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堀川    
[2005/10/22更新]
 

堀川は、江戸時代に開削された、北九州市八幡西区楠橋の遠賀川から、洞海湾に至る全長12.1kmの運河です。途中、中間市と遠賀郡水巻町を経由します。
遠賀川は度々洪水を起こしていたため、初代福岡藩主黒田長政は、遠賀川の築堤とともに、堀川の開削を計画しました。1621(元和7)年着工しましたが、1623(元和9)年、長政の死去により中断されました。長い年月が経ち、1751(宝暦元)年、工事が再開されました。中間唐戸(からと)が築かれ、1762(宝暦12)年、堀川は開通しました。更に、1804(文化元)年、楠橋に寿命(じめ)唐戸が築かれ、堀川は上流に延長されました。
堀川は、洪水防止・灌漑用水の確保・新田開発・物資の輸送に利用されました。そして、明治時代になると、川ひらた(五平太船)による筑豊の石炭の舟運に重要な役割を果たします。しかし、鉄道が開通すると、次第に鉄道に主役を奪われ、川ひらたは、1938(昭和13)年に姿を消しました。
開削した当時の使命、または歴史上、石炭の舟運に果たした役割は、現在の堀川にはありません。かっての姿を、現在の状況と比べて見ていきます。 

 

遠賀川を下り、当時の遠賀郡楠橋村寿命(現在、北九州市八幡西区楠橋西3丁目)から、川ひらた(五平太船)は堀川に入りました。
現在は、右上の遠賀川から左下の堀川に水は流れ込みます。上に見えるのは、遠賀川の上流に架かっている山陽新幹線の鉄橋です。その上流は、木屋瀬に架かっている中島橋になります。

 

はじめ遠賀川からの取水口として中間唐戸が築かれました。唐戸は水門のことです。その中間唐戸への導水のため、遠賀川に井堰を築きました。ところが、これにより遠賀川の流れが滞り、上流の村々が洪水の被害を受けました。この問題の解消のため、上流の楠橋村寿命(じめ)に唐戸が築かれました。
2階建ての木造の建物の下に、水を堰き止める堰戸が設けられ、そこを開けて、水は通ります。建物の1階の屋根付近が道路の高さになります。寿命唐戸は北九州市指定文化財です。寿命唐戸の構造は中間唐戸と同じなので、詳細は中間唐戸で見てみます。

 

堀川は塩田橋の先で、右から流れて来て、上から左に流れる笹尾川に合流します。
堀川は洞海湾に流入するまでに、現在は、次々と名称を変えていきます。堀川はここまでで、笹尾川になります。次は、わずか200mの新堀川、そして、中間唐戸から洞海湾まで9.3kmの新々堀川に、4回名称が変ります。

 

笹尾川は、左に見える土手ノ内水門を通って、遠賀川に注ぎます。ここ土手ノ内から中間市です。川の中の木の所を流れて行くと、新堀川になります。しかし、土手ノ内水門が常時開放されていて、新堀川には流れません。このため、1972(昭和47)年、堀川沿いにパイプを敷設し、笹尾川の土手ノ内ポンプ場から折尾に送水されるようになりました。

 

 

土手ノ内水門の上の道路を通り過ぎた右手に、水門があります。ここが笹尾川から新堀川への水門です。その傍らに「新堀川基点」の小さい石柱が立っています。
そこから200mで、右からの新堀川は先の黒川に合流しますが、現在は、新堀川には流れはありません。

黒川は、畑貯水池から香月を経て、遠賀川に注ぎます。黒川の遠賀川への合流直前の弁天橋から見ています。先程のパイプが右から左に伸びて、見えなくなるその下付近から、水は中間唐戸に入って行きます。

 

中間唐戸を、左は上流から、右上は横から、右下は下流から、見ています。

 

 

 

 

 左の一番下が水路です。現在は半分に制限されています。遠賀川が洪水の時、板でその水路に堰をしました。当初築かれた取水口の水門は、洪水の度に壊れました。このため、人夫頭の一田久作(いちだきゅうさく)が、備前吉井川に派遣され、密かに優れた唐戸の仕組みを盗み取って、帰国しました。惣社(そうじゃ)山が選ばれ、その岩盤が切り抜かれ、1762(宝暦12)年、中間唐戸が築かれました。
上にある板が堰をする堰板です。水路の両側の石壁に溝が掘られ、そこに堰板が射し込まれます。板の下の、水路の上の石の板(天井板)までは、堰戸は表戸・裏戸の二重になっていました。天井板の上は、積み重ねた板の向うのように、中戸で溢水を防ぎました。板の上に見える引き上げ軸の回転で、堰板を上下に動かし、水量の調整をしました。木造の建物、上屋(うわや)は堰板などを格納する建物です。中間唐戸は福岡県指定文化財です。
 

遠賀川の河床が高いため、大雨になると穀倉地帯の遠賀平野は水浸しになりました。黒田長政は遠賀川の築堤工事を行っていましたが、大雨で遠賀川が氾濫し、大きな被害を受けました。その翌年の1621(元和7)年、家老栗山大膳を総奉行に任じて、遠賀川から洞海湾に分流する堀川開削を開始しました。2年後、長政は死去し、工事は中止されました。
長政の子、忠之(ただゆき)が跡を継ぎました。藩主となった忠之は栗山大膳と対立し、世にいう黒田騒動に発展していきました。後、栗山大膳は奥州盛岡に配流されました。洪水は繰り返されました。しかし、財政難から工事は中々再開されませんでした。遠賀川の東岸の村々は、特に遠賀川の氾濫や旱魃の水不足で、凶作に見舞われていました。
1732年の享保の大飢饉や1738(元文3)年の大洪水の被害を受け、6代藩主黒田継高(つぐたか)は郡方元締の櫛橋(くしはし)又之進に現地調査をさせ、1751(寛延4)年、工事は再開されました。吉田村車返し(くるまがえし)の切り抜きの難工事を終え、1762(宝暦12)年、中間村惣社山の岩盤が切り抜かれ、中間唐戸が築かれ、堀川は開通しました。
その後1804(文化元)年、遠賀川上流の楠橋の寿命に唐戸が築かれ、堀川は延長されました。

 

下流から中間唐戸を望んでいます。これから古い写真は左側に、今のは右に掲載します。
古い写真は、次に紹介する所にある中間教育委員会の説明板に掲示されているもので、それによりますと、大正初期の写真ということです。
今は、唐戸の手前に道路が造られ、ここから中間唐戸の全体を見ることができません。川の流れも少なく、川の中にも草が生えています。

唐戸の少し下流に大樟(おおくす)が2本あります。中間市の天然記念物に指定されており、手前の大樟は唐戸が築かれた時期のものということです。
川の流れは、川幅の中央部に少し流れる程度です。

 

 

橋は片峰橋です。右折し東に行けば、3・400mでJR中間駅に着きます。
橋の側の道路脇に、かっての橋の石材が残されています。明治25年・大正15年の年号や、礦業組合の文字が見えます。

この付近は中鶴です。中鶴炭坑があったところです。1906(明治39)年、伊藤伝右衛門が開坑し、1914年(大正3年)からは大正鉱業が経営しました。1964年(昭和39年)を最後に、中間市の炭坑は全て閉山されました。

 

ここは中間市岩瀬です。下流から見ています。中鶴のアパート群の横を流れて来て、先に見える岩瀬祇園橋の右からの新々堀川は、左から流れて来た曲川に合流します。その曲川は右に流れて、下流で洞海湾からの江川に合流して、遠賀川に、その河口で流れ込みます。
手前の矢板で仕切られた所の、更に手前が新々堀川です。実は、堀川が上で曲川が下で立体交差して、堀川は手前に流れていました。1986(昭和61年)年の改修工事で立体交差はなくなり、合流することになりました。

 堀川は曲川より傾斜があるため、二つの川を一緒にする訳にはいきませんでした。江戸時代の最初の工事で、交差する所を石囲いのトンネルにしました。この工法を伏越(ふせこし)といいます。伏越の中を曲川が、その上を堀川が流れました。
これはサイフォンの原理と利用したものといわれています。簡単に言えば、出発地点が目的地点より高い位置にあれば、液体の移動によって管の内部に真空を作りだし、それにより液体を吸い上げ、目的地まで移動し続ける、というものです。当時の土木技術のレベルの高さを物語っています。伏越も現在はありません。

 

水巻町の吉田から貴船橋方向を見ています。右端の山の更に右の奥に、貴船神社はあります。古い写真は明治中期となっています。
これから3枚の古い写真は、次に紹介する河守神社の境内にある堀川歴史公園の陶板に焼付けられた写真です。
最初の栗山大膳に命じて工事をした所が、貴船神社の東の大膳堀です。この時の工事区間は、貴船神社の東から堀川の上流になり、曲川との交差点の南の上流に到りました。そのルート上に、水巻町の貴船橋の上流の大膳橋があります。下流の計画ルートに八幡西区大膳という町名や大膳橋があります。栗山大膳に因んだものです。

 

北九州市八幡西区との境界に近い、水巻町吉田の北部に堀川の守り神の河守神社があります。大山祇神などの神々のほか、再工事を始めた藩主黒田継高が祀られています。古い写真は大正初期頃となっています。
河守神社の氏子は、堀川用水を利用した次の16ヶ村で構成されていました。
中間 岩瀬
二(ふた) 下二 吉田 頃末 伊左座 立屋敷 えぶり(木偏に八) 古賀 猪熊
折尾 本城 御開(おひらき) 陣原 則松
(現在は、上は中間市、中は水巻町、下は北九州市八幡西区です)

河守神社のすぐ下流に車返しの切り抜きがあります。ここが堀川開削工事の一番の難所でした。現在もその工事の際のノミ跡が残っています。
最初の工事の時、吉田から折尾村への工事は、岩盤上に赤土があるため、掘った上に土がずり落ちて埋まってしまうという難工事でした。そのため、工事再開に際しては、コースを西に変えました。しかしここには、厚い岩盤の切り抜きという難工事が待っていました。この工事には、石工事の専門家の郷夫(ごうふ)が従事しました。そして、土石の運搬には夫役とせず、農民から日雇いを採用し、一田久作を監督役としました。切り抜き工事は1755(宝暦5)年6月に開始して、1757(宝暦7)年9月に完了しました。

 

八幡西区大膳の折尾高校下付近です。今の写真では上流で工事のため、流れがなく、川底が見えています。古い写真は明治中期頃です。
川ひらたは、底が浅く、平たい川舟です。荷を多く積み、浅い川を航行できるように造られています。「ひらた」は「舟」偏に、「帯」の旁の字になります。
五平太船とも呼ばれました。

八幡西区折尾の市街地に入ってきました。三角屋根はJR折尾駅です。駅前は暗渠になっていて、新々堀川が再び姿をあらわすのは鹿児島本線のガードを通り過ぎた所で、折尾の商店街の裏通りになります。
駅前周辺のことは「八幡のまちかど」の「折尾駅前」をご覧下さい。

 

 

左は八幡西区中須の新々堀川排水機場です。流れはそこを通って、右のように、その先で八幡西区上津役を発した金山川が新々堀川に合流します。
1891(明治24)年8月、筑豊興業鉄道により、直方−若松間の鉄道が開通しました。これが筑豊本線のスタートとなり、その後、鉄道は筑豊の炭鉱に延伸していきます。当分は陸運と水運は共生して、1899(明治32)年には、年間の堀川の川ひらた通行量は13万艘に上りました。しかし、鉄道の安さ、早さ、そして安全に負け、川ひらたは、1938(昭和13)年に姿を消しました。

橋は八幡西区黒崎と本城を結ぶ道路の本城橋です。その先で新々堀川は洞海湾に注ぎます。川ひらた(五平太船)は洞海湾を渡って若松に着きました。
競争が激しく、収入も多いが危険も多い船頭稼業の中で、、きっぷの良さと、喧嘩早いが情にもろい、五平太船の船頭達の性格を川筋気質(かわすじかたぎ)と呼びました。
主役が鉄道に代わっても、大量の石炭を若松に運びました。若松は日本一の石炭積出港になりました。
運ばれた石炭は人力によって貨車から船に積替えられました。この作業に従事していた沖仲仕はごんぞうと呼ばれました。ごんぞう達に川筋気質は引き継がれていきました。

 しかし、昭和30年代、石炭から石油へのエネルギー革命により、石炭需要が急減し、炭鉱も閉山が続き、若松への石炭輸送もなくなりました。

 

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