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| 若松は、日本一の石炭積出港として、昭和30年代頃まで隆盛を極めました。江戸時代から昭和の初めまで、筑豊の石炭は川船の五平太船(川ひらた)で運ばれました。その船頭達が、船縁を叩き、はやしながら流行り唄や民謡を唄ったのが五平太ばやしです。祭りの間、若松商店街周辺は、五平太船を模した山車(だし)が練り歩き、木樽の樽太鼓を打ち鳴らす音と五平太ばやしの唄声でいっぱいになります。 若松みなと祭りは7月下旬の金・土・日曜に行われます。 |
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| 昔5月に行われていたみなと祭と、7月に行われていた夏祭りが一緒になって、現在の若松みなと祭りは行われます。金曜日の夕方、ベイサイトプラザ若松の2棟の間の道路、サンリブ若松店前で、五平太ばやし通り競演会があります。 町内、商店街、子供会、学校、企業や団体のチームが五平太船の山車を引いて、祭り衣装で、樽太鼓を打って、五平太ばやしを歌います。 これは第12区子ども五平太です。 |
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若松高校です。 一説によりますと、江戸時代石炭を発見したのが五平太という人だったので、石炭を五平太と呼びました。それを運ぶ川船を五平太船と呼ぶようになったといわれています。五平太船は川ひらた(ひらたは舟に帯の一字です)とも呼ばれ、底が浅く、幅の広い川船です。五平太船のもう一つの説は、江戸時代、福岡藩は船庄屋を置いて直接管理していたので、「御ひらた」が転じて五平太になったともいわれています。 |
| チームエスト・明治町です。 遠賀川そして江戸時代に開削された堀川を下り、洞海湾を渡って若松まで運びました。五平太船の最盛期は明治20〜30年代でした。 堀川や舟運については、「八幡のまちかど」の「堀川」をご覧ください。 |
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高稜高校です。 船頭達が、仕事の合間、風や潮待ち、唐戸(からと、水門のこと)通過の順番待ちの時、船縁を叩き、はやしながら流行り唄や民謡を唄いました。これが五平太ばやしです。 |
| 浜っ子流舞連です。 競争も激しく、収入も多いが危険も多く、気風の良さと喧嘩早いが情にもろい、五平太船の船頭達の性格を川筋気質(かわすじかたぎ)といいました。 |
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第15区星陵会です。 1891(明治24)年8月、直方−若松間の鉄道が開通しました。しだいに石炭輸送は五平太船から鉄道貨車に代わっていきました。運ばれた石炭は人力によって貨車から船に積替えられました。この作業に従事していた沖仲仕はごんぞうと呼ばれました。ごんぞう達に川筋気質は引き継がれていきました。 ごんぞうは、昔布で編んだ草履「ごんず」を履いていたからや、「ごんぞう」という力の強い人がいたことからなどの説があります。 |
| シャボン玉石けんです。 若松は石炭を中心にして、その輸送に携わる沖仲仕(ごんぞう)、鉄道や船の輸送機関、商社、問屋、鉄工所、商店、その他サービス業で繁栄します。 この時代のことについては、「北九州のみどころ」の「若松南海岸」をご覧ください。 しかし、ごんぞう達の仕事はしだいに機械にとって代わられます。 石炭の積出量は1940(昭和15)年がピークで、戦後、復興期には石炭がエネルギーの基礎を支えましたが、昭和30年代後半、石炭から石油へのエネルギー革命が始まると、筑豊の炭鉱も閉山となり、1982(昭和57)年石炭の貨物取扱は廃止されました。 昭和50年代には若松の北側の響灘で埋立工事が行われ、現在はエコタウン事業が推進され、コンテナターミナルが建設されています。 高度成長期には死の海といわれた洞海湾も、きれいな海がよみがえってウォーターフロントの開発が進められました。 |
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日が暮れてくると、JR若松駅から洞海湾沿いの道路は歩行者天国となります。道の両側には露店が出ています。 |
| 若松みなと祭りの第1日目の金曜の夜8時から、洞海湾で、くきのうみ花火大会が始まります。 | ![]() |
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| 若松みなと祭りと花火大会の主催者は違いますが、祭りの初日の夜開かれます。若戸大橋の西側、若松と戸畑の両側から花火を楽しむことができます。 |
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花火大会が終わると、中川通り沿い、ホテルルートイン北九州若松前に特設されたまつり舞台で、バンドが演奏していました。 |
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| 2日目土曜日、中川通りまつり舞台で、五平太ばやし競演会があります。 出演者は若松青年商業会の皆さんです。 |
| 祭りの衣装はごんぞうの姿を模した法被、地下足袋、豆絞りの格好で、皮を張った太鼓でなく、木樽の樽太鼓を打ち鳴らし、「若松五平太ばやし」を唄います。 | ![]() |
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唄は郷土の作家火野葦平作詞です。 色々な人たちがチームをつくって祭りに参加します。若松の若者達のチームが「若松五平太ばやし」を引き継いでいきます。 火野葦平については、「北九州点描」の「河伯洞」をご覧ください。 |
| 五平太ばやし競演会に参集していた山車を紹介します。 手前、北九州市役所職員五平太ばやし愛好会響の山車です。 山車は五平太船を模したものです。 |
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シャボン玉石けんの山車です。 火野葦平作詞の「若松五平太ばやし」を紹介します。 ハァー わたしゃ若松 みなとの育ち 黒いダイヤに 命を賭ける わたしゃ若松 五平太育ち |
| 若松高校の山車です。 ハァー 蛭子めでたや 若松小松 池にゃ 鶴亀 お庭にゃ桜 わたしゃ若松 五平太育ち |
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高稜高校の山車です。 ハァー 雄島雌島は 玄界灘で 末をちぎった 仲よい夫妻 わたしゃ若松 五平太育ち |
| 花龍愛鼓会の山車です。 ハァー 高塔山から 石峯山にゃ 河童うようよ 踊りをおどる わたしゃ若松 五平太育ち |
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第12区子ども五平太の山車です。 ハァー 出船入船 入船出船 ドラの音聞きゃ 心もそぞろ わたしゃ若松 五平太育ち |
| 日揮触媒化成の山車です。 ハァー 若松みなとの 五平太仲仕 粋な手さばき 日本一よ わたしゃ若松 五平太育ち |
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| 日曜夕方、若松駅横の久岐の浜広場でかっぱ祭りが行われます。河童の像に好物のきゅうりが供えられ、頭の皿に水が注がれます。この後、火野葦平の発案で始まった火まつり行事が始まります。 太鼓に送られて、たいまつ行列が出発しました。 |
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たいまつ行列が高塔山に登ります。久岐の浜広場を出た一行は、たいまつを片手に、この間車が通行止めになった登山道を登って行きます。 |
| 火野葦平は河童をこよなく愛しました。自宅を河童の棲家といった意味の河伯洞と名付けました。 高塔山山頂はあと一息です。 |
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高塔山の芝生広場に着きました。その上が山頂広場です。 |
| 山頂広場の一角には、河童地蔵尊のお堂があります。 | ![]() |
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お堂には、河童封じの地蔵尊が安置されています。 河童地蔵尊や高塔山については、「北九州のみどころ」の「高塔山公園」をご覧ください。 |
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| 山頂広場の東側には展望台があります。そこからの夜景です。 中央が若松と戸畑を結ぶ若戸大橋です。 |
| 若戸大橋の北側、洞海湾の入口方向です。 | ![]() |
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