北九州のみどころ

ホーム

 


高塔山公園
    若松区修多羅  [2008/06/14]
 

中世、高塔山には、麻生氏の家臣大庭隠岐守種景(たねかげ)の城があったと伝えられています。
標高124mの高塔山には、1931(昭和6)年久留米の工兵18大隊によって、頂上までの登山道が完成しました。1940年(昭和15年)都市計画公園に指定され、2年の継続事業として着工します。しかし、1941年(昭和16年)太平洋戦争に突入したため、高射砲陣地となり、全面閉園となります。
1945年(昭和20年)終戦となり、1952(昭和27)年本格的整備が始まり、翌年、当時の若松市の事業として竣工しました。その後、敷地や施設が寄贈され、1958(昭和33)年には麓から頂上にロープウェイが開通しましたが、1971(昭和46)年に廃止になっています。
1962(昭和37)年に若戸大橋は完成し、1963(昭和38)年旧五市が合併し、北九州市が発足しました。その後も高塔山公園の整備は進められています。
高塔山公園は桜の名所ですが、近年はあじさいの名所として有名になっています。毎年、6月にはあじさい祭りが開催され、2008(平成20)年には10周年を迎えています。
地図と同範囲です。左端が高塔山で、若松市街地に隣接する丘陵地です。石峰山地の東端に位置します。南が洞海湾で、東の若戸大橋で戸畑区とつながります。
山手町からの高塔山への登山道は、1931(昭和6)年、久留米の工兵18大隊によって建設されました。登山道の入口の右に白山神社があり、左には佐藤公園があります。
佐藤公園と高塔山公園は、桜の季節には花見ができます。高塔山公園と同じように、佐藤公園にもあじさいが植えられています。
佐藤公園には、石炭商の佐藤慶太郎氏の邸宅と庭園がありました。佐藤氏が別府に転居するに際し、この地を若松市に寄贈しました。高塔山山麓のこの地を公園とし、佐藤公園と名付けたと記された、1938(昭和13)年の石碑が園内に立っています。
佐藤公園の奥の一段高い所です。土手の向うに登山道が通っています。
登山道の入口の右に白山神社(はくさんじんじゃ)の鳥居があります。結構長く、傾斜の厳しい石段が続きます。車で、次の鳥居の所やその上の社殿の横まで行くこともできます。
1629(寛永6)年、白山を神体とする白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ、石川県白山市)の分社の白山神社が隣の藤木村にあり、そこから修多羅(すたら)の産土神として勧請されました。
登山道を上って行きます。左手の佐藤公園の外周にあじさいが植えられています。道は左にカーブしますが、入口からここまでが、登山道で一番傾斜のきつい箇所です。
白山神社の境内へは、カーブした所の反対の右側に、手前と奥に二つの道があります。
手前の下の道を入って行きます。白山神社の石段の途中にある鳥居が右に見えます。神社へのコンクリートの階段があり、その下を通り抜ける道があります。手前右に駐車場があります。
コンクリートの階段を上りますと、門があります。社殿はその先です。登山道から右、奥の上の道に入りますと、社殿の前に着きます。
白山神社は色絵武者図磁器絵馬を所蔵しています。1717(享保2)年、福岡藩は、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の4郡の年貢米の集積地を芦屋から若松に移しました。その米蔵は国道199号線修多羅2丁目交差点付近にありました。担当の奉行が伊万里焼の磁器絵馬を奉納しました。鎧姿の神功皇后、乳飲み子の応神天皇を抱いた武内宿禰(たけのうちのすくね)が描かれています。
登山道に戻り、左にカーブして上って行きますと、左手はすぐ崖になり、右手の土手にあじさいは植えられています。
道の左手が広くなっている所があります。あじさいもたくさん植えられています。
道が広くなっている所のあじさいです。あじさいの植栽は、地元の人達によって、年々増やされています。
道はこの先で、ヘアピンカーブになります。カーブを曲がった所で、車は一方通行になります。そこが一方通行の始点であり、終点になります。
上りの車はカーブを曲がって直進します。一方通行の坂を上り切ると、上下二車線の広い道に出ます。左手は芝生広場で、先の方に駐車場があります。駐車場が満車の時は、広い道を下りて行くと、左手に第二駐車場があります。
駐車場から芝生広場に向かうと、その手前の花壇にあじさいが植えられています。
芝生広場の手前、茶店の前を通って、頂上広場に向かいますと、左手に高塔山公園の石塔が立っています。下に高塔山公園の由来が刻まれています。
大庭隠岐守種景の城があったことから始まり、戦前の都市公園に着工したこと、戦後の本格的な整備があり、高塔山公園が竣工したことなどが記されて、1957(32)年5月に建てられています。
山頂広場です。左は河童地蔵尊のお堂で、右は展望台です。
ここは高塔山城の本丸跡といわれ、明治の終り頃まで、濠の跡があったといわれています。高塔山城は麻生氏の出城として築かれ、大庭隠岐守種景が守っていました。
展望台からの眺めをしばらく紹介します。南側の眺望です。
水面は洞海湾です。洞海湾の左向うは戸畑区牧山です。右は八幡東区洞岡と地つなぎになった葛島(かつらじま)です。その背後、右手の高い山が皿倉山です。
展望台から東側の眺望です。
真下に広がる若松市街地と戸畑区を結んだ若戸大橋です。若戸大橋は、1962(昭和37)年に完成しました。その下を若戸渡船が航行し、人と自転車を運びます。
展望台から北東側の眺望です。
手前若松市街地から、海岸近くは北湊・北浜になります。海面を隔てた右向うは、八幡製鐵所の戸畑地区です。中央から左の遠くの山は、山口県下関市になります。
展望台から北北東側の眺望です。陸地の一番先は、ひびき灘臨海工業団地で、その先の細く平らな島は、藍島です。
展望台の反対側、西側の眺望です。
手前は、2008(平成20)年6月に完成した芝生広場です。中央の鉄塔の右先に鉄塔が小さく見えます。そこが石峰山山頂です。
これは高塔山中腹にある安養寺のお堂で、河童封じの地蔵尊が安置されています。安養寺は大庭隠岐守種景の菩提寺で、墓もあります。
地蔵尊の背中には大きな釘が打たれています。修多羅村の河童の話が伝えられています。
馬を川に引きずり込もうとした河童が失敗し、庄屋に捕まりました。庄屋は地蔵の背中に大きな舟釘を打ち込み、釘がある間は、河童にいたずらしないように誓わせました。
火野葦平は、河童好きで有名ですが、この話をもとに「伝説」(昭和15年)という小編を書いています。のち「石と釘」と改題されています。
「石と釘」の概要を書いてみます。
島郷の河童と修多羅の河童が、時折縄張争いで空中戦をします。朝になると、畑は戦死した河童の死体が青いどろどろの液体になって、農作物の被害は大変なものでした。
ひとりの山伏が鍛冶屋に無理を言って、大きな釘を1本作ってもらいました。
高塔山頂上のお堂の中に石の地蔵尊がありました。山伏堂丸総学(どうまるそうがく)は石の地蔵尊が軟らかくなるように祈祷していました。河童封じの祈祷をしていることを知った河童達は、あらゆる手を使って妨害しました。
何日か過ぎたある日、やせ細った山伏が石の地蔵に触れると、へこんでいました。彼は釘と金槌を手に取りました。手に持っていた経文が下に置かれました。この時を狙って河童達が山伏を襲いました。血だらけになって、山伏は必死になって釘を打ちました。力尽きて山伏が倒れました。河童達は青いどろどろの液体になりました。
6月になると、日曜日に、山頂広場をメイン会場とするあじさい祭りが開かれます。2008(平成20)年で10周年を迎えました。
祭りの際には、臨時駐車場が開設されたり、シャトルバスが運行されます。
日程やイベントについては、若松あじさい祭り実行委員会のサイトをご覧ください。
若松あじさい祭り実行委員会の公式サイトは次の通りです。
   http://www.h2.dion.ne.jp/~aji1/PC/index.htm
山頂広場の一段下の芝生広場では、あじさい祭り開催時に、ガーデニングに関するフリーマーケットが開かれていました。
芝生広場の北東にある花壇です。あじさいが植栽されています。
あじさいの小径を巡ってみます。
芝生広場から上って来た一方通行の道を少し下りて行きます。あじさいの小径の案内がありますので、左に入って行きます。車は通れません。
坂道を下って行くと、プールがあります。その前を右に行きます。すると、この様な池があり、睡蓮の花が咲いていました。左に行くと県木の森ですが、そこには帰りに寄ります。
あじさいの小径へは、池まで行かずに、手前を左に入って行きます。プールの横を過ぎて行くと、先の方に野外音楽堂が見えます。野外音楽堂の左側を通ってその裏側に進みます。この辺一帯は、周りに木々があって日陰になりますので、あじさいの開花は遅いようです。
日の当たる所に出て来ました。左側にあじさいがたくさん植えられています。そこの様子です。
これも同じ場所です。この場所までは車は通りませんが、その先で車が通る道に合流します。
道が合流した先の右側に、あじさいがたくさん植えられています。その一部分です。
先に行くと、先程上った一方通行の道に出ますので、右折して上って行きます。
一方通行の道を上って行くと、右手に県木の森があります。1968(昭和43)年につくられました。各都道府県の木が植えられています。福岡県はツツジです。よく分かりませんでしたが、日本列島を形取ったそれぞれの場所に、それらの木は植えられています。
先に進むと、先程の睡蓮の花が咲いていた池に出ますので、芝生広場まで戻ります。
芝生広場を南東方向に進み、展望台の南側を下りて行きますと、右手に万葉植物園が広がっています。万葉集の歌に書かれた植物が植えられ、その歌が紹介されています。
万葉植物園の前を通って下りて行くと、火野葦平文学碑が建てられています。
火野葦平(1907〜1960)は1938年(昭和13年)「糞尿譚」で第6回芥川賞を戦地で授賞し、兵隊三部作をはじめ、「花と龍」「革命前夜」等の作品があります。1960年(昭和35年)自宅「河伯洞」の書斎で自らの命を絶ちました。
河伯洞については、「北九州点描」の「河伯洞」をご覧ください。
火野葦平文学碑には、「泥によごれし背嚢にさす一輪の菊の香や」の碑文が刻まれています。葦平碑前祭が、1月24日の命日の前の日曜日にここで行われます。
火野葦平は、大庭隠岐守種景の墓がある安養寺の、玉井家の墓所に葬られています。
また、若松駅の前、若松市民会館内に火野葦平資料館があります。
火野葦平文学碑は、洞海湾を見下ろす広場にあります。展望台からの南側の眺望と同じですが、こちらは眼下に修多羅の人家が見えます。
芝生広場に戻り、広場を通り抜け、駐車場の前の二車線の道を少し下りますと、左手に吉田磯吉像の案内があります。木立の中を入って行きますと、火野葦平の「花と龍」にも登場する吉田磯吉の像があります。銅像の横に石碑「銅像建設を記念して」があり、長男の吉田敬太郎が書いています。
吉田敬太郎は国会議員でありましたが、戦時中軍部に逆らい投獄されました。獄中で聖書に出会い、クリスチャンとなり、出獄後牧師となりました。戦後は若松市長として活躍されました。碑文には1987年晩秋と書かれていますが、その翌年他界しました。
碑文の概要は次の通りです。
吉田磯吉(1867〜1936)は芦屋で生まれ、遠賀川の石炭輸送の川舟の船頭となり、船頭仲間の中で頭角を現してきました。その後、故郷を出て、京大阪で遊侠の徒と交わり、大親分を呼ばれます。しかし、帰郷して正業につき、炭砿経営や石炭販売に努めます。1915(大正4)年、突如総選挙に出て、衆議院議員に当選します。中央・地方のために尽力しました。その葬儀には人徳を慕って、多くの人が参列したと伝えられています。
二車線の道に戻り、更に下って行きます。この道は一方通行ではありません。下り切った所が交差点になっています。左手前に第二駐車場があります。
右手に行くと小石方面に出ます。
直進しますと、左上に屋根が少し見える仏舎利塔に行きます。石峰山への登山はその先を行きます。石峰山については、「北九州点描」の「石峰山」をご覧ください。
左に曲がりますと、登山道入口に戻ります。
左折の道は下り専用の一方通行です。上りの一方通行の始点まで戻りますので、そこを右折してヘアピンカーブを下ります。そこが下りの一方通行の終点になります。


動画共有サイト(Clip Life)でこのページの動画がご覧になれます。
この先をクリックしてください → 高塔山公園
ご覧になった後このページに戻る時は、ブラウザーの戻るボタンをクリックするか、
動画の横の関連リンクをクリックしてください。


コメントを掲示板に気軽にお寄せください   「北九州から、北九州に
掲示板上部右端の「ホーム」のボタンをクリックしますと、「ホーム」に戻ります

 

トップへ

北九州のみどころへ

ホームへ