北九州のみどころ

ホーム

 
合馬の竹林・三岳梅林    小倉南区合馬・辻三  [2008/03/22]
 

小倉南区合馬(おうま)は紫川の支流合馬川流域に位置します。辻三(つじみつ)は合馬の北側の山手に位置します。
合馬は古く駅址があり、駅馬が落合うことから名付けられた地名といわれています。江戸時代から1889(明治22)年まで合馬村でした。
辻三は、江戸時代から1887(明治20)年までの辻蔵(つじのくら)村と三岳(みつたけ)村が合併して辻三村が成立します。1889(明治22)年長行・辻三・合馬・田代・徳吉村が合併して西谷村になりました。1941(昭和16)年西谷村は小倉市に編入されました。
合馬(おうま)には、1400ヘクタールの竹林があります。その手入れされた赤土の土壌から、美味しい筍が生まれてきます。やわらくてえぐみのない「合馬のたけのこ」は、全国的な有名ブランドです。
辻三(つじみつ)は、小高い山が連なり、その山上の城跡には、戦国時代の落城悲話が残っています。その山麓には三岳(みつたけ)梅林や護聖寺(ごしょうじ)があります。
国道322号線の徳光交差点から西に入ります。すぐに両谷出張所前の交差点を右折します。直進しますと、ます渕ダム方向に行きます。
右折した道路は、県道61号小倉・中間線です。間もなく合馬川沿いに出ます。低い丘陵地は合馬の竹林です。その先の山の麓が辻三です。
県道の右手に合馬竹林公園があります。合馬竹林公園には展示館とその背後に竹・笹類見本園があります。
展示館内では合馬を紹介したり、竹製品などを展示しています。
展示館のすぐ後は芝生広場になっていて、池がある日本庭園になっています。
日本庭園に続いて、竹や笹の見本園があります。1.2ヘクタールの面積に、約150種類の竹・笹類が植えられています。
合馬竹林公園の斜め前の県道沿いに、合馬農産物直売所があります。週に水・土・日曜の3日地元の農産物を販売しています。水は8:30、土日は8:00から午後3時までですが、お昼にはほとんど売り切れている状態です。
合馬農産物直売所の先で道路は右カーブします。その先の状態です。
道は左カーブしています。左端の建物は合馬小学校です。1868(明治初)年、合馬に山本雲平の私塾があり、1873(明治9)年、そこを仮校舎として合馬小学校は創立されました。
合馬小学校の右側の平屋は合馬公民館で、その手前を右折すると、山越えで長行に到ります。その途中が辻三の辻蔵です。
合馬公民館の前に合馬神楽の案内板が立てられています。合馬神楽は、江戸時代中期から合馬天疫神社に奉納する神楽として伝えられていました。明治になると一時途絶えていましたが、明治末に村人によって復活されました。
小学校の先で、県道は少し上り坂になり、そこを過ぎると、辻三への右折の道があります。三岳梅林の案内が出ています。
右折したここは、辻三の三岳に当たります。家並の中で、三岳梅園へは一方通行になります。案内に従って上って行きます。
坂道を上って行きますと、山の麓に三岳梅林はあります。三岳梅林は山手にあるため、梅花の開花は平地より少し遅くなります。
梅の木が植えられたのは、大正13年の昭和天皇の御成婚を記念してといわれています。1979(昭和54)年からは、三岳梅林公園として整備されています。
2・3月には紅梅・白梅が咲きます。
梅林の奥に登って行くと、梅林越しに、合馬からの道筋が望めます。
三岳梅林の先、東側に曹洞宗の護聖寺(ごしょうじ)があります。室町時代の1416(応永23)年、三岳城主長野氏の菩提寺として創建されました。
三岳城は、南北朝時代に築かれた山城の大三岳城(おおみつがたけじょう)と小三岳城(こみつがたけじょう)の二城からなり、長野城主長野氏の一族が守りました。
境内に住職の墓がありますが、森鴎外(鴎外の鴎の正字は區に鳥)や松本清張の作品に出てくる玉水俊こ(たまみずしゅんこ、こは交に虎の字です)和尚の墓もあります。
森鴎外が、12師団軍医部長として小倉に赴任していた間のことを題材にした作品のひとつ、「二人の友」に「安国寺さん」として登場するのが玉水和尚です。
鴎外の「小倉日記」は、行方不明になっていました。松本清張の芥川賞受賞の「或る「小倉日記」伝」は、鴎外の小倉時代の資料を集めて日記に代えようとした人をモデルにしています。鴎外と親交のあった玉水氏の遺族が三岳にいるというので、主人公田上耕作は尋ねます。耕作は身体に障害があり、言語も不明瞭でした。このため、用件を聞いてもらえません。翌日、母親は小倉から人力車2台を仕立てて、ここ三岳に二人はやって来ます。その甲斐があって、耕作は未亡人から話を聞くことができました。
護聖寺の山門下に、6体の地蔵尊が安置されています。バチ笠地蔵です。菅笠でもなく、托鉢笠でもない、バチ笠がどういう笠か、残念ながら分かりません。
笠地蔵は日本の伽話の類型の一つです。心の優しい老夫婦が、雪を被ったお地蔵さんに笠を被せてやり、その恩返しを受けるというものです。
このバチ笠地蔵には次のような話が残されています。
昔々、三岳の里に、作造じいさま夫婦が住んでいました。貧しかったですが、作造じいさまは正直で、働き者でした。ある年の暮れ、作造じいさまは、手間暇に作っていた6枚のバチ笠を、城下に売りに行くことにしました。この日は朝から小雪が降っていました。護聖寺山門下に来た時、信心深い作造じいさまは、お地蔵さまにお参りしょうと立ち寄りました。六地蔵は、頭や肩に雪がかかり、北風に吹かれて、いかにも寒そうでした。作造じいさまは、六地蔵の雪を払い、売りに行くはずだった6枚のバチ笠を被せてやりました。作造じいさまは、うれしそうに帰って来ました。話を聞いたばあさまも、一緒になって喜んでくれました。大晦日の夜、作造じいさま夫婦は、囲炉裏の側でうとうとと寝入ってしまいました。すると、裏口の戸が開き、バチ笠を被った6人の地蔵さまが、米俵・塩魚・煮〆箱・重ね餅・酒樽などを運び込み、何も言わずに消えてしまいました。眠い目で見ていた作造じいさま夫婦は、びっくりしてしばらく動けませんでした。夢でないことが分かった二人は、戸口に座って手を合わせました。作造じいさま夫婦は、地蔵さまが運んでくれたごちそうで、何十年ぶりかで、良い正月を迎えました。
護聖寺から下りてきた所から振り返っています。
中世を生き抜いてきた北九州の国人領主達は、豊後の守護大名大友氏と周防・長門の守護大名大内氏、その後を支配した戦国大名毛利氏との勢力争いに翻弄されます。長野氏もその例外ではありませんでした。
1568(永禄11)年、毛利元就は、小早川隆景・吉川元春に命じ、長野氏の籠もる大三岳城・小三岳城を攻めさせました。長野氏の多数の軍勢は大友宗麟の豊後にいたため、留守居役の城兵は防戦しますが、大三岳城は落ちました。生き残った大三岳城の兵達は峰伝いに小三岳城に逃げ込みますが、これも落ち、二つの城とも落城しました。
右の山上に大三岳城(おおみつがたけじょう)、左の山上に小三岳城(こみつがたけじょう)がありました。中央に護聖寺の鐘楼が見え、その右に護聖寺があり、その左に三岳梅林があります。
県道小倉・中間線に戻り、先に進みます。坂道の途中の右手に、合馬たけのこ観光園があります。早い時期からたけのこ料理がいただけますし、3月下旬からはたけのこ掘りが体験出来ます。また、たけのこの地方発送も行われています。
合馬たけのこ観光園の公式ホームページは次の通りです。
  http://www.ohma.jp/

県道を先に進みますと、つづら折の坂道を上って、八幡東区田代町に到ります。その先を右に行くと、八幡東区河内に、左に行くと、八幡西区畑に到ります。


 
動画共有サイト(Clip Life)でこのページの動画がご覧になれます。
この先をクリックしてください → 合馬の竹林・三岳梅林
ご覧になった後このページに戻る時は、ブラウザーの戻るボタンをクリックするか、
動画の横の関連リンクをクリックしてください。


コメントを掲示板に気軽にお寄せください   「北九州から、北九州に
掲示板上部右端の「ホーム」のボタンをクリックしますと、「ホーム」に戻ります

 

トップへ

北九州のみどころへ

ホームへ