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| 手向(たむけ)山は小倉北区の北東部にある標高70m程度の小山です。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島をはるか遠くに望むこの山頂に、武蔵の養子の宮本伊織は武蔵顕彰碑を建てました。1887(明治20)年手向山が要塞地区になったため、顕彰碑は延命寺山に移されましたが、戦後再び顕彰碑は手向山山頂に戻されました。戦後、手向山一帯は公園として整備されました。また同時に、1612(慶長17)年4月13日の巌流島の決闘を記念して、毎年その日に近い日曜日に武蔵・小次郎まつりが行われています。 | ||
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小倉から門司に向かって国道3号線を行くと、山が迫ってきます。この山が手向山です。手向山までが小倉北区で、山の向こう側は門司区です。手前の手向山公園入口交差点から公園に入って行きます。 |
| 手向山公園入口交差点の先の国道です。手向山は海岸近くまで張り出していましたので、国道はその北端を削ったり、トンネルを掘って通っています。その手向山トンネルが先方に見えます。手向山の北側を国道3号線が通り、その北側にJR鹿児島本線が通り、海岸線になっていました。その赤坂海岸は埋立てられ、国道199号線が通り、臨海工場地帯になっています。赤坂海岸の前は、関門海峡の大瀬戸です。 左上に見えるのは、大瀬戸第一号導灯です。船の進むべき方向の延長線に当たる陸上に、低い塔と高い塔が一組になって立っていて、これが導灯と呼ばれるもので、導灯で船舶を誘導しています。関門海峡では6組の導灯で船舶を誘導しています。これは低い塔で、高い塔は手向山の山上にありますので、後ほど紹介します。 |
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手向山公園入口交差点を南に入って行くと、左手、手向山の麓の道路脇に、宮本家の墓所があります。奥の大きな墓石が宮本伊織の墓です。明治時代、手向山砲台が築かれるまでは、山頂の武蔵顕彰碑の横にあったそうです。 |
| 墓石には「忠厳紹徳居士覚霊」と刻まれ、宮本伊織貞次の名が読めます。 宮本伊織(1612-78)は、播磨印南郡米田村の田原家の次男に生まれます。若くして宮本武蔵の養子になり、1626(寛永3)年15歳の時、武蔵の推挙により明石城主小笠原忠政(のち忠真)の近習に出仕しました。20歳で家老となり、翌1632(寛永)年主君移封で、小倉に移りました。石高は2,500石でした。1638(寛永15)年の島原の乱では、その功により加増され4,000石になり、筆頭家老になりました。 小笠原忠真から宮本伊織は手向山を拝領し、その山頂に武蔵顕彰碑を建てました。 |
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手向山の麓に沿って、道を進みますと、広くなって、観光バスなどの方向転換の場所になっています。その前にレンガ造りの建物跡があります。ここは、この先の中腹に設置された探照灯の電気を発電する旧陸軍の火力発電施設跡です。 手向山には、1887〜91(明治20〜24)年に関門海峡に侵入する敵艦船に対する砲台が築かれました。この時期、関門海峡周辺には多くの砲台が築かれました。 明治以来、手向山は要塞地であったため、一般の立入りが禁止されていました。戦後、手向山一帯は公園として整備されました。 |
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| 火力発電施設跡で、道は反対側に方向転換して、坂を上って行きます。車で山上まで上ることができます。 坂道を上って行くと、ヘアーピンカーブがあります。その反対側に、探照灯台座跡があります。 |
| 探照灯は、夜間関門海峡に侵入する敵艦船を照射するものです。中央の四角の部分に台座があり、90cmの探照灯が設置されていました。砲台から北西170m、標高50mに位置します。 | ![]() |
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探照灯が設置された外側の、円形のレンガ上部のセメント部に、その方向の地名が刻まれてます。 |
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| 山上に着きました。ここは山頂より一段低い広場です。現在、駐車場になっています。この広場は北東から南西に細長くなっていて、その北側が砲台跡です。左側が北側で、山頂への階段部分などは砲台跡です。この広場の北東方向の奥に進みます。 |
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| 北東奥の砲座跡です。右は木製の展望台です。 砲台は1砲座2門の臼砲(口径が砲身に比べて大きく、射角が大きい砲)で、6砲座ありました。 |
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| 木製展望台の前からの眺めです。関門海峡を南から望んでいます。対岸は下関市の彦島です。 写っていませんが、手前真下に、コンクリートの工作物跡が見えます。砲台の観測所跡と思われます。砲座より関門海峡は見えないので、砲台の左右にあった観測所からの連絡で砲撃するようになっていました。こちらは東の観測所です。 |
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| 東から二番目砲座跡です。山頂広場に上る階段があります。山頂の展望台の東奥に出ます。 1864(元治元)年8月5日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊が、関門海峡周辺の長州藩の砲台を砲撃しました。 この23年後の1887(明治20)年、明治政府は砲台の築造を始めました。当時西日本には、世界屈指の戦艦定遠・鎮遠を擁する清国北洋艦隊の脅威がありました。 砲台の築造開始の7年後の1894(明治27)年、日清戦争が始まりました。 |
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| 東から三番目砲座跡です。砲座は山の斜面を削った半摺鉢状になっていました。右端に山頂広場の展望台が見えます。 関門海峡周辺の下関・門司(小倉も含まれる)地区に、敵艦隊と砲撃戦を行う砲台と、砲台などの背面防御が目的で小口径砲を備えた堡塁が築かれました。 |
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| 東から四番目砲座跡です。ここが下の広場の中央に位置しますので、山頂広場に上るメインの階段があります。階段を上って左側に武蔵顕彰碑があり、右側に佐々木小次郎碑があります。 |
| 砲座には倉庫が付属していました。それらの入口は現在はふさがれていますが、入口の上には番号が付けられていて残っています。倉庫は砲座と砲座の間にありました。 これは、東から四番目と五番目の砲座の間にあった第四号倉庫跡です。上の銘板に、「明治二十年九月起工 明治二十一年九月竣工」と刻まれています。 |
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| 東から五番目砲座跡です。これまでの四砲座は一直線に並んでいます。ここと次の砲座は逆くの字状の下の部分のように、内側に向いて並んでいました。 門司側(小倉も含まれる)には、手向山・笹尾山・矢筈山・古城山・和布刈砲台、富野・高蔵山堡塁が築かれ、対岸の下関側の砲台・堡塁と呼応して関門海峡防御に当たりました。 |
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| 東から六番目、西端の砲座跡です。先に白い導灯が見えます。砲座跡と導灯の間に、頂上広場に到る道路が通っています。 関門海峡周辺には多くの砲台が築かれましたが、一度も実戦で砲撃することはありませんでした。 |
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山の斜面に大瀬戸第一号導灯の高い塔が建っています。山の麓の国道脇の低い塔と一対になっています。 関門海峡の安全航行のために、この導灯の他に、灯台、信号所、潮流信号所が要所に設置され、信号や無線で航行情報を提供し、航行管制する関門海峡海上交通センターが置かれています。 |
| 導灯の横の斜面を左、西に下りて行くと、上って来た道路に出ます。そこを横断した先に砲台の西側の観測所跡はあります。 左の階段を上って屋上部に出ます。 |
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観測所跡の屋上部です。 現在は木立があって眺望は良くありませんが、その当時は関門海峡の大瀬戸から響灘への眺望が開けていたと思われます。 |
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| 手向山の山頂広場に上りました。西からの眺めです。先に展望台があります。周囲に桜が植えられています。 右の手前に武蔵顕彰碑があり、その先に階段があり、更にその先に佐々木小次郎碑があります。 |
| 4.5mの巨石の武蔵顕彰碑は、宮本武蔵の養子伊織が建てました。「小倉碑文」とも呼ばれ、千百余字の漢文が刻まれた石碑です。 小倉藩筆頭家老までなった宮本伊織は、拝領した手向山に、武蔵没9年後の1654(承応3)年に、熊本より遺骨を移し、骨壷・銅鏡・古文書を埋葬し、その上に武蔵顕彰碑を建てたといわれています。 1887(明治20)年手向山が要塞地区になったため、顕彰碑は延命寺山に移されましたが、戦後再び顕彰碑は手向山山頂に戻されました。延命寺山は手向山の西の丘陵地で、かって延命寺がありましたが、明治維新前夜の第二次長州征討戦小倉口の戦いで焼失し、大正時代、延命寺山の西側に再建されました。 |
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1612(慶長17)年、武蔵は豊前小倉に来て、旧知の家老長岡佐渡を訪ねます。当時剣の達人で、小倉藩(当時藩主は細川忠興)に召抱えられていた佐々木小次郎との試合の仲介を頼みます。許された試合は4月13日船島で行われました。小次郎は船島に藩の舟で渡りますが、武蔵は下関より船島に向かいます。決闘は武蔵が木剣で小次郎を一撃で倒します。死んだ小次郎18歳、武蔵29歳といわれています。船島は小次郎の号巌流に因んで巌流島と呼ばれるようになります。 小次郎碑には「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」の碑文が刻まれています。村上元三の小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、1951(昭和26)年建てられました。 |
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| 山頂の展望台より山頂広場を見ています。広場の左側手前に小次郎碑が、左側の先に武蔵顕彰碑があります。間に駐車場に下りる階段があります。 |
| 山頂の展望台より南西の眺めです。左手の山と手向山の間の下を、見えませんが都市高速が通り、その側を通る一般道は右手への上り坂が鳥越峠への道で、上り切ると右手かすかに見えるように、かっては小倉市街地が眼下に見えました。 鳥越峠や赤坂は、第二次長州征討戦小倉口の戦いでの激戦地でした。詳しくは「北九州点描」の「赤坂」をご覧ください。 |
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| 山頂広場の展望台より北北東方向の眺めです。対岸は彦島で、右側奥が早鞆瀬戸(はやとものせと)で、手前は大瀬戸です。手前の白い塔は関門海峡海上センターです。 |
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手前の白い塔は、門司区松原にある関門海峡海上センターです。橋は、海峡の一番狭い早鞆瀬戸に架かっている、自動車高速道の関門橋です。左端に突き出ているのが巌流島です。 |
| 手向山からは、手前の彦島に隠れて、巌流島は半分程度しか見ることはできません。 巌流島については、「北九州の近隣」の「下関」をご覧下さい。 |
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手向山には、この様に歩いて上れる道もあります。麓の火力発電施設跡の横から上り、砲台の西の観測所の下を通り、駐車場になっている山上広場の少し手前で、舗装道に出ます。 |
| 1612(慶長17)年4月13日の巌流島の決闘を記念して、毎年その日に近い日曜日に武蔵・小次郎まつりは行われ、2009年で59回を数えます。 駐車場のある山上広場には露店も出て、祭りを盛り上げます。 |
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午前10時、武蔵・小次郎まつりは、山頂広場で北橋北九州市長の挨拶で始まりました。 吉川英治は小説「宮本武蔵」を戦前に発表します。これによって宮本武蔵は誰もが知る剣豪となりました。しかし、その生い立ちや生涯に不明な部分が多くあり、諸説があります。 |
| 山頂広場に祭壇が設けられ、武蔵・小次郎の鎮魂の神事が行われます。 武蔵が最初に試合をしたのは13歳の時で、相手は有馬喜兵衛でした。その後、京都に出て、吉岡一門と闘い、打ち破ります。武蔵は京を去った後、諸国を巡り武者修行を行います。 |
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神前で尺八の献笛が行われます。 1612(慶長17)年4月13日、関門海峡の船島で、武蔵は佐々木小次郎と戦い、小次郎を一撃で倒します。 |
| 詩吟が奉じられます。 1626(寛永3)年、播磨明石に至った武蔵を小笠原忠真は召抱えようとしますが、それを断り、武蔵は養子の伊織を仕官させます。1632(寛永9)年、細川忠興から豊前小倉を引き継いだ忠利は肥後熊本に移封され、播磨明石より小笠原忠真は豊前・小倉に移封され、武蔵も伊織もこれに従います。 |
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剣道の形が奉献されます。 1638(寛永15)年の島原の乱に、宮本伊織は小倉藩家老として出陣し、武蔵も参陣しました。 |
| 宮本武蔵を祖とする二天一流が奉献されます。午後からは、少年剣士達の剣道大会があります。 1640(寛永17)年、武蔵は肥後熊本藩主細川忠利に客分として招かれます。晩年、武蔵は「五輪書」(ごりんのしょ)を書き表し、1645(正保2)年、肥後熊本で亡くなりました。 |
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