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直方市
  [2007/01/06]
 

 

遠賀川は、直方の市街地で彦山川が、北の植木で犬鳴川が合流して北流します。直方平野の中心に直方市はあります。
平安期、鞍手・嘉麻・穂波郡の遠賀川流域に在地領主の粥田経遠(かいたつねとう)が勢力を張っていました。芦屋の山鹿城主山鹿秀遠はその子です。平氏に加担した粥田・山鹿一族は滅亡しました。中世、直方はこの広大な荘園の粥田荘と植木荘に属しました。
関ヶ原の戦いの後、黒田長政に筑前一国52万石が与えられました。長政の死後、秋月藩とこの地に東蓮寺藩(のち直方藩と改称)の2つの支藩が設けられます。のち直方藩主が福岡本藩を相続したため直方藩は廃絶となります。その後復活しますが、また廃絶されます。
江戸時代より石炭が採掘されました。川ひらた(五平太船)で遠賀川を下り、芦屋や堀川を経由して若松に運ばれました。明治になると新入炭鉱に中央資本の三菱が進出し、炭鉱開発を行いました。1891(明治24)年、直方−若松間の鉄道が開通しました。更に鉄道は炭坑がある所に伸びて行きました。筑豊炭田を背景に直方に鉄工業が起きてきました。直方は鉄道網の中心で、筑豊の直鞍(ちょくあん)地区の中心で、商業が盛んになりました。
筑豊は遠賀川の下流域を除く、支流を含めた広い流域です。鞍手・嘉穂郡(明治29年に嘉麻・穂波郡が合併してできる)と田川郡の3郡の地域を指し、かって日本最大の炭田地帯でした。旧藩時代の筑前(前の2郡)と豊前(後の1郡)の国名をとって明治以降筑豊と呼ばれました。筑豊は直方・鞍手の直鞍地区、嘉穂・飯塚・山田の嘉飯山(かはんざん)地区、田川郡の田川地区に分かれます。
戦後朝鮮戦争までの復興期、石炭は大増産でしたが、エネルギー革命により石油が主役となり、炭鉱は次々と閉山していきました。近年直方市では石炭産業の代わりに工業団地が造成され、隣接する北九州市のベットタウンになっています。

八幡西区馬場山から国道200号直方バイパスを南下します。左手にイオン直方ショッピングセンターが見えます。竜王峡の案内がありますので、次でパイパスを下ります。パイパスを出た所で左折します。右手に福智山が見えてきます。南東方向で、標高901mの福智山頂は北九州市小倉南区・福智町・直方市の境界になります。

 

道路の右前方、東方向に標高607mの雲取山が見えます。点滅信号がある所が交差点になっています。内ヶ磯(うちがそ)入口で、後ほど戻って来て南に曲がります。まずは、直進して東方向に進みます。

 

前方に尺岳が見えてきました。竜王峡の案内がありますので、道を右手に入って行きます。尺岳は標高608mで、山頂は北九州市八幡西区と直方市の境になります。右下の山麓に入って行きます。

竜王峡には水の神が祀られた神社があります。谷川沿いの傾斜地は、キャンプ場になっていて、バンガローが点在しています。

 

先ほどの内ヶ磯入口の交差点まで戻り、交差点を左折して南下します。この道筋に高取焼の窯元が点在します。
高取焼は、朝鮮出兵の折、陶工八山を連れ帰り、鞍手郡鷹取山山麓永満寺宅間窯で焼かせたのが始まりでした。後、ここ同郡内ヶ磯に移りました。
雲取山山麓の福智山池の堰堤が左に見え、その下を通りしばらく行くと、直方いこいの村の案内があります。そこを左折して山手の上って行きます。直方いこいの村には会議・宴会・宿泊施設や体育施設があります。また温泉施設もあります。

 

もとの道路に戻り、更に南下します。中小企業大学直方校と福智山ろく花公園の案内がありますので、左折して山手に入って行きます。中小企業大学直方校が左にあり、右が福智山ろく花公園の駐車場になっています。駐車場から標高633mの鷹取山を見ています。道を更に上って行きますと、高取焼宅間窯跡になります。
高取焼は、内ヶ磯に移り、更に穂波郡幸袋白旗山に移りました。八山は高取八蔵と名を改め、彼とその子八右衛門が小堀遠州の下で茶陶高取の様式をつくりあげました。その後、上座郡鼓村に移り、隣の小石原村にも窯が開かれました。更にその後、鼓村の御用窯は福岡城下近くの麁原(そはら)に移されました。 

 

 

福智山ろく花公園の入園料は大人300円で、開園時間は9〜17時で、月曜が休園日になっています。
四季折々の花が咲いています。花の見ごろや開花状況は、下のサイトでお確かめください。
http://www.fukuchi-sanroku-hanakouen.jp/
 

またもとの道に戻ります。戻った所で道は右にカーブしています。しばらく行って左折し、福地小学校の前を通り、大通りに出ます。県道22号線直方・田川バイパスの上境交差点です。交差点を左折し、バイパスのすぐ先の福地川に架かった橋を渡って、バイパスから左折して川沿いに入って行きます。道は川を離れてすぐに水町遺跡に着きます。
水町遺跡は、弥生時代中期から古墳時代後期にかけての遺跡です。その中心は、古墳時代後期の横穴墓群です。

 

丘陵の岩盤をくりぬいてつくられた横穴墓が密集していて、丘の反対側、水町池側にも横穴墓群があります。
遠賀川流域には横穴墓群が多く残されていますが、この水町遺跡は、その中でも規模が大きく、典型的なものです。
左は、横穴墓内の人骨の出土状況を再現しています。人骨はレプリカです。

 

県道22号線直方・田川バイパスの上境交差点まで戻り、左折します。車2台が離合できる程度の道を進みます。十字路になり左折すると、福地川に架かった橋を渡ります。そのまま直進しますと、彦山川に着きます。そこに近代的な可動堰の岡森堰があります。
感田(がんだ)村大庄屋渡辺善吉の奮闘と郡奉行島井市太夫の助力により、1772(明和9)年に岡森堰は完成しました。しかし上流は豊前国境に近く、上流の小倉藩で洪水が起こり、紛争が度々起こり、その調整に苦労しました。
堤防上の水防倉庫がある所が水番邸跡で、そこに岡森水神碑をはじめとする石碑が立っています。

 

左折して福地川を渡ったもとの通りまで戻り、先に進みます。すぐに右に進む道がありますので、右に行きます。しばらく行きますと、右手に須賀神社の鳥居があります。更に行くと右からの道が合流します。そこに須賀神社の鳥居があり、駐車場があります。
平安時代初期の861(貞観じょうがん3)年、須賀神社境内に隕石が落下しました。近年の調査で、目撃記録を伴う世界最古の隕石といわれています。その記念の石碑が本殿前にあります。
 

本殿前を左に出ると、先ほど来た道に出ます。神社の裏手に廻りますと、左に入る道があり、そこに建武の板碑があります。
1336(建武3)年2月新田義貞らとの戦いに敗れた足利尊氏は、態勢を整えるために九州に渡ってきました。各地で戦いがありました。その当時南禅寺名僧明窓禅師が上野(あがの)の興国寺に来ていました。明窓禅師は尊氏に会い、亡くなった人達の供養を勧めます。尊氏は明窓禅師に供養を依頼しました。明窓禅師が供養のためにこの碑を建てたといわれています。碑には建武3年の年号があります。1336(建武3)年3月尊氏は多々良浜で菊池武敏らの軍を破り、その後東上し、6月には京に入ります。
三つの石碑のうち中央のものがその碑です。ただ、粥田荘の有力者が亡父をしのんで建てたものとの説もあります。

 

 

須賀神社の駐車場から右に出ます。しばらく行くと県道22号線直方・田川バイパスに戻ります。左折して北上します。高架で交差している国道200号直方バイパスをくぐり抜けて直進しますと、国道200号線に突き当たります。そこが頓野交差点で、そこを左折し、遠賀川に架かった日の出大橋の手前を右折します。遠賀川の土手の道路を進み、次の信号を右に入って行きます。踏切の手前の右に小山があります。
その小山に阿高宮という神社があります。遠賀川が大洪水の時、上流の川崎町安宅から祠が流れ着いたので、ここに祀ったと伝えられています。
右に行った阿高宮の鳥居の前に感田の堰跡があります。洪水の時、道に板を渡して水の侵入を防ぐ施設で、板をはめ込む石柱やその周りの石垣が残っています。道の両側にあったのですが、片側だけが残っています。

阿高宮のすぐ先の踏切のすぐ右は、筑豊電鉄の感田(がんだ)の電停です。電車で左に行くと終点の筑豊直方です。1956(昭和31)年黒崎‐直方間の筑豊電鉄が開通しました。踏切を渡り、コンビニの先を右手に行ったすぐに、柴田丹兵衛の墓があります。
1733(享保18)年島原藩主が帰国の際、川の氾濫で一行は渡れず、上流の彦山川の長崎街道下境店屋(てんや)の渡しで瀬踏みしていた家臣の柴田丹兵衛が流され、その遺体が感田に流れ着きました。村人達が手厚く葬り、その勇気をたたえ、長く語り継ぎました。柴田丹兵衛の墓は、おこり(マラリア性の熱病)を治す神として、更には子供の成長が祈願されています。

 

国道200号線に戻り、日の出大橋を渡り、直進しますとJR直方駅に着きます。
1891(明治24)年8月筑豊興業鉄道(のち筑豊鉄道と改称)によって直方−若松間の鉄道が開通しました。それまで筑豊の石炭は遠賀川を利用した川ひらた(五平太船)で運ばれていました。筑豊興業鉄道は南の小竹まで延ばし、直方から金田まで支線を開業し、そののち小竹から飯塚に延長しました。豊州鉄道により行橋‐伊田間が開通していました。九州鉄道は筑豊鉄道を更に豊州鉄道や多くの鉄道会社を合併します。九州鉄道は金田‐伊田間を開通させました。1907(明治40)年九州鉄道は国有化されました。そして現在、国鉄は民営化されJRになっています。直方‐伊田間の伊田線、行橋‐伊田間の田川線、金田‐後藤寺間の糸田線は第三セクターの平成筑豊鉄道になりました。直方駅構内に平成筑豊鉄道のホームがあります。

 

直方市街地は徒歩がいいでしょう。直方駅前右手にアーケードの入口があります。駅前の東西のアーケードが西に行って南北のアーケードと接続します。右上のふるまち通りの看板の右が駅方向です。奥に伸びているのが南北のアーケードです。この通りがかっての長崎街道筋になります。
当初遠賀川上流の店屋の渡しを渡っていたのを、現在の日の出大橋付近で渡るようになりました。

 

アーケードの先で道路が交差して信号になります。その先もアーケードですが、町は古町から殿町になります。信号の手前右にレンガ造りの建物、旧福岡銀行南支店があります。これは交差した道路から見ています。
1913〜4(大正2〜3)年に十七銀行直方町支店として建築されました。右端のアーケードの面した角に、建設当初ドーム屋根がありました。
福岡銀行南支店閉鎖後は、1997(平成9)年明治屋産業創立者の谷尾欽也氏のアートスペース谷尾として開館し、ガラス工芸品や高取焼の宅間窯・内ヶ磯窯からの出土品が展示されています。谷尾氏の死後直方市に寄贈されました。

 

信号を過ぎて行くと、続いていたアーケードの端に来ます。そのまま進みますと左に2階建ての洋館があります。昭和初期に建築された医院でした。
1992(平成4)年谷尾氏が美術館として開館しました。死後直方市に寄贈されて、直方谷尾美術館になっています。収蔵品には氏が収集した青木繁・児島善三郎・中川一政らの絵画があります。

 

直方谷尾美術館の前が三叉路になっていて、今までの南北の道に東西の道がつながっています。そこを西に行きます。突き当りを右折して、北に行きます。
この辺りには骨董品や民芸品を扱うギャラリーのぐちの店舗が点在しています。

 

左手に多賀神社の鳥居があります。多賀神社へは筑豊本線に架かった歩道橋を渡って行きます。この鳥居の前付近は、東蓮寺藩主館跡です。
初代福岡藩主黒田長政の遺言によって、1623(元和9)年四男高政に4万石を与えて東蓮寺藩が成立しました。この地の東蓮寺の名は、新入の寺名からといわれたり、その寺は他の地にあったなど古くから諸説があります。
初代の高政から3代長寛まで藩主館はここにありました。長寛は東蓮寺を直方に改めました。直方は新入の小村の名とも、易断による方向にある直方村からとったなどの説があります。

 

鳥居をくぐり、歩道橋を渡り、左に行くと、多賀神社のこの門の前に着きます。奥に本殿が見えます。

 

多賀神社の境内から東方向を望んでいます。手前の線路がJR筑豊本線で、左から右に歩いた直方の市街地があり、遠くの山々の麓を初めに左から右に巡りました。右側の高い山が福智山です。

歩道橋を渡った所に戻ります。反対側に行くと、石炭記念館があります。右側の本館は、1910(明治43)年に筑豊石炭鉱業組合の直方会議所として建てられました。現在は石炭関係の資料や左の別館には機械器具が展示されています。屋外で石炭を運んだ蒸気機関車や鉱山での電気機関車やディーゼル車が展示されています。

 

石炭記念館の本館の前を通って坂道を上って行きます。この道は、左の多賀公園と右の多賀神社の境内を結ぶ歩道橋の下の谷間の道です。すぐに下り坂になり、小山の反対側の道に出ます。そこを左に上って行きます。市民体育館の手前、左の石垣の上に直方城址の石碑が立っています。
直方3代藩主長寛が福岡藩主を継いだため、直方藩は廃絶されました。1688(元禄元)年長寛の弟の長清は5万石で直方藩を再開しました。妙見山の多賀神社を現在地の北に移し、山上に藩主の居館を建てました。この頃一国一城令のため城と呼べず、御館(おたて)と呼びました。御館山の地名もこれによります。1720(享保5)年長清が死去すると、直方藩は廃藩となりました。

 

上ってきた坂道を戻り、左折してきた所も直進して坂道を下りますと、県道21号線に出ます。そこの左側に山部庚申(こうしん)社があります。
猿田彦大神を祀っていて、毎月5日が縁日で、12月5日に大祭があります。

 

庚申社の先を北に行きます。同じ左側に随専寺があります。この付近はかっては湧水が豊富で、寺の周囲は蓮池で、池の小島に弁天堂が建っていました。その弁天堂は現在、この様に寺の前に移されています。寺の裏手の墓地には、江戸時代の俳人諸九尼と有井浮風の比翼塚があります。

 

随専寺の先、跨線橋の歩道への階段の前に雲心寺があります。初代藩主高政が父長政追善のために建立しました。境内に高政と2代藩主之勝の墓があります。

 

跨線橋を渡って行きます。跨線橋の西端右手に公園があります。ここは貝島邸跡です。貝島は安川・松本、麻生とともに筑豊御三家の一つです。
貝島太助は1845(弘化2)年貧農の子として生まれ、8歳から坑夫として働きました。鞍手郡宮田に大ノ浦炭坑を開いたのが発展のきっかけとなりました。一時は苦境に陥りますが、日清戦争時の好況により苦境を脱しました。大辻炭坑を買収し、貝島鉱業を設立しました。太助は1916(大正5)年死去しました。その後貝島鉱業は数社を合併して、貝島礦業と改称しました。

 

ここから市街地を離れます。跨線橋を渡って先に行くと、レンガ造りの建物アートスペース谷尾の横を通ります。遠賀川の土手の国道200号線の手前の県道27号線に出て左折し、北に進みます。直方駅前通りを過ぎ、新入の駅前を通り、北に進みます。犬鳴川の天神橋に着きます。天神橋を渡り、直進と右折の土手沿いの道との間の下り坂に入ります。
すぐ左手に天満宮の鳥居があります。朱塗りの欄干は、天神橋から直進の道です。神社は道路の先にあります。この付近は植木です。

 

天満宮の鳥居の反対側に、植木の堰跡があります。ここも片側だけしか残されていません。感田の堰跡と同じ構造です。支流を含めた遠賀川流域は、長い間洪水に悩まされました。

 

鳥居の前の道を先に行くと、左に曲がる道があります。そこを左折します。鳥居があります。車はそこまでです。鳥居をくぐって行くと踏切にあり、渡ると日吉神社の石段になります。平安時代空也上人が始めたという念仏踊に流れをくむ地方歌舞伎がありました。彼ら植木役者が全国を巡業し、帰国して正月の申(さる)の日に、日吉神社で植木三申踊(みさるおどり)が奉納されました。現在は4月の春祭に奉納されます。

 

三叉路に戻り、先に進みます。植木小学校の横で、犬鳴川の土手の県道27号線に出ます。右折して少し上流に行くと花ノ木堰があります。
1658(万治元)年この地に最初の堰がつくられました。遠賀川中流の東側は岡森堰が灌漑し、西側はこの花ノ木堰が灌漑しました。1976(昭和51)年に現在の可動堰が完成しました。
左にあるのは昔の堰の縮小模型です。

 

この花ノ木堰の大公孫樹(おおいちょう)は樹齢千年といわれ、かっては石炭を運ぶ川ひらた(五平太船)の船頭達が目標としていました。

 

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