江戸期富山城の発掘
〜本丸北堀の発掘〜

本丸北堀(築堤部)
 本丸北東隅には搦手枡形石垣があります。江戸後期絵図によると、本丸の北辺は、東側約45mが石垣、それより西は土塁が築かれており、その外側(旧神通川側)には幅約12間(21.6m)の堀が存在しました。現在この堀は埋められ、遊具広場などになっています。

 石垣部分の対岸には堤防があり、旧神通川とは隔たっていました。この堤防の発掘では、3期にわたる堤防の変遷が確認されました。

 第1期は、上面幅2.4m、高さ1.2m以上の砂礫の多い盛土による堤防で、堀側と神通川側では40cmの段差があります。盛土中には戦国時代以前の土器を含みます。この時期の堀幅は21.2m(12間弱)です。

 第2期は、第1期堤防を盛りですっぽり包んで盛土を行い、堤防の高さは10cmほど高くなりました。堀側の縁には、幅90cm(3尺)の敷砂利道が設けられました。この時期の堀幅は20.7m(11.5間)です。この敷砂利道の上には川砂が薄く堆積しており、洪水被害を受けた痕跡とみられます。

 第3期は、神通川側に盛土し、堀側には15〜20cmの敷砂利を行って、幅2.7m(9尺)の広い道を取り付けています。敷砂利には数層の堆積があり、長期間にわたって補修し使用されたことがわかります。この時期の堀幅は21.5m(12間)です。

 第3期の敷砂利道の上には川砂の堆積があり、後に2回目の洪水被害を受けたことがわかりました。

 これらのことから、神通川と堀を区画したこの堤防は、すべて盛土によって築かれた「築堤」だったことがわかりました。そして第2期、第3期の改修原因は、神通川の洪水によって砂をかぶったためと推定されます。

 築堤上の道は、「正保図」にはなく、「万治図」以降の絵図にはすべて描かれています。記録によると、万治以降には天和2(1682)、天明3(1783)、寛政7(1795)、安政5(1858)年の4回大洪水があり、天明には「城内水没」、寛政には「堀損壊」の被害が具体的に記載されていることから、第2期の改修を天明3年、第3期の改修を寛政7(1795)年に比定することができるかもしれません。

本丸北堀(土塁堀側)
 土塁の堀側は45度以下の急傾斜地であったと推定されます。

 発掘では、地表下2m(標高5.9m)の旧水際付近から、幕末期の玉石護岸が確認されました。10〜30cmの小形の川原石を用いて、ランダムに敷き詰めたもので、約20度と緩やかな傾斜になっています。
調査風景 玉石護岸
                    (古川)