●あらまし

 豊田大塚・中吉原遺跡は、富山市街の北約4.5kmの豊田本町地内に位置しています。標高は7〜8mで、常願寺川によって形成された扇状地末端部に立地します。検出した主な遺構は、弥生時代後期から古墳時代前期の沼跡・湧水地に関連する井戸・さらし場遺構、土器の集中廃棄、平安時代前期の溝跡があります。

 沼跡は、落ち込み始める部分から、沼側へ約10mを調査しました。落ち込み始める部分は、遺跡の西側で一部大きくえぐられており、ここに地下水が湧き出る湧水点と、それに関連した施設群が発見されました。

 その施設は、大木をくり貫いた枠のある井戸2基、板を四角に囲ったさらし場遺構1ヵ所、さらにここへ渡ってくるのに使われた木道、祭祀に使われたと考えられる赤く塗った壺などの土器類の捨て場などがあります。ここからはほかに、杉材で作られた舟の木製品が出土しています。

 
井戸・さらし場遺構 検出状態 木道 検出状態

 平安時代の溝は、この沼地が埋まった後に掘られ、沼地の肩から10m入ったところです。
  この溝からは、人面墨書土器、人形(ひとがた)、「×」と書かれた墨書土器など祭祀に使われた道具のほか、加工された棒などの木製品が出土しました。これらの祭祀用の道具類の出土は、富山市内で初めてのものです。


●人面墨書土器
 人面墨書土器は、土器に人の顔を墨で描き、その中に自分の穢れを息とともに吹き込んで川などに流し、浄化する祭祀に使われたと考えられています。描かれた顔は疫病神の顔だとされます。このような儀式は、奈良時代の中頃から平安時代にかけて、平城京・長岡京・平安京などの都や地方官衙など政治の中心地で盛んに行なわれました。

 出土した人面墨書土器は3点があります。いずれも平安時代、9世紀後半です。1点は、口径13.2cm、高さ13cmの土師器の甕に2つの顔が描かれています。これをA面・B面と区別すると、A面の顔は眉・目ともにつりあがっており、目頭を表現したような縦線が2本、鼻の下には人中を表した平行線が2本つけられ、また、口髭・顎鬚・頬髭をたくわえています。かなり精悍な表情に見えます。

 一方B面の顔は、眉は丸く表現され、目はより切れ長となっています。額には頭髪を表す波線が描かれています。顎鬚の下には、顎を表現した二重線が見えています。その他の描き方はA面とあまり変わりませんが、全体的にはやや含みのある顔といえます。

 この土器の人面は、他府県で見られるような、目を一本線で表現するなどの省略をせず、非常に丁寧に描かれており、また流暢な筆使いであることが特色です。

A面 B面

 もう1点の土器は、大型の土師器の甕(口径20.8p、高さ23.5p以上)に描かれているもので、顔の眉・目・目頭・耳・口・髭(口・顎・頬)が墨書きされています。やはり2つの顔があります。人面の筆使いや表情は、先に述べた人面墨書土器とまったく同じで、同一人物の手によるものと推定されます。おそらく人面を描く専門の絵師がいたと考えられています。

●人形木製品
 人形木製品は、幅2pほどの薄い板材に顔、手、足を表現しています。顔の部分に目・鼻・口などを墨書きした人形もあります。人面墨書土器同様に、祭祀に使われました。

 人形の使い方は、一撫一吻(ひとなでひとふき)と言われ、人形で自分の身体を撫で、息を吹きかけて穢れを移して川に流し、祓いを行いました。

 人形は人面墨書土器と同じ遺構から4点が出土しています。そのうちの1点は、一般的な人形とやや形態が異なっており、下方が尖っています。長さ17.6cm、幅1.9〜2.7cm、厚さ2cmの大きさで、肩を切り抜いてつくり、頭部が表現されています。表面の顔の部分には目・眉及び顔の輪郭などが、また体部には衣を表現した線が見られます。裏面には、「神服小年賀(かみはとりこねんが)」という文字が書かれており、「神服某」という人名が考えられます。

 人形に文字が書かれているのは、県内では初めてで、全国的にみても貴重な発見です。
●遺跡の性格
 本遺跡では、縄文時代の祭祀に関連する御物石器や石刀、石鋸、土偶、有孔球状土製品が出土しています。弥生・古墳時代には、沼の水神・湧水点に感謝する祭祀を行い、平安時代に至って、穢れを祓うまじないの場として使われていたことが判りました。まわりに住居跡はなく、人々が住まない「聖なる場所」だったのではないでしょうか。

 特に、人面墨書土器・人形などによる祭祀は、奈良時代から平安時代に中央畿内で盛行し、各地に赴任した官人たちによって伝えられたとされ、官人や役所と深い関わりがあります。

 本遺跡の北方1.2kmに新川郡家と比定される米田大覚遺跡があり、本遺跡は新川郡家の祭祀場と考えられます。