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手向山公園    小倉北区赤坂4丁目  [2006/04/22更新]
 

手向(たむけ)山は小倉北区の北東部にある標高70m程度の小山です。東側は門司区に接し、北側は関門海峡を望むことができます。西側は赤坂で、南側は谷を挟んで富野台になります。
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島をはるか遠くに望むこの山頂に、武蔵の死より9年後の1654(承応3)年、武蔵の養子の宮本伊織は武蔵顕彰碑を建てました。かってはこの山は武蔵山と呼ばれました。1887(明治20)年手向山が要塞地区になったため、顕彰碑は延命寺山に移されましたが、戦後再び顕彰碑は手向山山頂に戻されました。
明治以来要塞地であったため一般の立入りが禁止されていましたが、戦後手向山一帯は公園として整備されました。また同時に、1612(慶長17)年4月13日の巌流島の決闘を記念して、毎年その日に近い日曜日に武蔵・小次郎まつり行われ、今年は56回を数えました。

 

小倉から門司に向かって国道3号線を行くと、手向山トンネルがあります。このトンネルの左手、つまり南側が手向山です。トンネルの手前の信号を左折します。この交差点の近くに西鉄バスの手向山バス停があります。

 

国道3号線を南に入ったすぐの手向山の麓の道路脇に、宮本家の墓所があります。
奥の大きな墓石が宮本伊織の墓です。明治時代、手向山砲台が築かれるまでは、山頂の武蔵顕彰碑の横にあったそうです。

 

道路の先が広くなっています。ここは観光バスの方向転換の場所になっています。その前にレンガ造りの建物跡があります。ここは、この先の中腹に設置された探照灯の電気を発電する旧陸軍の火力発電施設だったようです。
この先山頂下まで車で上れますし、歩いて上る道もいくつかあります。

 

 

右にカーブしている道路脇に、探照灯台座跡があります。夜間関門海峡を通る敵艦を探して照射し、山頂の砲台の左右の脇にあった観測所で計測して、砲台に連絡して砲撃する仕組みでした。
円形のレンガ上部のセメント部に地名が刻まれてます。

 

山頂より一段低い所の広場は、現在駐車場になっています。その前の北側、山頂への階段部分などは砲台跡です。
明治20年9月起工、同21年9月竣工と刻まれたプレートが見えます。1889(明治22)年3月砲が配備され、砲台は完成しました。
砲台は1砲座2門の臼砲(口径が砲身に比べて大きく、射角が大きい砲)で、6砲座ありました。砲座より関門海峡は見えないので、砲台の左右にあった観測所からの連絡で砲撃するようになっていましたが、一度も実戦で砲撃することはありませんでした。

砲座には倉庫が付属していました。それらの入口は現在はふさがれていますが、入口の上には番号が付けられていて残っています。その第一号の左側に東側の観測所がありました。その跡地に木製の展望台が建てられています。こちらからは遠く関門橋が望める関門海峡が眼下に広がります。

 

現在残されている倉庫の番号の西端は第五号となっています。その西側に白い灯台のような塔が立っています。これは関門海峡を航行する船舶の安全航行のために信号灯を点灯する塔です。西側の観測所は更に西に、山を少し下りて行った所にありました。

 

 

山頂への道路を横断した先に西側の観測所跡はあります。左の階段を上った屋上部分が右になります。現在は木立があって眺望は良くありませんが、その当時は関門海峡の大瀬戸から響灘への眺望が開けていたと思われます。

第五号倉庫跡前の広場の南側からの眺めです。向うの富野台との間の塀の向うは都市高速です。この右手が鳥越峠です。現在も都市高速の横の一般道路はそちらの方向は上り坂になり、上り切ったすぐ横に桜丘小学校があります。
鳥越峠や赤坂は、明治維新前夜の第二次長州征討戦小倉口の戦いでの激戦地でした。詳しくは「北九州点描」の「赤坂」をご覧ください。

 

車を駐車できる広場の一段上が山頂の広場です。ここの南側の西に武蔵顕彰碑があり、中央に佐々木小次郎碑があります。東側には展望台があります。
桜が広場の周囲に植えられています。桜が散る頃に武蔵・小次郎まつりがあります。

 

武蔵顕彰碑は宮本武蔵の養子伊織が建てました。「小倉碑文」とも呼ばれ、千百余字の漢文が刻まれた石碑です。小倉藩筆頭家老までなった宮本伊織は、拝領した手向山に、没9年後に熊本より遺骨を移し、骨壷・銅鏡・古文書を埋葬し、その上に武蔵顕彰碑を建てました。
吉川英治は小説「宮本武蔵」を戦前に発表します。これによって宮本武蔵は誰もが知る剣豪となりました。しかし、その生い立ちや生涯に不明な部分が多くあり、諸説があります。

武蔵が最初に試合をしたのは13歳の時で、相手は有馬喜兵衛でした。その後、京都に出て、吉岡一門と闘い、打ち破ります。武蔵は京を去った後、諸国を巡り武者修行を行います。
1612(慶長17)年、武蔵は豊前小倉に来て、旧知の家老長岡佐渡を訪ねます。当時剣の達人で、小倉藩に召抱えられていた佐々木小次郎との試合の仲介を頼みます。許された試合は4月13日船島で行われました。小次郎は船島に藩の舟で渡りますが、武蔵は下関より船島に向かいます。決闘は武蔵が木剣で小次郎を一撃で倒します。死んだ小次郎18歳、武蔵29歳でした。後に、船島は小次郎の号巌流に因んで巌流島と呼ばれるようになります。
1626(寛永3)年、播磨明石に至った武蔵を小笠原忠真は召抱えようとしますが、それを断り、兄の次男で、武蔵の養子の貞次伊織を仕官させます。
1632(寛永9)年、細川忠興から豊前小倉を引き継いだ忠利は肥後熊本に移封され、播磨明石より小笠原忠真は豊前・小倉に移封され、武蔵も伊織もこれに従います。
1638(寛永15)年の島原の乱に於ける伊織は功大により、1500石加増され、4000石の筆頭家老になります。武蔵も島原の乱に参陣しました。
1640(寛永17)年、肥後熊本藩主細川忠利に客分として招かれます。晩年、武蔵は「五輪書」(ごりんのしょ)を書き表します。1645(正保2)年、武蔵は肥後熊本において亡くなりました。

小次郎碑には「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」の碑文が刻まれています。村上元三の小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、1951(昭和26)年建てられました。

 

 

武蔵・小次郎まつりは手向山が公園として整備され、一般の人も入れるようになってから始められました。
武蔵・小次郎の鎮魂の神事が行われ、神前で尺八の献笛が行われます。

 

 

 

 

 

更に、剣道の形(左上)、武蔵を祖とする二天一流(右上)、巌流島の剣舞(左下)が奉献されます。午後からは子供達の剣道の試合も行われます。
地元の団体や桜丘校区の人々の力によって祭は続けられ、回数を重ねています。

 

山頂広場の展望台から北東方向を見ています。先の方に高速道の関門橋が見えます。あの辺りが海峡の一番狭い早鞆の瀬戸です。その先は周防灘になります。手前の広い所を大瀬戸といいます。橋の左手は下関の市街地、右手に広がるのが門司の町並です。左端の下関の市街地の手前に少し見えるのは彦島で、その右に小さく巌流島が一部見えます。
巌流島の詳細は「北九州の近隣」の「下関」をご覧ください。

 

右は北の眺めで、彦島(下関市)です。関門海峡はここで90度方向を変えます。左の北西方向の先が響灘になります。

 

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