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石炭積出港として発展してきました。 |
1.若松の昔 |
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古代律令下、若松は筑前国遠賀郡に属していました。 |
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その後洲口番所が置かれました。これは船改番所で、出入国を管理していました。 |
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若松渡し場前の洲口番所跡 |
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若松は唐津街道の東端の宿駅で、二島を経て山鹿に至り、遠賀川を渡り、芦屋宿に着きました。唐津街道は芦屋から赤間を経て、博多・唐津に至りますが、木屋瀬から赤間に至る道もありました。 |
2.若松の市域
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西暦 |
元号 |
市域拡大状況 |
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1891 |
明治24 |
若松村が若松町になります |
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1898 |
明治31 |
若松町は石峰村修多羅(すたら)地区を併合します |
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1906 |
明治39 |
若松町は石峰村を併合します |
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1927 |
大正3 |
若松町が若松市になります |
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1931 |
昭和6 |
若松市は島郷村を併合します |
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1963 |
昭和38 |
若松市は五市合併で北九州市若松区になります |
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明治に入ると、県は若松と芦屋に石炭役所を開設します。この頃の筑豊の炭坑は小規模なものが多かったのですが、規模の拡大化が計画されます。その大鉱区獲得に中央資本が参入し、筑豊御三家といわれた麻生、貝島、安川・松本の地元資本も対抗します。 |
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この様にして、若松は石炭を中心にして、その輸送に携わる沖仲仕(ごんぞう)、鉄道や船の輸送機関、商社、問屋、鉄工所、商店、その他サービス業で繁栄します。こんなまちの様子は火野葦平の「花と龍」に描かれています。しかし、石炭の積替え作業も、人力から石炭桟橋から直接積替えられたり、ガントリークレーンによって機械化されたりして、しだいに沖仲仕の数も減っていきます。 |
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旧古河鉱業ビル |
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このような石炭積出港とともに、若松は北九州工業地帯の一翼を担っていました。
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九州で2番目の鉄道会社、筑豊興業鉄道が設立され、1891(明治24)年8月、直方−若松間が開通します。駅は直方、中間、折尾、若松の4駅で、若松にあるのは若松1駅だけでした。3年後、同社は筑豊鉄道と改称され、1897(明治30)年、現在の鹿児島本線を建設していた九州鉄道に併合されます。そして、九州鉄道は1907(明治40)年国有化されます。この直方−若松間が筑豊本線のスタートとなります。 |
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操車場から最盛期には年間1,000万トンの石炭が船積みされました。この操車場のほか機関区・客貨車区・鉄道工場・保線区等の機関が次の藤ノ木駅に到るまでの用地に設けられました。 |
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操車場跡に展示されている9600型機関車 |
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若松区の駅は上りから次の通りです。 |
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筑豊からの石炭の積出港として、若松は発展してきました。石炭の積出量は1940(昭和15)年がピークで、戦後、復興期には石炭がエネルギーの基礎を支えましたが、昭和30年代後半、石炭から石油へのエネルギー革命が始まると、斜陽化し、筑豊の炭鉱も閉山となり、1982(昭和57)年、石炭の貨物取扱は廃止されました。 |
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響灘の埋め立てが始まり、1962(昭和37)年、若戸大橋が完成すると、北九州工業地帯の中心部と直結することになりました。翌年、五市は合併し、北九州市が発足します。 |
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響灘に広がった埋立地 |
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小売業は1960年代まで、北九州全体では九州地域では最大の販売額でした。しかし、五市合併後は、小倉・黒崎に商業機能が集中する傾向が強くなり、若松の販売額は減少していきました。その様な傾向の中、戦前から続いていました丸柏百貨店、後に経営が代わり改称された若松井筒屋が閉店し、建物も撤去されました。 |
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最近の若松の状況は、北九州ルネサンス構想の個別の実施で見ていきます。 |
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本町商店街 |
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ベイサイトプラザ若松 |
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イオン若松ショッピングセンター |
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