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遠賀郡芦屋町  [2009/08/15]
 

遠賀郡芦屋町は、北は響灘に面し、遠賀川河口の東西に広がっています。海岸は、東が奇岩、西が白砂青松で、玄海国定公園の一部になっています。
芦屋は古くから開かれた土地で、縄文時代からの遺跡があり、海・川・陸の交通の要衝でした。古くは葦屋とも書かれ、海人の住む葦の丸屋に由来するといわれています。奈良時代から平安時代初めにかけて、この地の豪族の力で建立したと思われる、浜口廃寺の寺院遺跡があります。平安時代、鞍手・嘉麻の豪族粥田氏の一族は、物資輸送の基地として遠賀川河口の芦屋を支配し、山鹿氏を名乗ります。平安末期、山鹿城主は山鹿兵藤次秀遠(やまがひょうどうじひでとう)で、平氏に味方して敗れ、領地を没収されます。その後、この山鹿荘には、下野の豪族宇都宮氏の一族が下向し、山鹿氏を名乗りました。山鹿氏から麻生氏を名乗る 一族も出て、現在の北九州市の西半分の洞海湾沿岸と遠賀川下流域を含む遠賀郡を支配します。南北朝以降は、麻生氏が領地を支配しますが、北部九州は大内氏、後には毛利氏と大友氏の勢力争いの場になります。
室町時代、芦屋鋳物師(いもじ)により芦屋釜が鋳造され、茶の湯が広まるにつれ珍重されました。大内氏が滅亡し、麻生氏が没落すると、鋳物師達も離散していきました。
江戸時代、筑前国は黒田氏の領国になり、芦屋は福岡藩の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波郡の年貢米の集積地になりますが、のち若松の修多羅に移されます。芦屋は物資の積出港として隆盛を誇り、「芦屋千軒、関千軒」と下関と並び称せられるようになりました。
遠賀川を川ひらた(五平太船)によって運ばれた筑豊の石炭は、江川、洞海湾を経由して若松に運ばれました。しかし明治になって芦屋に鉄道が敷設されなかったため、しだいに石炭積み出しは若松に集中しました。
江戸時代から1891(明治24)年まで芦屋村で、1891(明治24)年に芦屋町になり、1905(明治38)年山鹿村と合併して芦屋町になりました。
1943(昭和18)年旧日本軍の芦屋飛行場が完成しますが、戦後、米軍に接収され、朝鮮戦争の出撃基地になりました。1961(昭和36)年返還されて、航空自衛隊芦屋基地となりました。芦屋基地は町域の1/3を占めています。
国道495号線は、西の遠賀郡芦屋町から北九州市八幡西区有毛(ありげ)の有毛交差点で直角に曲がって北に伸びていきます。有毛交差点を西に行き、若松ゴルフ倶楽部の入口への交差点を反対の右に曲がります。若松乗馬クラブの前を過ぎると、海岸が見えてきます。この辺りから芦屋町になります。若松ゴルフ倶楽部から若松乗馬クラブにかけては八幡西区乙丸(おとまる)です。乙丸については、「北九州点描」の「ほら貝祭」をご覧ください。
海岸を夏井ヶ浜と呼び、その海岸を通る道路ははまゆう海岸通りと名付けられています。
芦屋町に入ってすぐの道路脇に、はまゆうの群生地があります。はまゆうは海流によって南方から運ばれたと思われます。花は7月下旬から8月上旬に咲きます。ここは、はまゆうの九州最北端の自生地で、福岡県指定の天然記念物になっています。また、はまゆうは芦屋町の花に指定されています。
はまゆう海岸通りを西に坂を上って、下って行くと、左手に商業施設のとど市場があります。鮮魚・海産物や農産物を販売しています。その手前、マンションの横を右に入って行くと、夏井ヶ浜に出ます。
夏井ヶ浜から右手の眺めです。海に突き出た所は、先程のはまゆうの群生地の海に突き出た所の反対側になります。
夏井ヶ浜から左手の眺めです。海に突き出ているのは狩尾岬です。狩尾岬の海岸沿いにサイクリングロードがあり、歩いても一周できます。
狩尾岬の突端近くにやって来ました。東側の眺めです。中央部分の海に突き出た所は、北九州市若松区の遠見ヶ鼻です。遠見ヶ鼻については、「北九州のみどころ」の「若松北海岸」をご覧ください。
左端にぼんやり見えるのは白島です。手前の右端の海に突き出た所が、はまゆうの群生地の反対側になります。
狩尾岬の先端です。波に浸食された岩場で、千畳敷といわれる景観になっています。千畳敷は若松北海岸にもあります。
狩尾岬の突端近くの東側の眺めです。先方に洞山の洞穴が見えます。その左手のテトラポットの左側は、柏原漁港になります。手前は千畳敷が続いています。
狩尾岬を東から西に進んで来ました。海岸に狩尾神社の鳥居が立っています。背後の狩尾岬の山中に狩尾神社はあります。
ここから狩尾岬の先端付近まで千畳敷は続いています。満潮になると鳥居の下まで海水が満ちて来ます。鳥居の中に堂山が、右外に洞山が見えます。
狩尾神社の鳥居の先を進むと、はまゆう海岸通りに出ます。道路の前が広場で、奥は雑木林になっています。ここは縄文時代の山鹿貝塚跡です。
山鹿貝塚からは多くの人骨が発掘されていますが、3体の人骨が一緒に発掘されました。2体は女性で、1体は乳児でした。2体の女性には、大珠のある首飾り、耳飾り、かんざし、貝輪などの呪術的な装身具で飾られ、大自然に恵みが多いことを祈り、自然の脅威から守るための祭祀を行い、ムラの人々から畏敬の念を集めた巫女であると思われます。
数次の発掘調査が行われていますが、それらで解明されたことは、芦屋歴史の里・歴史民俗資料館で展示されています。
山鹿貝塚の前を道は左にカーブして、先で国道495号線に出ます。そこを右折して進むと、信号機の手前の左手に、芦屋歴史の里・歴史民俗資料館があります。ここでは、古代以来の芦屋の歴史が学べるようになっています。
芦屋歴史の里・歴史民俗資料館に八朔の馬が飾られています。八朔とは旧暦の8月1日のことです。その八朔の節句に、子供の成長を祈って、初めての男子には藁馬が、女子にはダゴビナ(団子雛)が飾られました。
ダゴビナは、まず米粉と水を混ぜ、蒸してすり鉢でこねます。それに色素を入れて、白・黒・緑・桃・黄・水色などの団子を鶴などの動物や花などに形作ります。それらを膳に並べて飾ったものです。
現在では、この行事は9月1日に行われ、翌日には子供達が藁馬やダゴビナをもらいに回ります。県内では芦屋だけに残されて行事として、この八朔行事は福岡県指定文化財に指定されています。
芦屋歴史の里・歴史民俗資料館に、江戸時代の芦屋の商家の展示の中に、桑原久子が紹介されています。
桑原久子は代々続く商家米伝(こめでん)の女主人として、早く亡くなった夫の跡を継いで、幼い跡取りに代わって家業にいそしみ、隆盛に導きました。
芦屋米伝の桑原久子と同じように、上底井野村(現在中間市)小松屋の小田宅子(いえこ)も、両替・質屋の商家を女主人として経営していました。二人とも伊藤常足(つねたり)から和歌の指導を受けていました。伊藤常足は儒学・国学者であり、教育者でした。
1841(天保12)年、桑原久子・小田宅子に2人を加えた女性4人に、従者3人の計7人で、伊勢参りに出発しました。久子51歳、宅子53歳でした。善光寺や日光へも足を伸ばしました。伊勢から先は通行手形を持たないため、裏を抜ける旅でした。久子はこの旅の3年後に「二荒詣(ふたらもうで)日記」を、宅子は10年後に「東路(あずまじ)日記」を書きました。
小田宅子・伊藤常足については、「北九州の近隣」の「中間市・鞍手町」をご覧ください。
芦屋歴史の里・歴史民俗資料館の前の信号機から左に入り先に行くと、左手に海の家・柏原漁協活魚センターがあり、食事処になっています。道の正面が堂山です。
正面が堂山で、その右側、東側に波風を防ぐように柏原漁港があります。
これは満潮時の様子です。
干潮時の堂山の様子です。左手、西側に、波に浸食された岩場が見えます。鳥居が見えますが、これは蛭子社です。その右手に堂山の山上に上る石段があります。
堂山の石段を上って行くと、お堂があります。その左に石塔が並んでいます。1897(明治30)年頃、延命地蔵堂を建立する際、地中から出土した石塔です。
地中から五輪塔・板碑・石仏などが出土しました。これらの石塔は、壇ノ浦の合戦後、落人達が平家一門のためにひそかに祀ったものとか、山鹿兵藤次秀遠の下で多くの犠牲を出した山鹿水軍の遺族が、供養のために祀ったなどの説があります。
干潮で姿を現した堂山の西側の、波に浸食された岩場を歩いて行きます。浸食が激しく、落石のため山際は立ち入り禁止になっています。
堂山の先に、洞山はあります。洞山は波の浸食で洞穴ができています。洞穴の中に、東側の狩尾岬の突端が見えます。
満潮になり、洞山は島になりました。南側からは洞穴を見ることはできません。
芦屋歴史の里・歴史民俗資料館の前まで戻り、国道495号線を西に進みますと、すぐに道は左にカーブして南に進みます。そのカーブした右手に芦屋釜の里があります。
芦屋釜の里の南に魚見山があり、魚見公園になっています。芦屋釜の里は魚見公園の北東に位置します。ここは遠賀川河口の東岸にあり、芦屋釜が鋳造された金屋は、遠賀川西岸の芦屋橋付近になります。
芦屋釜の里は、芦屋釜の歴史をたどり、芦屋釜の復興と茶の湯文化の振興を図る施設としてつくられました。入口正面は、長屋門のつくりになっています。
芦屋釜の里に入って右側は資料館になっています。ここでは芦屋釜の歴史が紹介され、室町時代の芦屋釜、工房で制作された茶の湯釜が展示され、その制作工程が紹介されています。
資料館の内部で、芦屋釜が展示されています。
芦屋鋳物師達は、鎌倉時代末期頃から戦国時代まで活躍しますが、江戸時代初期にはその姿は芦屋から消えたようです。茶の湯釜のほかに、梵鐘や鰐口(わにぐち、社寺の軒先に吊るし、拝む時に綱を振って打ち鳴らすもの)などを制作しました。
岡垣町高倉神社の銅製の毘沙門天立像は芦屋鋳物師が制作したものです。これは、「北九州の近隣」の「岡垣・遠賀・水巻町」をご覧ください。
中国から元や明の戦乱を逃れた工人達が渡来し、高度の鋳造技術を日本に伝えました。芦屋には、茶の湯釜をつくるための原料の砂鉄、鋳型をつくるための鋳物土があり、鉄を溶かすための木炭を遠賀川の上流から調達できました。また鉄や他の原料を調達したり、鋳造した品々を運ぶのにも便利な港でした。
その作品は優秀で、国指定の重要文化財の9個の茶の湯釜のうち8個が芦屋釜です。しかし、芦屋釜の鋳造には多額の費用がかかりますが、芦屋鋳物師の庇護者の大内氏が滅亡し、領主の麻生氏が没落すると、芦屋釜は終焉に向かいました。
芦屋釜の里に入って左側は立礼席で、有料ですが、抹茶が用意されています。
立礼席の前に、地下に埋められた甕に落ちる水音を楽しむ水琴窟(すいきんくつ)があります。
立礼席の左奥に、芦屋釜復興工房があります。
芦屋釜復興工房の内部です。資料館にはここでつくられた茶の湯釜が展示されています。
芦屋釜の里の奥は、日本庭園になっています。芦屋釜復興工房の奥から出て、左手に行くと、露地もある本格的な茶室の吟風亭があります。
茶室の吟風亭の右手は池になっていて、池の上に張り出して建てられた、大茶室の蘆庵(ろあん)があります。池の周りは回遊式の日本庭園になっています。この右手に吟風亭はあります。
芦屋釜の里のすぐ先を右に、山に上ると魚見公園です。山上には料亭かねやすと国民宿舎マリンテラスあしやがあります。徒歩で国民宿舎の横を上りますと、広場になっています。そこを更に奥に進みますと展望台があります。
展望台から北西を望んでいます。左に、先ほど行った堂山の西側が見えます。右端は狩尾岬です。
展望台から南西を望んでいます。手前は遠賀川河口で、橋は遠賀川最下流のなみかけ大橋です。橋の西岸の右側は芦屋港で、左側は芦屋町の市街地です。
芦屋港をアップしています。その向こうは芦屋海岸です。海岸に沿った松林は三里松原で、その左奥に航空自衛隊芦屋基地があります。
芦屋海岸は海水浴場です。芦屋港のタワー状の建物の上は芦屋海浜公園で、駐車場も完備されています。その建物の左上の公園内に、ウォータースライダーや流水プールがあるレジャープール、アクシアンがあり、夏にはオープンします。
魚見公園を下りて国道495号線を右折して、次の信号機を右折すると、山上から見たなみかけ大橋に到ります。なみかけ大橋上から北側を見ています。右側の建物は国民宿舎マリンテラスあしやで、魚見山は魚見公園になっています。左手の山上に展望台が小さく見えます。左手の先方にあるのが堂山です。
魚見山の下の方は響灘の波によって浸食され、波懸の岸と呼ばれています。冬には大陸からの北西の季節風を受けた波が、この岸に打ち寄せます。波懸の岸には、堂山から遊歩道があります。
なみかけ大橋から南側を見ています。東岸の山鹿も西岸も芦屋町です。
橋は芦屋橋(現在架け替え中)で、江戸時代には芦屋の渡し場がありました。若松から左の東岸の山鹿に来て、渡船で右の西岸に渡り、赤間を経て博多に至り、更に唐津に行く唐津街道と、川沿いに直方に至る道がありました。
芦屋橋は、現在より175m上流に、1917(大正6)年に架けられました。現在地には、1940(昭和15)年に架け替えられました。
橋の東岸近くに小山があります。山鹿城跡の城山です。
なみかけ大橋から国道495号線に戻り、右折して南に進みますと、すぐに右に入る道があります。実はこの細い道が国道495号線です。芦屋町内は、古くからある道が国道になっているため、細い道の方が国道になっている所が結構多くあります。その右に入る道の手前から右折して坂を上ると法輪寺に到ります。
法輪寺の西の谷から、1927(昭和2)年銅製経筒が発掘されました。1308(徳治3)年の銘があります。銘文に、鎌倉幕府2代将軍で、伊豆修善寺で謀殺された源頼家の子で、非業の死を遂げた千寿丸の供養のために写経を納めたとあります。千寿丸の母は宇都宮氏の出であったので、ここで供養されたと思われます。
国道495号線に戻り、右に入る細い道を南に進みます。道が右に曲がる所の先に、大願寺の駐車場があります。そこから大願寺に入って行きます。大願寺は山鹿麻生氏の菩提寺といわれています。
本堂のすぐ前を左に行くと、駐車場になります。右側を見ると、山鹿城跡の城山が近くに見えます。
大願寺の山門のすぐ横に、珍しい六角堂があり、六体の仏像が安置されています。
大願寺の駐車場を右折して出ると、国道495号線でない、直進した広い道に戻ります。そこを右折して南に進むと、すぐに山鹿唐戸交差点に出ますので、そこを左折します。次の総合運動公園入口交差点を右折し、県道202号水巻・芦屋線を南に進みます。
県道202号水巻・芦屋線を南に進みますと、右手に3階建ての団地があって、その先丘の上に集合住宅が見える所に、大君交差点があります。そこを左折し、そこを少し進むと、左にフェンスに囲まれた所があり、そこを入ると、左手にグランドがあり、正面の山の下に大君(おおきみ)神社の鳥居が立っています。山上に上って行くと、拝殿の奥に石の祠があり、安徳天皇を祀っています。
1183(寿永2)年7月、源氏の攻勢により、平氏は都落ちします。8月には平氏は大宰府に入ります。しかし、ここも攻撃され、10月には大宰府を出て、山鹿城に入りました。その時の行宮(あんぐう)が大君にあったといわれ、大君という地名もこのことに由来するといわれています。
その後、平氏は大里、彦島そして讃岐の屋島に移動します。平氏が滅亡する壇ノ浦の戦いは、1185(元暦2、文治元)年3月24日のことでした。
大君交差点から県道水巻・芦屋線を少し戻った左手に公園があります。そこからの眺めです。江川が遠賀川に合流する地点で、手前が江川、先が遠賀川です。
かっては、川ひらた(五平太船)が江川を通って、遠賀川と洞海湾を行き来しました。江川については、「北九州点描」の「江川」をご覧ください。
山は山鹿城跡の城山で、現在は公園になっています。右端は魚見公園です。
山鹿唐戸交差点まで戻り、そこを西、遠賀川方向に進みます。芦屋橋の東岸を左折し、少し南に行った所です。その先は行き止まりになります。遠賀川東岸にあるこの山が山鹿城跡の城山で、現在城山公園になっています。
正面が城山公園入口です。坂を上って行くと、すぐお堂があり、そこを左に行きます。突き当たりを右に行き、更に突き当たりを右に行くと石碑が立っています。
石碑には、「山鹿兵藤次秀遠之城址」と刻まれています。黒田家第13代当主、侯爵黒田長成(ながしげ)の書によるものです。ここは二の丸で、すぐ南が本丸になります。この城は平安中期に築かれたといわれる古い城です。
山鹿秀遠は平氏方につき、山鹿水軍を率いて奮戦しますが、1185(元暦2、文治元)年3月24日壇ノ浦で源氏に敗れました。
鎌倉時代になると、下野の豪族宇都宮氏の一族が入城し、山鹿氏を名乗りました。のち、山鹿城は山鹿麻生氏の本城となりました。
1587(天正15)年九州を平定した秀吉は、大名の国替えを行います。しかし、大名になれなかった在地領主もいました。麻生氏も国を与えられず、筑後に移りました。この時、山鹿城も廃城になりました。
芦屋橋を渡り、西岸から東岸を見ています。芦屋橋は現在架け替え工事中です。橋脚だけが完成しています。右が仮橋で、左は工事用の橋です。
東岸の城山が見えます。江戸時代には芦屋の渡し場がありました。東岸の山鹿と西岸とは舟で行き来しました。こちら西岸の左、北に行くのが唐津街道筋、右、南に行くと、直方への街道筋になりました。
芦屋橋から遠賀川に平行して北に伸びる道に入ります。道は車が離合するのにやっとの道ですが、古くからの街道筋です。
右折してすぐの通りの右側に石碑が立っています。福岡藩焚石会所跡です。
1837(天保8)年、福岡藩は、新たに制度強化した焚石会所を芦屋・若松に設け、松本平内の献策した仕組法により、筑豊の石炭の採掘から売りさばきまで藩直営としました。
1872(明治5)年、焚石会所は廃止されました。松本平内の親族の一人であった安川敬一郎に建物は譲渡され、1877(明治10)年、安川敬一郎はここに石炭販売業の安川商店を開きます。1886(明治19)年には若松に移転し、中央資本と伍した地場資本の筑豊御三家(他は、麻生と貝島)と呼ばれる道を進みます。
少し先に行くと、街道筋の雰囲気の景観になります。ずっと先に点滅信号がありますが、そこから左折するのが街道筋になります。
ここの手前から左折します。すぐ先に、街道筋と平行してもう一本の通りが西側にあります。
街道筋と平行している西側の通りを右折して、少し戻りますと、右奥に金台寺(こんたいじ)の山門が見えます。
鎌倉時代、時宗の開祖一遍上人は念仏を唱えるだけで、全ての人は救われると説き、念仏を唱えて踊る踊念仏を行い、時宗を布教して、諸国を遊行しました。
金台寺本堂です。南北時代の1368(応安元)年、金台寺は創建されました。当時、金台寺は垂間野(たるまの)道場と呼ばれていました。時宗の道場は芸能・商工を生業にする人々の拠点としても使われました。
金台寺は麻生氏の保護を受けていたと思われます。室町時代の1462(寛正3)年から1588(天正16)年までの記載のある、時宗の信者である時衆過去帳が残されていて、麻生・香月氏の国人領主や芦屋鋳物師達が記載されています。
金台寺の前の通りに出て、北に進みます。突き当たりを右折し東に行きます。先に進むと、川に近い街道筋に突き当たります。この通りは点滅信号を曲がった街道筋になります。途中の右手に市場区公民館があります。その横に芦屋警察署跡の石碑があります。
1875(明治8)年、ここに福岡県第5大区芦屋警察掛巡視所が設置されました。のち芦屋警察署と改称され、若松・黒崎・赤間に分署を置きます。1889(明治22)年若松分署が若松警察署となり、芦屋分署となります。そののち黒崎分署は八幡警察署になり、芦屋分署は折尾警察署になりました。
芦屋警察署跡からUターンし、西に向かいます。この道に入ってきた所を通り過ぎます。道は上り坂になります。上り切った所の左手に愛生幼稚園があります。そこから右の路地に入った所に遠賀郡役所跡の石碑が立っています。
1873(明治6)年行政区画の大区の官庁の調所が芦屋に置かれました。1878(明治11)芦屋調所は遠賀郡役所になり、その管轄は八幡・戸畑・若松・中間を含む遠賀郡全域でした。1898(明治31)年郡役所は折尾に移されました。
路地からもとの道に戻ります。道は下り坂になります。道が一本交差しています。右手に大国座跡の石碑があります。横の建物は幸町公民館で、奥に公園があります。その奥は芦屋中央病院です。
大国座は1900(明治33)年に建てられた定員820人の大劇場でした。1944(昭和19)年に焼失しますが、1968(昭和23)年に再建されました。しかし、経営不振のため1966(昭和41)年解体されました。
先に進みます。地蔵堂があります。その前に芦屋宿場構口跡の石碑が立っています。江戸時代、若松からここ芦屋に来て、赤間を経由して博多に至る道は唐津街道と呼ばれ、博多から唐津に伸びていました。ここに構口を設け、旅人を監視していました。
坂を下りると、道路幅のある道路に出ます。その芦屋小学校前交差点を左折し、南に行きます。
その辺りに芦屋鉄道の終点の西芦屋駅がありました。1915(大正4)年に開通した芦屋鉄道は、鹿児島本線遠賀川駅から西芦屋駅を結ぶ全長6.1kmで、軌間762mmの軽便鉄道でした。乗合バスとの競合で経営不振となり、昭和初期には中止になりました。その跡は、1947(昭和22)年の米軍芦屋基地への国鉄芦屋線に利用されます。芦屋線は基地への物資を運びましたが、客車は基地の日本人労働者を運びました。のち普通の乗客も乗せるようになります。しかし、芦屋線も1961(昭和36)年廃止になりました。
南に行き、芦屋町役場前交差点を左折します。そのまま直進すると、芦屋橋に到ります。途中の右手に芦屋町役場がありますので、その駐車場を利用して、周辺を歩いて回ります。
芦屋町役場の南の一段高い所の崖の上に大塚古墳の石室があります。
1943(昭和18)年陸軍飛行場の工事のため、大城にあった5〜6世紀の円墳の大塚古墳は発掘され、石室のみここで復元されました。横穴式石棺で、ガラス製小玉を付けた遺体、短甲刀剣を帯びた遺体などが発掘されています。
崖の下の道を南に行くと芦屋中学校の横に出ます。そこを左折して東に行くと、中央公民館があります。その裏手の庭へは、建物の中に入らずに、道路沿いの一段高い所を奥に入ります。
中央公民館の庭に、長さ13.8m、幅2.46mの川ひらたが展示されています。
遠賀川の水運に使われた川舟は、底が浅く、平たい、川ひらた(ひらたは舟に帯と書きます)が使われ、五平太船とも呼ばれました。荷を多く積み、浅い川を航行できるように造られていました。
川ひらたは戦前に姿を消しました。この川ひらた以外は、北九州市八幡西区の折尾高校に保存されているのみです。川ひらたについては、「八幡のまちかど」の「堀川」をご覧ください。
中央公民館の一角に、かっては芦屋町歴史民俗資料館がありました。その庭には、これも展示されています。
この石造宝塔(せきぞうほうとう)は、1956(昭和31)年当時の町役場庁舎建設の際、この地の土中から発掘されました。総高約140cm、花崗岩製で、正面基礎に供養者の男女の像があり、左側面に建武四年(1337)の年号が刻まれています。塔身部には如来座像・四天王立像が刻まれています。
同じく中央公民館の庭に、これらの石造物が展示されています。
1977(昭和52)年城山の西側中腹で、公園道路の工事中、宝篋印塔、五輪塔、地蔵菩薩像が発掘されました。南北朝時代の火葬墓群で、領主一族のものと思われます。
中央公民館の前を東に行き、次の角を左折し、安養寺の横を北に行きます。安養寺の裏に当たる所に、この海雲寺(かいうんじ)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は立っています。
高さ6m強で、赤味がかった花崗岩でつくられています。1797(寛政9)年の山鹿・芦屋大火の被害者の供養のため、1803(享和3)年豪潮寛海が発願して造立されました。塔身の中に経筒、銅板文が納められています。
豪潮(ごうちょう)は肥後の人(現在の熊本県玉名市)で、天台宗の高僧で、諸国に多くの塔の造立を発願しました。能筆家としても知られています。九州各地を巡り、晩年は尾張徳川家に招かれ、名古屋で亡くなりました。
芦屋町役場から芦屋橋に行きます。西岸にある芦屋橋西の交差点を南に向かいます。交差点から2軒目の玄関前、右横の植木の間に芦屋釜鋳造跡の石碑があります。遠賀川沿いのこの辺り一帯は金屋と呼ばれ、往時は、この一帯で芦屋釜は鋳造されました。
南に行くと右手に神社があります。古代、芦屋は崗の水門(おかのみなと)と呼ばれましたが、それに由来する岡湊神社です。
仲哀天皇と神功皇后が西下した時、仲哀天皇の船は響灘から岡浦に入って来ますが、そこで船は進めなくなります。水先案内を務めていた崗県主(おかのあがたぬし)の先祖熊鰐(くまわに)は、この浦のほとりの男女二神のせいだと言います。そこで、お祓いをすると、船は前進し、岡浦から上陸します。この二神が大倉主・菟夫羅媛(つぶらひめ)で、岡湊神社はこの二神を祀っていて大倉社と呼ばれました。のち素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀り、祇園社と呼ばれました。
崗や岡は、しだいに乎加や遠賀など二文字で記されるようになり、読みも「おか」から「おんが」と変わっていったといわれています。
岡湊神社の横の道路を隔てて、千光院大蘇鉄があります。島原の乱の際、芦屋より出陣した黒田藩支藩東蓮寺藩(のち直方藩)の藩士が原城内より持ち帰ったものといわれています。
ここに神仏分離で廃寺になった千光院がありました。千光院は岡湊神社の神宮寺でした。その境内の寺中町に芦屋役者達がいました。
金台寺は、時宗の信徒の時衆の拠点である垂間野(たるまの)道場でした。時宗の特徴に踊念仏がありますが、時衆のなかには踊念仏を見せて収入を得ていました。江戸時代になると、藩の命令で集団移住させられました。最終的に千光院内に落ち着き、神人として芸能者になりました。
千光院大蘇鉄の南隣に安長寺があります。当初、空也堂として、役者町の人達が建立したものでした。
平安時代、阿弥陀如来に帰依し、念仏を唱えれば極楽浄土に往生できるとの浄土教が広まりました。平安中期、空也は諸国を遊行し、市で念仏の功徳を庶民に広めました。このため、空也は市聖(いちのひじり)と呼ばれました。空也は踊念仏の始祖といわれています。鎌倉時代の一遍は、空也に倣って踊念仏で全国を遊行しました。一遍は遊行上人と呼ばれました。
寺中町の芸能集団は芦屋歌舞伎と呼ばれました。しかし、1903(明治36)年解散してしまいました。職業的差別があったことが挙げられますが、経済的なことが大きかったと思われます。自由競争が厳しくなる中、大国座が開館して人々が新しい娯楽芸能に触れ、古典芸能で一座を維持することが厳しくなりました。
江戸時代より各地に巡業し、明治になって絶えた地方歌舞伎は、芦屋歌舞伎のほかに、近くでは植木歌舞伎(現在直方市植木)があります。
岡湊神社から更に南に行きます。遠賀川が見える所で、右手の正門町からの道と合流し、その先は祇園橋になります。右折して、正門町方向に向かいます。左右の商店街を過ぎた所に正門町の交差点があり、そこを直進した先に、航空自衛隊芦屋基地があります。
陸軍芦屋飛行場が米軍芦屋基地として接収され、返還後は航空自衛隊芦屋基地になっています。
秋には、芦屋基地航空祭が開かれ、一般の人も基地内に入られ、ブルーインパルスの飛行も見ることができます。
祇園橋まで戻ります。西川が遠賀川に合流する地点に架かる祗園橋を渡ると、遠賀川河口堰が見えます。1982(昭和57)に完成した可動堰です。治水と利水を目的にしています。
遠賀川西岸の堤防上にある県道27号直方・芦屋線を南下し、遠賀川河口堰の上流にある県道26号北九州・芦屋線に架かっている御牧大橋から上流を見ています。ここはすでに芦屋町ではありません。
直線の遠賀川が上流に伸びていますが、江戸時代以来延々と河川の改修工事が続けられてきました。河道も替えられ、毎年のようにあった洪水も、抑えられるようになりました。
県道北九州・芦屋線を西に行くと、芦屋競艇場があります。御牧大橋より南にありますが、この辺りが芦屋町の南端部になります。
芦屋競艇場は、芦屋町・岡垣町・遠賀町の3町が結成した組合により開催されています。1952(昭和27)年に初めて開催され、それは遠賀川が会場でしたが、1969(昭和44)年、内陸部の現在地に移転しました。

芦屋町の催事の案内は、下の芦屋町の公式サイトをご覧ください。
 http://www.town.ashiya.fukuoka.jp/


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