藩主の廟所−長岡御廟−
 
 二代藩主正甫公は、富山城の計画があった百塚山西側に、初代藩主利次公の菩提を弔って延宝3(1675)年廟所を設け、利次菩提寺である光厳寺末真国寺を置いて廟所の管理を行わせました。これが長岡御廟の始まりとされます。
初代藩主前田利次公の墓所
        
 
 現在この廟所には、利次公から十一代藩主利友公までの墓と、正室側室等の墓がこれらを取り囲んでおり、1.2ha余りの面積があります。
 
 明治18年に吉田有宣が作成した詳細な御廟測量図(県立図書館蔵)によれば、全体が土塁・柵・堀によって囲まれており、藩主墓前の参道には、藩主に仕えた家臣が寄進した燈籠が並んでいました。明治18年には475基の存在を知ることができます。三代にわたって仕えた家臣もおり、実質365人の藩士が献燈したほか、僧籍の者も献燈しています。
 
 明治31年改修工事によって、堀は埋められ、土塁の一部は石垣とされたり、切り崩して整地されたりしました。
 
 廟所は、坂を登ったところにある鳥居の正面奥の西ブロックと、鳥居右手の北ブロックに大きく二分されます。西ブロックの中央には初代利次墓があり、この両側にそれぞれ3代の藩主が祀られています。一方北ブロックでは、二代正甫墓・六代利与墓が並んで1区画を形成し、その東側の奥まったところに三代利興墓・七代利久墓が並んで1区画を形成します。したがって、長岡御廟は大きく3つの区画で構成されていることになります。
 
 このように大きく二つに分れた理由はよくわかりませんが、明治18年絵図による参道の付け替えなどの変化を分析することにより、藩主の信仰した宗派が大きく関与したであろうことが推定されます。
 
 藩主の墓は、笏谷石切石を積んで四角く囲った上に土の墳丘を盛り、その上に石製の笠形墓碑を置いています。御廟測量図によれば、墓の地下約3mには切石と礫を積んだ礫槨が存在するとされています。
 
 墓石は、基本的に富山城石垣と似た花崗岩を使用し、初代利次墓石とほぼ同規格・同型式で作られ続けました。ただ初代利次墓だけは基壇積石がやや高くなっています。
 
 また正甫・利興の墓石のみが、屋根・塔身・台座とも灰色の安山岩で作られており、どのような理由でそうなったのかは謎です。
 
 これらの藩主墓は、規格が統一されており、発達した切石加工技術が使われています。このような技術は寛文〜元禄年間(1661-1704)以降に発達することから、正甫が廟所を作った当初から現在のような姿の墓であったかどうか、十分な検討が必要です。
 
 藩士寄進の燈籠は、かつて参道に沿って藩主毎に整然と配置されていましたが、明治31年の改修工事やその後の墓地の一般開放によりばらばらとなり、往時の姿をとどめていません。また藩主墓付近には寄進燈籠より一回り大きな燈籠が置かれていますが、これは明治以降のものです。
        (古川)