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花尾山・河頭
(ごうとう)山    [2005/12/24更新]
 

花尾山は皿倉山の西北西に位置し、山頂を八幡東区と八幡西区の境界線が通っています。標高351mで、花尾城の古城跡があります。

河頭(ごうとう)山は花尾山の北西に隣接し、八幡西区の東北部に位置します。標高213mで、御影石の一種の花崗閃緑岩が山中に露出しています。

河頭山の麓に駐車場があります。その横が都市高速道で、河頭トンネルがあります。この付近のバス停に「屋形船」という名前が残っていますが、都市高速道ができる前は池があり、料亭があって、屋形船が浮かんでいました。

河頭山の山頂を目指して登って行きますと、「河頭山不動明王 頭山満翁」の案内板が出ています。そちらに向かいます。このあたりの山や土地を所有していた木村孔爾氏が心酔していた玄洋社の頭山満の名を刻ませた石碑が建てられています。

 

頭山満翁の石碑の先に不動明王像が建てられています。更にその横を通って登るか、元に戻って山頂を目指します。

 

広場に出ます。大きな岩に歌が刻まれたり、その上に石碑が建てられたりしています。大岩の上に仏像、そしてその横に人物像が建てられています。仏教済世軍・済世幼稚園の創立者眞田増丸の坐像です。

 

広場の一段上が河頭山の山頂です。山頂には石碑が八幡西区黒崎の市街地を背景に立っています。
1878(明治11)年黒崎村(八幡西区黒崎)は旱魃による飢饉に見舞われたため、木食(そばくい)上人(源唯行)を招き、河頭山で雨乞いをしていただいたところ、雨が降ったそうです。同じく、1893(明治26)年にも旱魃に見舞われ、その時も上人にお願いし、雨を降らせていただいたので、翌年この記念碑を建てたようです。

八幡西区藤田1丁目の浄蓮寺の裏手に、木食(そばくい)上人源唯行の墓があり、、「唯行大行者」と彫られています。

 

下りは広場に戻り、登って来た道とは違う、左側の道を下ります。途中に「忠孝」の文字を刻んだ大岩の碑があります。戦前、頭山満に木村孔爾氏が揮毫してもらったものだそうです。
玄洋社は明治の西南戦争後に、福岡で結成された政治結社で、頭山満は創立メンバーの1人です。昭和の太平洋戦争後、玄洋社はGHQ(占領軍総司令部)によって解散させられました。右翼の玄洋社という面が強調されますが、発足当時から自由民権、国権主義、アジア主義と変遷していき、多面性を持っていたといわれています。

 

忠孝碑を過ぎて下って行きますと、人工的にそこに置いたように、大きな岩がごろごろしている所に出ます。これは花崗閃緑岩という御影石の一種だそうです。以前は、河頭山にも石切り場がありました。

 

河頭山を下りて、花尾山に向かいます。左が花尾山で、右はその先の帆柱山です。花尾山の登山口は西と東にあります。

花尾山の西登山口を入っていった所から河頭山を見ています。登山道は左端の斜面になります。

 

花尾山の東登山口は、河頭山と花尾山の間の道路を、東の元城町方面に下り坂を下りた所にあります。東登山口から花尾山に入って行きます。すると、墓地があります。道路から左に入って行きますと、河頭山に坐像があった眞田増丸の墓所があります。

 

眞田増丸の墓所の左隣に、木村孔爾氏によって泉岳寺の忠臣蔵の四十七士の墓所を模したお墓が建てられています。

墓地の前のアスファルト道路を上って行きます。いよいよ花尾山登山道になります。登山道は東・中・西登山道の3つあり、すべて頂上まで所要時間20分です。つまり、登山口は東西にあり、入って行くと、登山道が3つあるということです。
花尾山には中世の山城の花尾城跡があります。それらを訪ねる山歩きになります。

花尾城は麻生氏の居城でした。築城時期は不明ですが、江戸時代貝原益軒によって編纂された「筑前国続風土記」では、1194(建久5)年、宇都宮上野介重業(しげなり)によって築かれたと記されています。
鎌倉時代、宇都宮氏の一族が、芦屋の山鹿を賜り、山鹿氏と名乗ります。その庶流が麻生氏を名乗ります。この間のことは、「北九州の歴史」「鎌倉時代1」の「1.源頼朝」をご覧ください。

後、庶流の麻生氏が嫡流の山鹿氏を凌駕するようになります。麻生氏は現在の北九州市八幡東区・八幡西区・戸畑区・若松区・中間市・遠賀郡を支配するようになります。室町から戦国時代、大内氏、後は毛利氏と大友氏の勢力争いに麻生氏は翻弄されます。この頃のことや大内氏によって花尾城が落城したことは、「北九州の歴史」「室町時代」の「6.大内氏と北九州」をご覧ください。大内氏の家臣相良武任が花尾城に入城し、落城したこともありました。このことは、「北九州の歴史」「戦国時代」の「3.戦国時代の北部九州」をご覧ください。
豊臣秀吉が九州を平定すると、麻生氏は筑後に所替えになり、花尾城は廃城となりました。この間のことは、「北九州の歴史」「安土・桃山時代」の「4.九州平定」をご覧ください。

 

 

 

 

 

中登山道を登って行きます。城跡の西端から、山頂の本丸跡に登って行くことになります。

上左 櫓台跡  上右 四の丸跡
下左 三の丸跡

 

三の丸跡を過ぎて登って行くと、西登山道と合流します。更に登って行くと、本丸の西、二の丸跡になります。

 

花尾山頂が花尾城本丸跡になります。東南東に、皿倉山が望めます。

 

花尾山頂からは、麻生氏の所領が望めます。
北側の眺めです。左は西の黒崎から東の桃園、右はその東の祇園から東田にかけての八幡の町、更に北に戸畑区が広がります。左右とも間に洞海湾があって、若松になります。

本丸跡より、東に一段低い所が出丸跡です。本丸を中心に東側にも城跡が残っています。これからは東登山道になります。

 

花尾城跡のみどころとして、井戸の遺構があります。これは傾斜の激しい北側斜面を出丸跡から下りて行きます。石階段の石塁があり、井戸があります。

 

井戸から東の方に向かいます。しばらく行くと、堀切になり、右は出丸の方向で、左は手前に一段高くなり、休憩所になっています。櫓台の跡と思われます。その先は馬場跡です。

 

馬場跡の東隅から下りて行きます。その先に堀切があって櫓台跡になっています。

ここにはお墓があります。名前を見ていきますと、二・二六事件の関係者の名になっています。木村孔爾氏が建てたものでしょうか。

 

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