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地方三新法の一つ郡区町村編制法の公布により1878(明治11)年10月、第1大区が廃止されて企救郡が置かれ、小倉室町の第1大区調所は企救郡役所と改称されました。第5大区は遠賀郡となり、芦屋町の第5大区調所は遠賀郡役所と改称されました。 企救郡長には津田維寧(これやす)が、遠賀郡長には不破国雄が任命されました。企救郡役所は郡長のほか郡書記15人、遠賀郡役所は14人の機構でした。所管事務は、庶務・戸籍・地理・兵事・社寺・駅逓・勧業・土木・国税・地方税・地券・学事・衛生・会計などでした。 郡が設置されると、小区も廃止されて、新しく複数の町村をまとめる町村分画が定められました。これは藩政時代の旧町村を勘案して設けられました。複数の町村にまとめられた町村分画に公選の戸長が1人配置されました。 福岡県では1882(明治15)年、町村分画の改正が行われました。遠賀郡では一部に留まりますが、企救郡では大幅な改正が行われました。 政府は1884(明治17)年太政官通達によって、戸長民選を官選に改め、町村分画の規模を拡大し、町村事務の効率化を高めようとしました。福岡県でも改めて町村分画の改正が行われました。 1887(明治20)年には企救郡・京都郡に対し、県から町村分画内での町村合併の通達がありました。
三新法の府県会規則により、福岡県でも第1回県会議員選挙が行われました。選挙区は19、議員総数56人、議員任期は4年、2年毎に半数改選することになっていました。被選挙人は25歳以上男子、3年以上県内居住、地租10円以上の納入者でした。選挙人は20歳以上の男子、地租5円以上の納入者でした。 三新法が施行された当時は、区町村会については立法措置はとられませんでした。1878(明治11)年太政官通達により、各府県はほとんど町村会を開設しました。 1879(明治12)年福岡県は町村会規則を通達しました。被選挙人は20歳以上男子で、その町村に居住し、町村内に不動産を有する者とされました。選挙人は20歳以上男子で、その町村に居住し、町村内に不動産を有する戸主とされました。議員任期は2年でした。
数か町村共通の問題については臨時町村連合会を開くことが認められました。1880(明治13)年、政府は区町村会法を制定しました。これにより、臨時町村連合会は常設の町村連合会になっていきました。 区町村会の運営は区町村の裁量に任されていましたが、支障が出たり、自由民権運動を助長する動きがあったため、1884(明治17)年区町村会法の改正がありました。選挙資格は20歳以上の地租納入者に統一され、府知事・県令は町村会に対し広範な統轄権を行使することになりました。戸長は議長として県令の認可により大きな権限を持つようになりました。 この当時の町村は後の字(あざ)とされる区域ですので、行政課題を遂行するには狭すぎ、連合町村会に付託されることが多くなりました。
三新法の地方税規則は包括的は地方財政に関する法令で、その運用には別に種々の規則が制定されました。1879(明治12)年、福岡県では地方税徴収規則・戸数割規則・地価割規則・営業税雑種税規則が通達されました。 地租の1/5以内を前年度の課税額を基礎に、地価割が課税されました。 貧富の等級を定めて、1戸毎に戸数割が課税されました。 営業税雑種税は営業を免許したものに課税するものです。営業税は3種に区分されました。1つは諸会社及び卸売商、2つは仲買商、3つは小売商および卸売・小売に区分できない雑商でした。雑種税は運輸・運搬業、演劇場、興行、興行娯楽施設、飲食業、物品の換金営業など営業税の対象にならない営業のほか、芸をもって身を立てる人に対して賦課するものでした。 1880(明治13)年4月地方税規則は改正が行われました。その後同年11月、明治15年、17年に改正されました。
明治16年度の福岡県の予算を見てみます。支出は、県庁・郡区役所の吏員及び町村の戸長などの人件費が全体の36%、警察・司法の機構に関わる経費が27%、以上で63%になりました。他は教育の経費が13%、治水と道路・港湾整備が16%などでした。 収入は、地租割44%、戸数割20%、営業税では商業が13%で工業が4%に過ぎません。これを見ると、農業以外の産業が未発達であったことが分かります。また、雑種税は工業の営業税を上回っていました。 町村費は三新法施工後もしばらく慣習的に徴収されましたが、1884(明治17)年の区町村会法改正で法的根拠を与えられました。戸長役場を維持し、町村会を開き、土木事業と学校の維持管理、公衆衛生などの町村費に充てられました。
1888(明治21)年の市制・町村制が制定され、翌年公布されました。しかし、この当時100戸以下の小町村は全体の7割を占めていました。そのため、市制・町村制を実施するには町村合併が前提条件になりました。 町村合併の結果、企救郡は15町72村が1町16村に、遠賀郡は82村が19村になりました。そして、1889(明治22)年4月第1回町村会議員選挙が行われました。 市町村の具体的な条件を明示した規定はどの法令にもありませんでした。しかし、市については人口25,000人以上の市街地という基準が示されましたが、町村についての区別はありませんでした。
後に門司市へと発展する文字ヶ関村は小森江・門司・田野浦村の三村が合併したものです。1889(明治22)年の人口は3,060人でしたが、同年門司港が石炭・米・麦・硫黄・麦粉の5特定品目の特別輸出港に指定され、門司築港会社が築港工事を開始しました。 さらに、九州鉄道会社が門司-高瀬間を開設させ、博多の仮本社から門司清滝に本社を移しました。門司は九州の玄関口として、石炭の積出港として急速な発展を始めました。明治26年には22年に比べ人口は5,052人増え、2.6倍になっていました。文字ヶ関村は爆発的に膨張する行政需要に対する対応を迫られ、1894(明治27)年7月門司町となりました。 1889(明治22)年当時、小倉は既に15,072人の人口でした。城下町の小倉町に、長浜浦・平松浦が加わって小倉町になりました。 商工業都市として、郡役所・警察署・電信局・裁判所・旅団司令部などの所在地でした。 1889(明治22)年の若松村は人口2,764人でしたが、翌年には若松築港会社が設立され、その翌1891(明治24)年は若松‐直方間の筑豊興業鉄道が開通し、石炭の集散地及び積出港として急速に成長しました。1891(明治24)年に若松村から若松町になりました。
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