北九州点描

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藍島
  小倉北区  [2008/03/29]
 

藍島(あいのしま)は小倉港の北西、響灘に位置します。樹木が茂り、遠くから藍色に輝いていた、往来する船がこの島で相会するので、藍の栽培が盛んであったので、藍島の命名にはこの様なことがいわれています。同じ「あいのしま」の呼び方では、県内新宮町に相島があります。
藍島の北の貝島には古墳群があり、古代より人が住んだ痕跡があります。1618(元和4)年長門の人が移住して漁業を始めました。他に天水に頼る耕地がありました。宝永年間(1704〜11)周辺の海上に密貿易船が出没したため、小倉藩は藍島遠見番所を設置しました。1887(明治20)年以前は、漁業もしましたが、島では農業が主でした。
その後漁業が盛んになり、島の漁業は、アワビ漁からウニ漁になり、昭和40年代からはノリの養殖が盛んになり、近年は漁船漁業が主になっています。
面積は0.7平方キロメートルの島で、2007(平成19)年9月30日現在、123世帯、315人が住んでいます。
藍島へは、JR小倉駅の北東の砂津泊地の渡船発着所から、市営渡船こくら丸で渡ります。35分の船旅になります。藍島は山のない、ひらぺったい島です。
途中、馬島に立ち寄ります。馬島については、「北九州点描」の「馬島」をご覧ください。

藍島への渡船の時刻や料金、乗り場の案内は、
北九州市のホームページから入り、http://www.city.kitakyushu.jp/
くらしを支えるライフライン 交通機関→
若戸渡船・小倉航路→小倉航路 
とたどってください。
藍島の渡船の船着場は、島の南西側にあります。ここは本村(ほんむら)の漁港でもあります。藍島には3つの漁港があります。島内の道路は舗装されていますが、車1台が通行できる程度です。港から家並の間の道を、左側に見えるアンテナの鉄塔を目標に進みます。
アンテナの鉄塔の右下に藍島隧道があります。1963(昭和38)年、トンネルは本村と大泊(おおとまり)の間に開通しました。
藍島隧道の先に漁村センターがあり、そこを左に行くと、すぐに藍島小学校があります。藍島小学校は、1898(明治31)年板櫃尋常小学校藍島分教場として開校しました。当時、藍島は企救郡板櫃村に属していました。なお中学生になると、小倉南区富士見にひびき寮があり、そこから隣接の城南中学校に通います。
漁村センターの裏手がこの大泊漁港です。
藍島隧道に戻り、トンネルを過ぎ、本村漁港方向に行くと、すぐにカーブミラーがありますので、そこを右折します。坂道を上り、アンテナの鉄塔の側を通り過ぎると、その先にNTTの鉄塔があります。この辺りが島の一番高い所です。鉄塔は島に二つあります。
左手にあるNTTの鉄塔の側を過ぎると、先方右手に水道タンクが見えます。若松から給水されています。水道タンクの手前、左手に入る、人が通れる程度の小径があります。そこを入って行くと広場があり、2本の石柱が立っています。福岡県指定史跡の藍島遠見番所旗柱台(あいのしまとおみばんしょはたばしらだい)です。
鎖国していた江戸幕府は、長崎での中国貿易の金額や船数を制限しました。輸入品の利益が大きいため、密貿易船が現れました。北九州の沖合いは西廻り・内海・長崎航路の交差点で、大小の島が多く、長州・小倉・福岡藩の境界上に当たりました。沖合いの島々が密貿易船の隠れ場となり、漂流する中国密貿易船に日本の密貿易船が近づき、海上で取引が行われました。
小倉藩は1715(正徳5)年、葛葉(門司区)海岸に遠見番所を設け、翌1716(正徳6)年、藍島・馬島に遠見番所を建設し、監視を強めました。福岡藩は岩屋・脇ノ浦(若松区)に遠見番所を置いていました。1717(享保2)年、幕府は三藩に共同で警備に当たるように命じました。
1721(享保6)年、密貿易船を発見すると、いち早く知らせるために、この旗柱台が設けられました。紺地に白く染め抜いた小笠原家の三階菱紋の大旗がここに掲げられ、堺鼻番所(小倉北区中井浜)に知らせる仕組みでした。
もとの道の戻り、水道タンクの側を先を進みます。道路の左手の2本の電柱に、海岸からの送電線が架線されています。その間から島の南西にある白洲灯台が見えます。
ここには、白州と干潟があり、暗礁が点々としています。潮流が早く、この付近を航行する船が多いため、多くの船がここで難破しました。
かって、藍島漁民には、密貿易船の監視通報の上に、難破船の救助、積荷の保管や跡始末などの役目が課せられていました。企救郡長浜浦庄屋だった岩松助左衛門は、難破船支配方に就き、1862(文久2)年、白州に灯台を建てることを小倉藩に願い出ました。藩の許可が下り、灯台建設の活動を始めます。活動費用は多額に上り、助左衛門は家財を売り払って、これに充てますが、多額の借金が残りました。時代は幕末の混乱期となり、計画は頓挫します。1870(明治3)年、工事は着工されますが、1873(明治6)年、事業は明治政府に移されて完成しました。この前年、岩松助左衛門は灯台の点灯を見ずに他界しました。明治政府は、長年の助左衛門の努力に報いるため、白州灯台施設を買い上げました。白州灯台は1900(明治33)年に改築され、更に1992(平成4)年に改築されました。
助左衛門が建築していた灯台を模した建物が、岩松助左衛門を顕彰して、小倉城内に建てられています。「北九州のみどころ」の「小倉城」をご覧ください。
更に北に進みます。途中、道が上りと下りの二つの道に分かれます。下って行くと、すぐにこの寄瀬浦(よせのうら)漁港に行き着きます。
もとに道に戻り、上って行く道を先に進みます。道は突き当たって左右に分かれます。右に行くと、すぐに海岸に出ます。ここまでの行程は、船着場から歩いて20分程度です。
島の北の海岸は、千畳敷と呼ばれるように、海岸段丘が波によって浸食されてつくられた景観が見られます。干潮の時しか現れません。
海岸に出ると、正面に緑に覆われた小島が見えます。貝島です。
この小さな貝島に、6世紀に築造された古墳が13基あります。小型の横穴式石室の古墳群です。出土品には、他の古墳と違って、モリや釣り針などの鉄製の漁労具が含まれています。埋葬されたのは海人(あま)族と思われます。
貝島の右手の先の岩礁に、灯台が立っています。干潮の時、千畳敷の先まで来るとよく見えます。
灯台の右手の手前に、もう一つの小島を見ることができます。姫島です。干潮の時は姫島に行くこともできます。干潮の時でないと、姫島を間近に見ることもできません。


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