
古代の瓦 須恵器生産工房

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| 栃谷南遺跡は、東に呉羽丘陵、西に射水丘陵を望む水田地帯の中央部に位置 します。これまでの調査で、須恵器の窯跡1基と、須恵器と瓦を焼いた窯跡(瓦陶 兼業窯)1基を確認しました。窯の東側には焼成に失敗した土器や瓦を捨てた灰原 が広がっています。また、建物の柱穴跡、粘土を掘り出した採掘穴、井戸跡が発見 されたことから、遺跡は粘土を採掘し、窯の築造から、土器や瓦を焼成するまでの 一連の作業を行う生産工房であったことがわかりました。 この遺跡は、白鳳時代末から奈良時代前半(約1300年前)にかけて窯が営まれており、越中に国分寺(高岡市伏木一宮)が造られる直前の時期に営まれたものです。 国分寺造営のきっかけとなった有力な豪族によって、土器や瓦の生産が行われ、 寺院や官衙(役所)へ供給されていたと思われます。 |
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![]() 窯跡および灰原 |
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| 今回の調査で、数千点に及ぶ瓦類(軒丸瓦・丸瓦・平瓦)が出土しています。 中でも『単弁八葉蓮華文軒丸瓦』が130点以上出土しています。窯跡でこれだけ大量の軒丸瓦が発見された例は、全国的に見ても数少ないものです。 また、出土した軒丸瓦は、同じ笵(木版に文様を刻んだ型)を用いて作られており、短い間に集中して生産されていたことがわかります。 一方、『平瓦』は、丸瓦・軒丸瓦に比べ出土した数はわずかですが、「桶巻作り」という技法で作られ、凸面は縄を巻いた板でたたいて形づくっていることがわかりました。この作り方は、8世紀前半頃に簡単に作れて大量生産に適した「一枚作り」に変わります。栃谷南遺跡で生産された平瓦は、「桶巻作り」技法が用いられた最後の時期に生産された数少ない例です。 栃谷南遺跡では、その瓦の特徴から、都の瓦工人を招き、この地で操業を行っていた須恵器窯を一時的に借り、瓦を焼いたと推定されます。 当時の有力な豪族を背景に、その氏寺となる寺院や官衙といった施設へ供給されていたものと考えられます。 |
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![]() 瓦出土状況 |
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| 透彫りの木製品(左)には「対葉花文(たいようかもん)」と呼ばれる模様が 施されています。これは、8世紀、東大寺が造営されている時期に、仏像の台座 などの文様として、都の工人の間で流行したものです。 鐘状の銅製品(右)は、これとほぼ同じ形をしたものが、栃木県日光男体山の 山頂祭祀遺跡から出土しており、「鐘鈴(しょうれい)」と呼ばれています。 このように、古代仏教に関する遺物が出土しており、近くに仏堂などの施設が あったと思われます。 |
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保存・整備方法を検討するため、平成11年12月に栃谷南遺跡保存委員会
という方針が基本構想に盛り込まれました。
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栃谷南遺跡保存委員会委員等名簿
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