳たぶに孔をあけて着ける耳飾りや琥珀(こはく)・滑石(かっせき)で作った玉など、当時の人々が身に着けた装身具(そうしんぐ)も見つかっています。
耳飾り 琥珀製の玉
集落の移り変わり
 本遺跡で確認された竪穴住居75棟と掘立柱建物が6棟などは、すべてが同時に存在していたのではなく、幾世代にもわたって建て続けられた結果です。同時に建っていたのは数棟であったと思われます。

 遺跡内は南側が丘陵最高地点の平坦地で、中央部は緩やかな斜面となり、一段低い北側では再び平坦地となります。竪穴住居は北側と南側の平坦地に分かれて分布し、北側では中期前葉の時期のものが多く、南側には中期中葉のものが集中していることから、中期前葉と中期中葉にかけての時期に集落を南に移したことがうかがえます。

 中期前葉の北側集落は、広場を囲むように竪穴住居が半円形状に並んでいます。広場の中央には1棟だけ竪穴住居が孤立して存在しており、特別な意味をもっていたのかもしれません。竪穴住居の平面形は円形や楕円形のものがほとんどです。住居の規模は20u前後のものが多く、炉は地面を掘り窪めた地床炉(じしょうろ)です。
遺跡の全体図
 中期中葉の南側集落では、中央に円形の広場があり、その周囲に掘立柱建物、さらにそれを取り囲むように竪穴住居が分布しています。
 広場内からは土坑が数多く見つかり、そのうちの1基からは琥珀玉が出土しました。これは死者と一緒に埋められた可能性があるため、広場に墓域があったのかもしれません。

 竪穴住居は円形・楕円形に加えて、方形のものが増えてきます。 また、大規模な住居と小規模な住居の差が大きくなり、炉も地床炉から石組炉へ変わります。県内や新潟県などの他の遺跡でも、この時期同じような変化が認められています。

 集落の構造は、近くでは新潟県に類似した例があります。先に述べた大型炉や、土器の類似点なども考えると、新潟県地方からの影響が強かったものと考えられます。
  北側の集落も南側の集落も中央に広場を設けることを特徴としており、縄文時代にはこうした広場のある集落が数多く認められています。
 
 数百年にわたって集落が営まれ続けたにもかかわらず、広場には竪穴住居や掘立柱建物などが建てられていないことをみると、当時の人々の間には広場を特別な場とする意識が受け継がれていたようです。
 本遺跡は大規模な縄文集落の全体が発掘された県内はじめての例となります。県内だけでなく、北陸の縄文時代の集落研究にとってたいへん貴重な資料を提供することになりました。



   開ヶ丘中山V遺跡