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遠賀郡芦屋町  [2006/09/23更新]
 

遠賀郡芦屋町は、北は響灘に面し、遠賀川の河口の東西に広がっています。河口から東の奇岩、西の白砂青松の海岸美は玄海国定公園の一部になっています。
古くから開かれた土地で縄文時代からの遺跡があり、海・川・陸での交通の要衝でした。
江戸時代には物資の積出港として隆盛を誇り、「芦屋千軒、関千軒」と下関と並び称せられるようになりました。
遠賀川を川ひらた(五平太船)によって運ばれた筑豊の石炭は、若松とともに芦屋からも積み出されました。しかし明治になって芦屋に鉄道が敷設されなかったため、しだいに石炭積み出しは若松に移っていきました。
1942(昭和17)年旧日本軍の芦屋飛行場が完成しますが、戦後、米軍に接収され、朝鮮戦争の出撃基地になりました。1961(昭和36)年返還されて、航空自衛隊芦屋基地となりました。芦屋基地は町域の1/3を占めています。

 

国道3号線から水巻町を通って芦屋に到る県道水巻・芦屋線と若松から芦屋競艇場に到る県道北九州・芦屋線の向田橋交差点から出発します。
向田橋交差点を北に進みますと、芦屋橋と若松区乙丸・蜑住とを結ぶ道路との交差点に出ます。
その先は田圃の中に新しく道路ができています。そこをさらに北に進みます。2つ目の信号機は三叉路の交差点です。直進すれば若松ゴルフ場から若松区有毛になりますが、そこを左折します。
今までの道路より狭いのですが、この道路は国道495号線です。右手の先の方にビルが見えます。そちらに右折します。坂を上ると突き当たりの三叉路に出ます。そこを右折するとすぐにこの眺めになります。手前ははまゆうの群生地です。

はまゆうは海流によって南方から運ばれたと思われます。花は7月下旬から8月上旬に咲きます。

 

この辺一帯の海岸を夏井ヶ浜といいます。東は若松北海岸になります。
そこを通る道路ははまゆう通りという観光道路です。この道路を西に行きますと、左手に鮮魚・海産物・農産物を販売するとと市場があります。その手前から右折すると、海岸に出られます。車では行けません。歩いて行くことにします。

 

海に突き出ているのが狩尾岬です。その縁を歩いて行けます。サイクリングロードになっています。波が荒いとテトラポットを越えてくることもあります。

 

狩尾岬から東を見ています。右の海に突き出ている反対側がはまゆうの群生地です。先の方で突き出ているのが若松区の遠見ヶ鼻です。左の建物はかんぽの宿で、右に岩屋漁港、岩屋海岸となります。

 

狩尾岬の先端の少し高い所からの眺めです。波に浸食された岩場になっています。

狩尾岬から東を見ています。これから行く洞山の洞穴が見えます。

 

もとに戻り、とと市場の前を西に進みます。坂道を下った左に、前が広場で奥は雑木林になっています。ここは山鹿貝塚跡です。
山鹿貝塚からは多くの人骨が発掘されていますが、3体の人骨が一緒に発掘されました。2体は女性で、1体は乳児でした。2体の女性には、大珠のある首飾り、耳飾り、かんざし、貝輪などの呪術的な装身具で飾られ、大自然に恵みが多いことを祈り、自然の脅威から守るための祭祀を行い、ムラの人々から畏敬の念を集めた巫女であると思われます。

 

山鹿貝塚の前を左折し、余り広くない国道495号線に出て、そこを右折します。
次の信号機の前に「芦屋歴史の里・歴史民俗資料館」があります。入館料は「芦屋釜の里」との共通券であれば300円です。
ここで先ほどの山鹿貝塚の発掘の様子も展示されていますし、古代以来の芦屋の歴史が学べるようになっています。

 

歴史民俗資料館の前にコンビニにありますが、そこを北に入って行きます。
正面が洞山で、遠賀川河口の少し先になります。
右の建物は柏原漁協の海の駅で、活魚が販売され、食堂もあります。 

 

洞山の東側は柏原漁港です。

 

洞山の西側は響灘の波による浸食によって、このような景観になっています。

 

洞山の北側にもう一つ小山があります。洞山は大小二つの小山からなっています。

 

先の小さな小山には、波の浸食で洞穴ができています。
洞穴の中に、洞穴が望めた狩尾岬の先端が見えます。

国道495号線に戻り、歴史民俗資料館の前を右折します。道はすぐに左にカーブしますが、その右手に「芦屋釜の里」はあります。
芦屋では鎌倉時代以来茶の湯釜がつくられ、名品の名を馳せました。しかし、江戸時代にはつくられませんでした。ここではその歴史をたどり、芦屋釜の復興と茶の湯文化の振興を図る施設としてつくられています。
入場すると右手に資料館があります。左手に抹茶が用意された立礼席があります。その前には、地下に埋められた甕に落ちる水音を楽しむ水琴窟(すいきんくつ)があります。

 

左手の奥に芦屋釜復興工房があります。資料館にはここでつくられた茶の湯釜が展示されています。

 

正面奥に池の上に張り出して建てられた建物があります。大茶室の蘆庵(ろあん)です。池の周りは回遊式の日本庭園になっています。

 

池の反対側には、露地もある本格的な茶室の吟風亭があります。

 

「芦屋釜の里」のすぐ先を右に、山に上ると魚見公園です。山上には料亭と国民宿舎があります。国民宿舎の横を更に上りますと、広場になっています。そこを更に奥に進みますと展望台があります。
展望台から北西を望んでいます。先ほど行った洞山の西側が見えます。

 

展望台から南西を望んでいます。手前から先に、遠賀川の河口、芦屋港、芦屋海岸です。海岸に沿った松林は三里松原です。松原の左奥は航空自衛隊芦屋基地になります。

 

展望台から南を望んでいます。橋は、新しく遠賀川の一番河口側に架けられたなみかけ大橋です。その先は芦屋町の市街地で、この辺りが芦屋の古くからの中心地です。

魚見公園を下りて右折して、次の信号機を右折すると、山上から見たなみかけ大橋になります。そこをさらに西に進むと、芦屋海浜公園になります。
公園にはウォータースライダーや流水プールがあるレジャープール、アクシアンが夏にはオープンします。その先は夏は海水浴場になります。
駐車場があり、そこから芦屋海岸に下ります。広い砂浜で、沖にあるテトラポッドが波を弱めます。

 

なみかけ大橋に戻ります。北側を見ています。左端が堂山で、中央山上に展望台が小さく見えます。右端は国民宿舎マリンテラスあしやです。下の方は響灘の波によって浸食され、波懸の岸と呼ばれています。冬には大陸からの北西の季節風を受けた波が、この岸に打ち寄せます。

なみかけ大橋から南側を見ています。橋は芦屋橋(現在架け替え中)で、橋が架かる前は芦屋の渡し場でした。若松から左の東岸の山鹿に来て、渡船で右の西岸に渡り、赤間を経て博多に至る道と、川沿いに直方に至る道がありました。
橋の東岸近くに小山があります。山鹿城跡の城山です。

城山は平安時代末期の山鹿兵藤次秀遠(やまがひょうどうじひでとう)の山鹿城跡です。山鹿秀遠は平氏方につき、山鹿水軍を率いて奮戦しますが、壇ノ浦で源氏に敗れました。山上に石碑が立っています。

 

芦屋橋を西に渡り右折します。道は遠賀川に平行して北に伸びています。道は車が離合するのにやっとの道ですが、古くからに街道筋です。
右折してすぐの通りの右側に石碑が立っています。福岡藩焚石会所跡です。
1837(天保8)年福岡藩は焚石会所を芦屋・若松に設け、筑豊の石炭の採掘から売りさばきまで藩直営としました。

 

石碑の先をすぐに左折します。先ほどの通りと平行してもう一本通りが西側にありますが、そこを通り過ぎると、金台寺(こんたいじ)の山門が見えます。
鎌倉時代時宗の開祖一遍上人は念仏を唱えるだけで、全ての人は救われると説き、念仏を唱えて念仏踊りを踊り、時宗を布教して、諸国を遊行しました。
時宗の金台寺には過去帳が残されていて、麻生氏や香月氏から芦屋釜鋳物師(いもじ)などが記帳されています。

 

先ほど通り過ぎた西側に平行した道を左折して北に進みます。三叉路に突き当たったら右折します。先に進むと、焚石会所跡の石碑があった川に近い通りに突き当たります。途中の右手に市場区公民館があります。その横に芦屋警察署跡の石碑があります。
1875(明治8)年ここに福岡県第5大区芦屋警察掛巡視所が設置されました。のち芦屋警察署と改称され、若松・黒崎・赤間に分署を置きます。1889(明治22)年若松分署が若松警察署となり、芦屋分署となります。そののち黒崎分署は八幡警察署になり、芦屋分署は折尾警察署になりました。

 

Uターンし、西に向かいます。この道に入ってきた三叉路を通り過ぎます。道は上り坂になります。上り切った所の左手に愛生幼稚園があります。そこから右の路地に入った所に遠賀郡役所跡の石碑が立っています。
1873(明治6)年行政区画の大区の官庁の調所が芦屋に置かれました。1878(明治11)芦屋調所は遠賀郡役所になり、その管轄は八幡・戸畑・若松・中間を含む遠賀郡全域でした。1898(明治31)年郡役所は折尾に移されます。

 

路地からもとの道に戻ります。道は下り坂になります。道が一本交差しています。右手に大国座跡の石碑があります。横の建物は幸町公民館で、奥に公園があります。その奥は芦屋中央病院です。
大国座は1900(明治33)年に建てられた定員820人の大劇場でした。1944(昭和19)年に焼失しますが、1968(昭和23)年に再建されました。しかし、経営不振のため1966(昭和41)年解体されました。

 

先に進みます。左手に火除延命地蔵のお堂があります。その前に芦屋宿場構口跡の石碑が立っています。
江戸時代、若松からここ芦屋に来て、赤間を経由して博多に至る道は唐津街道と呼ばれ、博多から唐津に伸びていました。ここに構口を設け、旅人を監視していました。

 

かって渡し場があった芦屋橋まで戻ります。西岸にある芦屋橋西の交差点を反対側の南に向かいます。少し行って交差点を振り返った眺めです。左の木の横に芦屋釜鋳造跡の石碑があります。往時はここで芦屋釜は鋳造されました。
茶の湯釜を鋳造するのに、砂鉄、鋳型を作る土、燃料の木炭などが手に入れやすかったこと、港として交通の要衝であったことが芦屋での制作を可能したと思われます。しかし、保護してきた大内氏の滅亡し、領主の麻生氏がこの地からいなくなり、鋳物師達は芦屋を離れていきました。

 

南に行くと右手に神社があります。古代、芦屋は崗の水門(おかのみなと)と呼ばれましたが、それに由来する岡湊神社です。この地の大倉主・菟夫羅媛(つぶらひめ)の二神を祀っていて大倉社と呼ばれました。のち素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀り、祇園社と呼ばれました。

 

岡湊神社の横の道路を隔てて、千光院大蘇鉄があります。島原の乱の際、出陣した黒田藩士が原城内より持ち帰ったものといわれています。
ここに神仏分離で廃寺になった千光院がありました。千光院は岡湊神社の神宮寺でした。その境内の寺内町に芦屋役者達がいました。
先ほど行った金台寺は、時宗の信徒の時衆の拠点である垂間野(たるまの)道場でした。時宗の特徴に踊念仏がありますが、時衆のなかには踊念仏を見せて収入を得ていました。江戸時代になると、藩の命令で集団移住させられました。最終的に千光院内に落ち着き、神人として芸能者になりました。寺内町の芸能集団は芦屋歌舞伎と呼ばれました。しかし、1903(明治36)年解散してしまいました。職業的差別があったことが挙げられますが、経済的なことが大きかったと思われます。自由競争が厳しくなる中、大国座が開館して人々が新しい娯楽芸能に触れ、古典芸能で一座を維持することが厳しくなりました。

岡湊神社から更に南に行きます。遠賀川が見える所で、右手の正門町からの道と合流し、西川が遠賀川に合流する地点に架かる祗園橋を渡ると、遠賀川河口堰が見えます。1982(昭和57)に完成した可動堰です。治水と利水を目的にしています。この辺りが東岸の南が水巻町、西岸の南は遠賀町との境になります。

 

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