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下関    
下関市  [2006/09/16更新]
 

山口県下関市は本州の西端に位置します。関門海峡を間にして対岸は福岡県北九州市門司区で、双方の名をとって関門というように、関門は陸海の交通の要衝として古代より発展してきました。下関の関門海峡に面した地域には、壇ノ浦の合戦、巌流島の決闘、幕末の下関戦争など歴史の舞台になったところがたくさんあります。
なお、下関市長府は別途ページを設けています。「北九州の近隣」の「長府」をご覧ください。 

 

下関駅のすこし西の下関の中心街を望んでいます。タワーは海峡ゆめタワーです。
1996(平成8)年海峡メッセ下関はオープンしました。国際貿易ビル、アリーナと地上30階の海峡ゆめタワーからなっています。
タワーの付近に1942(昭和17)年関門鉄道トンネルが開通するまで、下関駅がありました。ここから対岸の門司港に関門連絡船が出ていましたし、釜山との間に関釜連絡船が往復していました。
現在もこの側の下関港国際ターミナルから韓国釜山や中国青島への航路があります。
海峡ゆめタワーは展望台になっています。ここからの眺めを紹介して、目的地を訪ねてみます。

 

海峡ゆめタワーから北東方向の眺望です。高速自動車道の関門橋が見えます。関門橋付近は関門海峡が一番狭く、早鞆(はやともの)瀬戸と呼ばれています。
関門橋の下のところに白い広い屋根が見えます。しものせき水族館・海響館の屋根です。この辺一帯が唐戸で、下関駅より2qほど東に行ったところになります。下関の観光の拠点です。

海峡ゆめタワーから東方向、対岸の門司港の眺望です。1隻の小船が海峡を横断してこちらに来ていますが、門司港と下関唐戸を結ぶ船です。大体20分間隔で運航され、所要時間5分で、運賃は大人390円です。
北九州から車なら、通行料普通車150円の国道関門トンネルを通り、下関市街地に向かえば、国道の唐戸交差点に着きます。
門司港については「北九州のみどころ」の「門司港レトロ」をご覧下さい。

唐戸の波止場の周りにはいろいろな施設があります。左の西側から、しものせき水族館・海響館、関門連絡船や巌流島・海峡遊覧の船が発着する唐戸桟橋です。

 

 

波止場の反対、東側に魚の卸売市場の唐戸市場があります。唐戸桟橋と唐戸市場の間に、レストランやショップが入った2階建ての白い建物のカモンワーフがあります。
右は唐戸市場の内部です。一般の人も新鮮な魚介類を買物することができます。金土日と祝日には市場内の業者が料理を作って販売します。椅子とテーブルが市場内に用意されますので、豊富な魚介類を食材にした料理を食べることができます。

カモンワーフと唐戸市場の間に、ザビエルが下関に上陸したことを記念した石碑があります。ザビエルは鹿児島に上陸して、平戸を経て下関にやってきました。山陽道はここまでで、関門海峡を九州に渡る堂崎の渡しがここにありました。古くから下関の海の玄関口がここにあり、江戸時代には往来手形改めの番所もありました。

 

ザビエル上陸の石碑の近くに金子みすゞの詩碑があります。詩碑やみすゞに関わる場所を巡る、金子みすゞ詩の小径という散策コースの地図が掲示されています。それほどの距離はありませんので、街角を散策するには丁度いいかもしれません。

 

海岸沿いの国道9号線と関門トンネルや高速道からの道路が交差する唐戸交差点の東に、旧下関英国領事館があります。1906(明治39)年イギリス人の設計で、英国製赤レンガを使って建てられました。1941(昭和16)年に領事館の役割を終えました。国の重要文化財に指定されていて、現在は市民ギャラリーとして使われています。

 

唐戸交差点の反対、西に下関南部町(なべちょう)郵便局があります。レンガ造りの郵便局は、1900(明治33)年建築の国内最古の郵便局舎で、現在も現役の郵便局として使われています。

 

下関南部町郵便局の隣の交差点に近い方に、旧秋田商会ビルがあります。海運会社の事務所兼住居だった旧秋田商会ビルは、1915(大正4)年に建てられ、2・3階が住居で、屋上に茶室や日本庭園があります。
現在は観光情報センターになっています。金子みすゞ詩の小径のコースはここが出発点で、唐戸市場が終点になります。

 

観光情報センターを出て少し西に行き、次の交差点を右折し、さらに次を左折して西に行くと、金子みすゞ顕彰碑があります。奥は寿公園です。公園の左の道は港がみえる丘の径という散策路になっています。
1903(明治36)年山口県大津郡仙崎村(長門市仙崎)に金子みすゞは生まれました。生家跡に金子みすゞ記念館ができています。20歳の時下関に移り住みました。この頃より詩をつくり、金子みすゞのペンネーム(本名金子テル)で投稿し、雑誌に掲載されました。作品は西条八十に絶賛されました。しかし、詩作を結婚相手から禁止されたり、病気をうつされたりして、1930(昭和5)年自らの命を絶ちました。26歳の薄幸の人生でした。一時世の中から忘れ去られていましたが、矢崎節夫氏の手で512編の詩が発見されました。みすゞの詩は読んだ人々に感動を与え、次々と伝えられていきました。

 

 

唐戸市場の前に、国道を挟んで亀山八幡宮があります。関の氏神として親しまれています。平安時代に創建された神社で、領主の大内氏や毛利氏から崇敬されました。
幕末、境内には亀山砲台がありました。1863(文久3)年5月11日午前2時頃久坂玄瑞の指揮の下、沖合いのアメリカ商船ペムブローグ号攻撃合図の砲弾を亀山砲台から発射しました。長州藩は海峡航行の外国船を次々と砲撃し、これに対し外国艦船からの報復攻撃を受けました。さらに1864(元治元)年8月英仏米蘭の四国艦隊の攻撃を下関は受けました。下関戦争です。四国と停戦協定を結んだ長州藩は、この後攘夷から開国、そして尊王討幕へと進んで行きます。

河豚(ふぐ)の本場は下関です。亀山八幡宮境内にふくの像があります。下関ではふぐとは呼びません。福に通じるのでふくと呼びます。
おいしいが毒をもっているので、河豚を食べることは禁止されていました。明治20(1887)年頃、伊藤博文首相が下関に来た折河豚を食べ、そのうまさに驚き、山口県令に禁止を解かさせたということで、河豚食解禁のさきがけとなりました。

 

唐戸市場の屋上から北東方向を望んでいます。山は火の山で、山頂は展望台になっています。その下は関門橋の下関側になり、建物は春帆楼です。
ここからは国道を東に行ってみます。

 

亀山八幡宮の前を東に進み、2つ目の角を左折すると角に菓子店の梅寿軒があり、そこを左折し、店の前の階段を上って行きます。一つ目の階段を上ると、道は直進と右に行く道になります。右に行く小道は李鴻章(りこうしょう)道と呼ばれています。日清戦争講和会議が春帆楼で行われた折、清国代表の李鴻章が危険を避けるため、宿舎の引接(いんじょう)寺から春帆楼に通った道といわれています。
直進しますと、この階段になります。藤原義江記念館への道です。案内に従って階段を上り、坂道を上って行きます。

 

 

1936(昭和11)年に建てられたこの藤原義江記念館の前に芝生の庭がありますが、そこに白いペンキの洋館「紅葉館」が、明治の末に建てられました。下関在住の古川薫の直木賞受賞作、藤原義江の生涯を描いた「漂泊者のアリア」に建物の様子も描かれています。
藤原義江記念館で我らのテナーの歌声を聞きながら、窓から見える関門海峡を航行する船を眺めました。
1898(明治31)年藤原義江はイギリス人の貿易商と琵琶が上手な芸者の母との間に生まれました。認知を拒否され母方で育ちますが、人に預けられ転々とします。11歳のとき大阪から父を訪ねて下関に来ます。「紅葉館」での父との生活は波乱万丈の義江の生涯の中で夢のような生活だったかもしれません。
父の養育費で、東京に移って学生生活をします。演劇に憧れ新国劇に入団していた時オペラに惹かれ、遂にはイタリア行きを決意します。父に援助を請いますと、父は快諾します。しかし、義江のイタリア行きの直前に急死しました。妻と子を日本残して、父の遺産で洋行します。
藤原義江は歌と恋に生きました。イタリア・イギリス・アメリカと巡って3年後の1923(大正12)年に帰国しました。新聞で報道されていた義江は、帰国すると有名人になっていました。
藤原あき子とスキャンダルの末結婚しました。その間にアメリカビクターで吹き込みをします。1934(昭和9)年藤原歌劇団を創立します。
戦後も義江はオペラ界の大御所として活躍します。しかし女性遍歴は続き、あき子と離婚します。1976(昭和51)年死去します。享年77歳でした。

国道9号線に戻り、国道を東に行くと、左に春帆楼があります。ここで1895(明治28)年日清戦争の講和会議が開かれ、清国の李鴻章と伊藤博文の間で日清講和条約(下関条約)が締結されました。
春帆楼の横に日清講和記念館が建てられ、会議で使用された調度品や資料が展示されています。記念館の外には会議の日本側代表の伊藤博文と陸奥宗光の銅像が建てられています。
伊藤博文が河豚を食したのはこの春帆楼で、河豚食解禁のきっかけになりました。春帆楼は宴会場と客室のある下関の迎賓館です。

 

春帆楼の東隣は赤間神宮です。国道を挟んだ海側に赤間神宮の駐車場があります。そこからの眺めです。関門橋付近が早鞆瀬戸で、早鞆瀬戸に面した下関側の沿岸付近が壇ノ浦になります。
この駐車場の横が小公園になっていて、朝鮮通信使上陸記念碑が建てられています。鎖国の江戸時代、朝鮮からの使節団、通信使の本土の最初の上陸地であった赤間関(下関)に、善隣友好を願って記念碑は建てられています。碑文は漢文・ハングル・日本語・英語で書かれています。

 

朱塗りの門は赤間神宮の水天門です。
1185(元暦2)年3月24日彦島を出て田野浦に集結した平氏の軍船と、満珠・干珠の二つの小島の間に集結した源氏の軍船の間で戦いが始まります。戦いは当初平氏有利が、しだいに源氏有利となり、壇ノ浦で平氏は敗れます。
平氏一門は海中に身を投じます。安徳天皇・二位尼(清盛の妻)は入水しました。建礼門院(安徳天皇の母)も入水しますが、救い上げられました。

 

 

入水した幼帝の安徳天皇を祀ったのが赤間神宮です。
水天門の横に安徳天皇阿弥陀寺陵があります。明治維新後、天皇を埋葬した墓所である御陵となりました。
毎年5月3日の赤間神宮の先帝祭で、上臈(じょうろう、高位の女官、または遊女の意)参拝が行われます。
生き残った平家の女官達は、生活のために春をひさいで暮らしていました。その場所が赤間関稲荷町(現在の下関市赤間町の一部)といわれています。安徳帝の命日に、遊女達がきらびやかな衣装で御陵に参ったのが先帝祭の始まりといわれています。時代が下っても、稲荷町の遊郭から遊女達の上臈参拝は行われました。
花魁(おいらん)が稚児・禿(かむろ)らを従えて、赤間神宮での外八文字を描きながらの道行は豪華絢爛です。

  

海峡ゆめタワーから南方向の眺望です。島は武蔵と小次郎の決闘の巌流島です。巌流島の右上に張り出しているのは彦島です。巌流島の向こうの海は関門海峡の大瀬戸です。その向こう対岸は門司駅付近です。

巌流島への船は唐戸桟橋から発着しています。大体30分間隔で運航され、所要時間は10分、運賃は往復で1,000円です。見学時間を合わせても、1時間程度で唐戸桟橋に戻ってこれます。

 

巌流島の桟橋の近くに、村上元三の「佐々木小次郎」の一節が刻まれた船の形の巌流島文学碑があります。巌流島の住所は下関市大字彦島字船島です。1612(慶長17)年、船の形に似たこの船島で、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われました。のちにこの島は小次郎の流派名を取って、巌流島と呼ばれるようになりました。

巌流島は決闘当時の6倍の面積になっていますが、桟橋から上った所の小山の当たりが当時の島といわれています。巌流島文学碑の反対側にあるこの石碑は、1910(明治43)年島の開鑿工事完成時に建立された佐々木巌流の碑で、小山の反対側に現在はあります。巌流島には、一番多い時には30軒ほどの家がありましたが、現在は無人島です。

 

武蔵・小次郎の像は、2002年村重勝久氏の作の小次郎像が建てられ、決闘の時と同じように遅れて、2003年廣瀬直樹氏のデザインの武蔵像が建てられました。宮本武蔵については「北九州のみどころ」の「手向山公園」をご覧下さい。

 

武蔵・小次郎の像の横に人工海浜がつくられています。決闘の場所をイメージした白い砂浜で、武蔵が乗ってきた舟もあります。

 

 

下関には以前より水族館がありましたが、2001(平成13)年新たに唐戸に、しものせき水族館・海響館がオープンしました。
入館すると、映像が暗闇に映る所をスロープエスカレーターで4階に上がり、そこから下りてくるコースになっています。
まず関門海峡が見えるところに潮流水槽があります。そこから天井に魚が泳いでいる左の海中トンネルを通り、3階に下ります。次に右のように潮流水槽を下からも見ることができます。下関といえばフグですから、色々なフグも展示されています。下関の近海にいる鯨の一種のスナメリも展示されています。

イルカやアシカのショーが、関門海峡が見える円形の水槽で行われます。開催時間前から来場者達が観客席の集まってきます。子供達は大喜びです。

 

かって下関は南氷洋捕鯨の基地でした。1階にシロナガスクジラの骨格標本が展示されています。体長26mのメスで、1880年代にノルウェーで捕獲されたものです。シロナガスクジラの全身骨格標本の展示は、日本ではここだけです。

 

海峡ゆめタワーから北西方向の眺望です。下の鉄道は下関駅付近です。左方向は関門鉄道トンネルを通って門司駅に行きます。
中央の水面は彦島と本土の間の小瀬戸です。小瀬戸は南の関門海峡と北の響灘に通じていて急流でしたが、1937(昭和12)年に小瀬戸は締め切られました。小瀬戸を関門海峡に出たところに巌流島があります。
先の海は響灘で、手前の島は右から六連(むつれ)島(下関市)、馬島・和合良島(北九州市小倉北区)で、先の島は右から白島男島・女島(北九州市若松区)です。

 

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