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| 和布刈(めかり)公園は瀬戸内海国立公園の西端に当たります。本州と九州を隔てる関門海峡の中でも、激しい潮の流れの早鞆瀬戸(はやとものせと)に面する南の九州側の丘陵地です。海岸には、古代、都と大宰府を結ぶ交通の要衝として、門司関が設けられました。最高部の古城山には、中世、この地の豪族、門司氏の居城であった門司城跡があります。関門海峡では、源平の最後の戦いになった壇ノ浦の戦いがあり、幕末には、長州藩による攘夷戦の外国船の砲撃があり、その翌年には、長州藩に対する、四国艦隊による下関砲撃がありました。 | ||
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国道は鎮西橋交差点から右に曲がりますが、そのまま直進して進みますと、正面に和布刈神社の鳥居が現れます。上に見えるのは、高速自動車道の関門橋です。 |
| 鳥居の左横が小公園になっていて、門司関址の石碑が立っています。飛鳥時代の646年、都と大宰府を結ぶ要衝として、ここに関門海峡を渡る人や船を調べる関所を設けました。 | ![]() |
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門司関址の先に、駐車場のある広場があります。ノーフォーク広場といいます。 1959(昭和34)年、北九州市が誕生する以前、旧門司市は、アメリカ合衆国バージニア州の港町ノーフォーク市と姉妹都市の提携をしていました。北九州市が誕生してからもその関係は引き継がれ、友好関係を記念して、1986(昭和61)年、この広場は開かれました。 広場を通って、海側に来ました。左のノーフォーク広場にある国際海運会館にはレストランが入っています。背後の山は、公園の最高部の古城山です。 |
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| ノーフォーク広場の海岸側は、和布刈公園の海岸沿いを、高速道の関門橋の下を通り、早鞆瀬戸の潮流を見ながら歩ける観潮遊歩道の出発点です。 |
| ノーフォーク広場の横の坂を上った道路は左にカーブし、そのまま直進と、右に曲がって坂を上る道に分かれます。右折の道は、車は一方交通で、和布刈公園の周回道路になります。右折してすぐの左手の崖の上に明石与次兵衛塔があります。 朝鮮出兵で肥後名護屋城に下って来ていた豊臣秀吉は、母の急病の報せを聞き戻る途中、関門海峡の大里の沖合いの篠瀬(しのせ)で乗った船が座礁します。この責任を取って船奉行の明石与次兵衛は切腹します。その後、小倉藩主になった細川忠興は、明石与次兵衛の死を悼み、また海の難所の示標として、この塔を建てました。海峡の改良工事や戦争のために塔は放置されていましたが、この場所に移されました。江戸時代後期、江戸出府途中のシーボルトが、この塔のことを書いています。 |
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一方通行の和布刈公園の周回道路を上って行きます。高速道の高架の下で左右の分かれ道に出ますが、右側を上って行きます。左手に駐車場が広がっています。 駐車場の奥から標高175mの古城山が望まれます。周回道路は山の下を左から上って来て、右の奥に下って行きます。 |
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| 駐車場からは、門司港が眼下に見えます。この右に関門海峡そして対岸の下関が見えます。 交通の要衝としての役割は低くなって、門司港はさびれた街になっていましたが、1995(平成7)年大正浪漫の香りを醸し出す観光地門司港レトロとして蘇り、現在北九州有数の観光地になっています。その門司港レトロの中心は、左手の高い塔状の建物の向うになります。 門司港レトロについては、「北九州のみどころ」の「門司港レトロ」をご覧ください。 |
| 駐車場の奥は、国民宿舎めかり山荘です。 その前を通って左に曲がると、駐車場の一段上の横を通って、周回道路に出ます。周回道路に出た所に、古城山の登山道の入口があります。古城山はのちほど登ります。 |
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国民宿舎めかり山荘の右手を通って裏手に進み、下って行きますとパゴダ(仏舎利塔及び寺院)が現れます。 1957(昭和32)年、ビルマ政府仏教会と旧門司市の合意で、戦没者の供養と世界平和を祈念して建築されました。前の大戦のビルマ戦線の戦友会や戦死者の遺族のお参りが多いようです。 |
| 駐車場の前の古城山を登ります。歩いて10分程度で登れます。 明治以来、関門海峡を挟んだ下関・門司の一帯は要塞地帯でした。そのため、戦前までこの和布刈公園一帯も、一般人は立入禁止でした。山頂付近には、軍事施設の跡が残っています。 これは山頂のものです。この横に門司城跡の石碑が立っています。 |
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門司城は平知盛の命で築かれたといわれています。その後、下総親房(しもふさちかふさ)が門司関に下向して来て、居城とします。下総氏はのち門司氏と称しました。その門司氏は水軍力をもって関門海峡を警固したと思われます。門司氏の所領は門司六郷で、片野(現在の小倉北区三萩野付近)・柳(現在の門司区大里付近)・楠原(現在の門司港付近)・吉志・伊川・大積郷でした。その六ヶ郷に一族を分立させていきました。しかし、戦国時代にはこの地は毛利・大友両氏の戦いの場となり、豊臣秀吉の九州平定により、その支配下となりました。代わった徳川家康により、豊前国は細川忠興に与えられました。1602(慶長7)年、忠興は小倉城を築きました。元和元(1615)年一国一城令により門司城は廃城となりました。 |
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| 駐車場から先の周回道路は下り坂になります。下りて来た所に展望台があります。展望台の前に壁画「源平壇ノ浦合戦絵巻」があります。この壁画は有田焼の陶板を使って、対岸の壇ノ浦の赤間神宮の社宝の絵図を参考にして描かれています。 壁画には、義経の八艘跳びや合戦の模様、幼い安徳帝を抱いている清盛の妻で帝の祖母の二位の尼や、母の建礼門院の入水の様子が描かれています。 平氏は源範頼・義経兄弟に一の谷、屋島で破れ、1185(元暦2)年、壇ノ浦で源氏を迎え撃ちます。最初は東流れの潮流のため、平氏が有利でしたが、その後、西流れになると源氏に有利となり、遂に平氏は敗れます。この合戦を最後に、平氏は滅亡してしまいました。 |
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| その展望台からは、関門橋がよく見えます。この橋は1973(昭和48)年開通しました。下関インターから門司インター間の関門橋とその前後の道路は、中国自動車道と九州自動車道をむすぶ関門自動車道です。 |
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| 周回道路は壁画の前で大きく右にカーブします。その曲がり角は駐車場になり、その先は展望デッキになっています。 そのデッキからは、門司港が、そして関門海峡、対岸の下関、関門橋が一望できます。 |
| 周回道路を下りて行きます。関門橋の橋台の前が駐車場になっています。その前の階段を上って行きますと、高速道のめかりパーキングエリアに出ます。 | ![]() |
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めかりパーキングエリアにに入って来ました。ここからも関門海峡がよく見えます。左の円形の建物に、レストランなどが入っています。 |
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| めかりパーキングエリアからの関門橋です。橋の全長1,068m、橋脚間712m、航路幅530m、橋桁から橋脚最高部まで65m、橋桁から海面まで61mです。 橋の対岸には壇ノ浦パーキングエリアがあります。 |
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| めかりパーキングエリアからが、和布刈公園の中では下関市街地が一番望めます。 左の塔は海峡ゆめタワーです。その右の平たい屋根は水族館の海響館で、その前の波止場が唐戸です。右端に近い所に赤間神宮が見えます。 下関については、「北九州の近隣」の「下関」をご覧ください。 |
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| 周回道路を下りた海岸の側に、塩水プールの広い駐車場があります。周回道路を挟んだ駐車場の反対側の高台に、唐人墓といわれるフランス水兵戦死者の慰霊碑が立っています。そこからの海の眺めです。 関門海峡の東の出入口になります。右の小島は満珠で、左の小さく見える小島が干珠です。満珠・干珠は神功皇后が海中から得た玉を納めた島と伝えられています。 詳しくは、「北九州の近隣」の「長府」をご覧ください。 |
| 1863(文久3)年長州藩は攘夷戦を開始し、関門海峡を航行する外国船を砲撃しました。翌1864(元治元)年のイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊17隻はこれに対して、下関を砲撃しました。その際四国艦隊にも戦死者が出ました。そのうちのフランス水兵の慰霊碑です。1895(明治28)年にフランス人宣教師によって建てられました。 | ![]() |
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| 周回道路から海岸沿いの道を左折します。右手対岸に火の山が見えます。一帯は公園になっていて、標高268mの山頂まで車で上ることができます。和布刈公園と同様に、火の山公園からも関門海峡を展望することができます。かっては要塞地帯でしたので、山頂に軍事施設の跡があります。 この辺りから関門橋にかけては潮流の激しい所です。 |
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| 関門橋付近は、関門海峡の中でも潮の流れが速く、早鞆瀬戸(はやとものせと)と呼ばれます。潮の干満の都度潮流の方向が変わり、時間を追って早さが変ります。流れの早い時は、川の流れのように流れます。 下関側の関門橋付近を壇ノ浦と呼びます。橋から右に見える最初の建物は、関門トンネルの人道入口の下関側です。国道海底トンネルの関門トンネルは関門海峡の海底の下を横断しています。 |
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1958(昭和33)年、本州と九州を結んだ国道海底トンネルの関門トンネルが完成しました。トンネルは上が車道、下が人道の構造になっています。関門トンネルは3461mあり、そのうち人道は780mです。海底部の人道までエレベーターで下ります。その深さは門司側60m、下関側54mで、30〜40秒で昇降します。人道は歩いて13分程度で、歩行者は無料です。自転車も通れます。トンネルの途中が山口県と福岡県の県境になります。 |
| 下関側の地上に出ました。御裳(みもすそ)川河口の壇ノ浦です。 この沖合いで、「浪のしたにも都のさぶろうぞ」と幼い安徳帝を抱いて、祖母の二位の尼は入水しました。 |
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| 2005(平成17)年の大河ドラマ「義経」を記念して、源義経の八艘飛びと平知盛の碇潜(いかりかずき)の像が建てられています。源平の壇ノ浦の戦いでの二人の姿を現しています。知盛は海中に身を投じました。 橋の左の建物が、関門トンネルの人道入口の門司側です。 |
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義経・知盛の像の横に、海峡に向いた大砲が並んでいます。1863(文久3)年、攘夷期限を期して、門司田野浦に投錨していたアメリカ商船を、長州藩は艦船で砲撃しました。その後も関門海峡航行の外国船に対し各砲台・艦船の砲が火を吹きました。これに対し、列強は報復に出て、長州藩の艦船や砲台が破壊されました。更に翌年の1864(元治元)年、英仏米蘭の四国艦隊による下関砲撃があり、全ての砲台が破壊されました。ここには壇ノ浦砲台がありました。この後長州藩は、開国・倒幕に転換し、明治維新に突き進みます。 長州藩で鋳造された当時の青銅製のカノン砲を、FRPで原寸大に復元しています。 |
| 四国艦隊による下関砲撃で全ての砲台が破壊され、全ての長州藩の青銅砲は戦利品として外国に持ち去られました。1966(昭和41)年、渡欧中の下関在住の作家古川薫氏が長州藩の青銅砲をパリ・アンヴァリッド軍事博物館で発見しました。その後1984(昭和59)年貸与で里帰りしました。下関東ロータリークラブ記念事業で、それを原寸大で精密に模造して下関市に寄贈しました。 | ![]() |
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門司側に戻ります。関門トンネルの人道入口から海岸沿いの道を関門橋の方に向かいます。関門橋の下に和布刈神社はあります。 和布刈神社の前を進みますと、周回道路への分れ道に出て、その先はノーフォーク広場の横の道になります。 |
| 和布刈神社の境内は、海が迫った場所なので、広くはありません。しかし、非常に古い神社で、時の領主の崇拝を受けてきました。 社殿は更に海が迫った場所に建っています。その前に鳥居があって、その先に海に出る石段があります。 |
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社殿の横には句歌碑や文学碑が立っています。 右端の卵形は、「夏潮の今退(ひ)く平家亡ぶ時も」の高浜虚子の句碑です。 奥にある右から二つ目は、横を向いています。 「舟みえて霧も迫門(せと)こすあらしかな」の室町時代の連歌師宗祇の歌碑です。 左端は松本清張の文学碑で、小説「時間の習俗」の和布刈神事を描いた一節が刻まれています。 |
| 社殿の前の石段の先、海の中に灯籠が立っています。灯籠の横で和布刈神事は行われます。 和布刈神事は旧暦の大晦日の深夜から正月の早朝にかけて行われます。この神事で刈り採られたわかめを朝廷に献上したことが、奈良時代の記録に残されています。 和布刈神事については、「北九州の催事」の「和布刈神事」をご覧ください。 |
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