|
和布刈神事
門司区門司 [2011/02/12] |
![]() |
![]() |
|
| 和布刈(めかり)神社は、関門海峡の最も狭く、潮の流れの速い早鞆(はやともの)瀬戸に面した九州側に建っています。旧暦元旦の早朝、和布刈神社の神殿の前の干潮の海で、わかめを刈り取って、神前に供える和布刈神事が行われます。わかめは万物に先んじて芽を出すため、新しい年を祝い、福を招く神事といわれ、福岡県の無形民俗文化財に指定されています。 和布刈神社は神功皇后(じんぐうこうごう)により創建されたと伝えられています。比賣大神(ひめのおおかみ)、日子穂々手見命(ひこほほてみのみこと)、鵜草葺不合命(うかやぶきあえずのみこと)、豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)、安曇磯良神(あづみのいそらのかみ)の五神が祀られています。比賣大神は天照大神(あまてらすおおみかみ)です。日子穂々手見命は火遠理命(ほおりのみこと)とも呼ばれ、山幸彦のことで、兄は海幸彦です。豊玉比賣命は山幸彦の妃で、海神の綿津見神の娘で、山幸彦の間に鵜草葺不合命が生まれます。鵜草葺不合命は、母豊玉比賣命の妹で、育ての親である玉依比賣命と結婚し、神倭伊波琵古命(かむやまといわれひこのみこと)、つまり神武天皇が生まれます。安曇磯良神は安曇(阿曇)氏の祖神で、海人族の安曇氏の発祥の地といわれている志賀島(福岡市東区)の志賀海神社には綿津見三神が祀られています。安曇は海人津見(あまつみ)が転化したといわれ、津見は住みの意といわれています。安曇氏は遠く移住して行き、安曇・阿曇・渥美などの地名が残され、海辺だけでなく、内陸の安曇野(長野県)にも移って行ってます 日本神話では、世界ができる天地開闢(てんちかいびゃく)の最後の神の男神イザナギと女神イザナミによって日本の国作りが行われます。しかし、イザナミは火の神を生んだことにより亡くなりました。イザナギは諦めきれず、イザナミを黄泉の国(よみのくに)まで訪ねて行きます。そこで覗いてはいけないとの約束を破って、死の国のイザナミの姿を覗いたたため、イザナミに追われます。やっとの思いでイザナギは黄泉の国から脱出し、穢れを洗い流すために禊をします。その時たくさんの神々が誕生します。その中に住吉三神、綿津見三神がいます。最後に左目を洗うと天照大神(あまてらすおおみがみ)が生まれ、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)、鼻を洗うと須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれます。イザナギは天照大神に高天原、月読命に夜、須佐之男命に海を統治するように命じました。しかし、須佐之男命はその命に従わないため、イザナギは須佐之男命を海から追放します。須佐之男命は姉の天照大神に別れを告げるために高天原を訪れます。その時の須佐之男命の勢いが激しいため、天照大神は須佐之男命が攻めて来たのではないかと思います。須佐之男命は疑いを解くため誓約します。その証の中で神々が誕生します。須佐之男命の剣から生まれたのが宗像三女神です。須佐之男命は高天原に滞在を許されますが、乱暴狼藉を働きます。そのため天照大神は天の岩戸に籠り、須佐之男命は高天原から追放されます。天照大神と須佐之男命の誓約の際、天照大神の勾玉から5皇子が生まれます。その長男の子、天照大神の孫のニニギノミコトは、天照大神から葦原中国(あしはらのなかつくに、日本)を統治するように高天原から地上に降ろされます。これが天孫降臨です。ニニギノミコトの子が山幸彦です。 朝鮮への出兵から帰国した神功皇后は、豊浦宮に戻る途中、祖先の神々を祀り、朝鮮への出兵で、海路の安全に協力した安曇磯良の魂をここ速門(はやと)に鎮めたことから、和布刈神社はかって速門社(はやとのみや)・速戸社や速戸明神・隼人明神・早鞆明神とも呼ばれました。海上交通及び軍事上の要衝にあったため、時の領主であった大内・毛利・細川・小笠原氏に和布刈神社は崇敬されました。 「和布」は「にきめ」または「にぎめ」とも読み、「わかめ」のことですが、ここでは「和布」は和訓(わくん、漢字に日本語の読み方を当てはめて)で「め」と読み、「わかめ」を指します。わかめは万物に先んじて芽を出し、自然に繁茂するため幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として、新年最初にわかめを刈る和布刈神事が古より秘かに行われてきました。平安中期の醍醐天皇の皇子、重明皇子の日記「李部王記」(りぶおうき・りほうおうき、吏部王記とも記載され、皇子は式部卿であったので、その唐名に由来します)によれば、奈良時代の710(和銅3)年に和布刈神事のわかめが朝廷に献上されたことが記されています。この神事によってこの社は和布刈神社と呼ばれるようになりました。 神事は冬至の日に和布繁茂の祈念祭から始まり、旧暦12月1日、採取された竹を割って松明がつくられ、境内の棚の上で乾されます。旧暦12月25日からは、神事に関わる神職は穢れを嫌って別に火をきり出して料理に使い、酒肉を断って穢れたものに触れずに心身を清らかに保つ別火潔斎に入ります。旧暦大晦日、神前の供えものである神饌で、料理される熟饌が用意されます。新年になった早朝の3時頃、烏帽子・狩衣姿の3人の神職が松明・鎌・桶を持って、社前の石段を下りて潮の引いた海に入り、わかめを刈ります。刈り取られたわかめは、酒や熟饌と共に神饌として神前に供えられて祭事が行われ、夜明け近くにすべての神事は終わります。戦前まで和布刈神事は見学できない秘祭でしたが、現在は公開されています。 |
||
![]() |
門司港市街地の国道3号線を北に進みますと、鎮西橋交差点を国道は右折して関門トンネル方向に行きますが、そのまま直進して、県道261号門司東本町線を北上します。旧門司1丁目交差点の先は道は狭くなり、片側一車線になります。その先を更に北上しますと、道路一杯に大きな和布刈神社の鳥居が建っています。 |
| 鳥居の先すぐの左手に門司関址の石碑が立っています。飛鳥時代の646年、都と大宰府を結ぶ要衝として、関門海峡を渡る人や船を調べる関所が設けられました。右手にやまぎんレトロラインの踏切が見えます。 | ![]() |
![]() |
やまぎんレトロラインの踏切の右手は古城山の和布刈トンネルです。この線路は門司港と田野浦の間の貨物専用線でしたが、使用されなくなっていました。2009年4月26日、門司港からトンネルの先の和布刈公園までの間を、スポンサーの銀行名を冠したやまぎんレトロラインとして、門司港レトロ観光トロッコ列車「潮風号」は運行を開始しました。「潮風号」は冬季は運行されていませんので、この時期は通りません。 「潮風号」については、「北九州のみどころ」の「門司港レトロ」をご覧ください。 |
| 踏切の先の左手に駐車場のある広場があります。ノーフォーク広場といいます。ノーフォーク広場の横の坂を上った道路は左にカーブし、そのまま直進と、右に曲がって坂を上る道に分かれます。右折の道は、車は一方交通で、和布刈公園の周回道路になります。カーブして、そのまま直進します。 和布刈公園については、「北九州のみどころ」の「和布刈公園」をご覧ください。 |
![]() |
![]() |
道路の左手に、関門海峡の早鞆瀬戸に架かった高速道路の関門橋の橋脚があります。その先に和布刈神社があります。先方の山は、関門海峡の対岸にある下関市の火の山です。 |
![]() |
| 関門橋の橋脚の横を海側に行って、関門海峡を眺めています。山は標高268.2mの火の山です。右手が和布刈神社です。手前に枕潮閣という建物があって、その奥が社殿です。社殿の前の海中に石灯籠が1基立っています。 |
| 和布刈神社に入った所です。両側の石灯籠の奥の木の下の向こうで神楽が舞われ、その先で篝火(かがりび)が焚かれます。 | ![]() |
![]() |
旧暦の大晦日の夜、和布刈神社の広場で篝火が焚かれます。 |
| 篝火の手前で、旧暦の大晦日から新年になる頃、横代神楽が奉納されます。 | ![]() |
![]() |
横代神楽は小倉南区横代の高倉八幡神社(小倉南区横代南町4丁目)の大祭に奉納される神楽で、福岡県の無形民俗文化財に指定されています。 |
| 横代神楽の創始は江戸時代の初めといわれ、江戸の終わりまで神官によって演じられてきましたが、明治になると絶えてしまいました。明治の中頃、上横代地区の住人達が京都郡系の神楽を習得して、現在まで伝承しています。 | ![]() |
![]() |
広場の先の右手に社務所があり、その先に鳥居があります。鳥居の先に社殿があります。 |
| わかめを刈り取る時の明かりの松明の材料として竹が用意され、旧暦12月1日竹を割って、社殿横の棚の上で乾燥されます。 | ![]() |
![]() |
社殿の前にも鳥居が立っています。その先の石段を、和布刈神事の時には、3人の神職が海に下りて行きます。 鳥居の手前の左右の石灯籠は、細川忠興が寄進した石灯籠といわれています。 |
| 社殿の前の鳥居から石段を数段下りた所から社殿を振り返っています。社殿は海のすぐ近くに建っています。早鞆瀬戸の側にへばり付いたように建っています。 | ![]() |
![]() |
奉納されている神楽が終わりに近づいてきました。午前2時半頃終わります。見物人達は広場から社殿前に、神事を見るために移動します。 |
| 旧暦の1月1日午前3時近くになると、烏帽子・狩衣姿の3人の神職が松明・鎌・桶を持って社殿に向かって来ます。 | ![]() |
![]() |
社殿の前の鳥居をくぐった石段の先には、海中灯籠が立っています。これは対馬藩主宗氏が寄進したものといわれています。 |
| 神事の時の海中灯籠です。大潮の干潮時ですので、海中灯籠の先まで潮は引いています。 | ![]() |
![]() |
社殿の反対側から見上げると、関門橋の橋脚が見えます。社殿の反対側に行くと、石碑がいくつか立っています。 |
| 社殿の反対側の石碑の中に、松本清張文学碑が立っています。1961(昭和36)年から翌年にかけて、雑誌「旅」に松本清張の推理小説「時間の習俗」が連載されました。それ以前に、この雑誌に「点と線」が連載されましたが、そこでの警視庁の三原警部補と福岡署の鳥飼刑事が、「時間の習俗」でも活躍します。その冒頭は和布刈神事から始まります。当時の和布刈の様子と、和布刈神事の様子が詳細に記述されています | ![]() |
![]() |
3人の神職が社殿の前の鳥居をくぐり、石段を下りて、潮の引いた海中灯籠の先に進みます。 |
| 3人の神職は、松明の灯りを頼りにわかめを探し、わかめを刈って桶に入れます。 | ![]() |
![]() |
間近でマスコミのビデオや写真の撮影が行われます。テレビニュースや新聞紙上で和布刈神事が報道されます。海に下りて行けない一般の人は、社殿前の高い所から見学します。そこからもよく見えるように、3人の神職は明るく照明で照らされます。 |
![]() |
| 同じ時刻に、対岸の壇ノ浦では住吉神社の和布刈祭(めかりさい)が行われています。これは昼間の和布刈神社の対岸です。関門海峡の早鞆瀬戸の下関側が壇ノ浦です。住吉神社は長門の一宮で、壇ノ浦の4km程北にあります。神功皇后の朝鮮出兵の際、住吉三神の教示を受け、守り神になったといわれています。神功皇后は帰国し、豊浦宮に戻る途中、その地に祠を建て住吉三神を祀ったといわれています。 |
| 和布刈神社の和布刈神事が行われている頃、住吉神社の和布刈祭が行われています。こちらはいまだに秘祭なので、見物人はいなく、篝火だけを対岸から見ることができます。和布刈神事が終わるころには、それも消えました。 | ![]() |
![]() |
3人の神職は、刈り取ったわかめが入った桶を社殿の神職に渡します。 |
| わかめは神前に供えられます。 | ![]() |
| You Tube でこのページの動画がご覧になれます この先をクリックしてください → 和布刈神事 |