|
|
![]() |
| 森鴎外(1862〜1922、鴎外の鴎の正字は區に鳥、本名は森林太郎)は、1899(明治32年)6月小倉の第12師団軍医部長として赴任し、1902(明治35)年3月小倉を離れ、東京の第1師団軍医部長に就きました。鴎外は、37〜40歳の2年9月間、小倉に居住しました。 1862(文久2)年、石見国津和野藩の典医の家に生まれた森鴎外は、東京大学医学部を卒業して、ドイツに留学しました。帰国後は、「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を発表し、アンデルセンの「即興詩人」の翻訳を始めていました。小倉赴任の前には、近衛師団軍医部長及び軍医学校長に就いていました。 小倉時代は、鴎外にとっては、やがてやってくる文学的豊熟期を前にした、沈潜の時代といわれています。 |
![]() |
鴎外は、着任して5日目に鍛冶町のこの旧居に落ち着きます。旧居は、その後改築されていましたが、北九州市が買い取り、鴎外居住当時の状態に復元されました。 小倉赴任は、詳細は不明ですが、左遷だといわれています。鴎外は単身で赴任しました。27歳の時に赤松登志子と結婚しますが、翌年には離婚しています。 ここに、鴎外は1年半暮らします。その後、京町に引越します。 2年9月の小倉時代、鴎外は、「即興詩人」の翻訳を終えたり、地元で講演や寄稿を行なったり、歴史や風土の研究、読書に励みました。 |
| 座敷の前には、前庭があります。表に近い百日紅(さるすべり)や夾竹桃(きょうちくとう)は、当時からあったようです。 小倉3部作といわれるうちの第1作の「鶏」(明治42年、1909)で、赴任してきた夏の出来事、この住いのこと、使用人のこと、小倉の町のことが描かれています。 小倉で知り合った知己は、フランス語を習った、馬借町のカトリック教会のフランス人宣教師ベルトラン、鴎外に師事した同郷の福間博、安国寺住職玉水俊こ(たまみずしゅんこ、こは交に虎の字です)らがいます。 |
![]() |
![]() |
玄関横の土間から座敷を眺めています。床の間がある8畳の座敷、中の6畳、手前の5畳で、手前の右が玄関です。奥の床の間の左横は4.5畳で、この小座敷と床の間のある座敷とを鴎外自身が使っていたようです。小座敷の手前が6.5畳、一番手前が6畳です。土間の反対側に流し、風呂、便所があります。今はありませんが、裏手に馬小屋があり、鴎外は馬で師団司令部に通っていました。 座敷の床の間に架けられている「天馬行空」は、豊前市出身の発明家矢頭良一(やずりょういち、1878〜1908)の死を悼んで遺族に贈った鴎外の書の複製です。署名の源高湛(みなもとのたかやす)は鴎外のことです。鴎外は、矢頭良一の理解者であり、後援者でした。 矢頭は飛行機の研究を行っていました。 (1903年12月17日ライト兄弟による人類初飛行成功)そのかたわら、1902(明治35)年、矢頭良一は日本で初めて機械式卓上計算機「自働算盤(じどうそろばん)」を発明しました。この「自働算盤」を親族から寄託されて、北九州市立文学館が所蔵しています。2008年、日本機械学会は機械式卓上計算機「自働算盤」を機械遺産と認定しました。飛行機研究の途上の1908(明治41)年、矢頭は病死しました。 |
| 旧居の前の通りを鴎外通りと呼びます。この通りは、旧電車通りに平行して、一つ南を東西に伸びています。小倉駅前の平和通りに出ます。そこを横断すると、魚町の南北のアーケードと交差する、東西のアーケードになります。そこを通り過ぎると、みかげ通りに出ます。その先のデパートの小倉井筒屋の本館と新館の間を通り過ぎると、紫川に鴎外橋が架かっています。 鴎外橋は歩行者専用の橋です。左は北九州市庁舎です。右の松の木の陰になっているのは小倉城天守閣です。鴎外が通った師団司令部はあの先にありました。 天守閣は江戸時代火事で焼失していますので、鴎外が居住していた当時はありません。勿論、この橋もありませんでした。鴎外は下流の常盤橋を渡って通っていました。ほかに当時ないものは、現在の小倉駅で、現在の西小倉駅の位置が小倉駅でした。 |
![]() |
![]() |
鴎外橋を渡ると、左手すぐに、鴎外の文学碑があります。形は六角柱で、当時常盤橋脇にあった広告柱を模したものです。 六面に文章が記されれています。小倉が舞台の小倉3部作「鶏」、「独身」、「二人の友」、この期間記した「小倉日記」、福岡日日新聞(西日本新聞の前身)に寄稿した「我をして九州の富人たらしめば」の中の一文、それにこの碑設立の趣意文が記されています。 「小倉日記」は一時行方不明で、これを題材にしたのが、松本清張の芥川賞受賞作「或る『小倉日記』伝」です。 紫川の下流のこの界隈については、「北九州のみどころ」の「紫川」をご覧ください。 |
| 小倉城本丸の天守閣の先の木立の中に、第12師団司令部跡をしめす石碑が立っています。第12師団は1898(明治31)年に設置され、翌年、森鴎外は軍医部長として着任します。司令部は1925(大正14)年、軍縮によって、久留米に移転します。石碑の先に赤レンガの門があります。これは第12師団司令部の正門でした。 小倉城については、「北九州のみどころ」の「小倉城」をご覧ください。 |
![]() |
![]() |
鴎外橋の西の紫川左岸を、川沿いに下ります。リバーウォークの前を通り、勝山橋の西詰めを通り、その下流の常盤橋に到ります。常盤橋は長崎街道の起点でした。 鴎外が小倉に着いて泊ったのが、達見(または立見、たつみ)という宿屋です。常盤橋の西詰の少し西にありました。鴎外は、達見に女中の斡旋も頼みます。 小倉3部作の第3作「二人の友」(大正4年、1915)の中で、鴎外が小倉に来た年、鴎外と同じ石見国出身のF君(福間のこと)が、鴎外からドイツ語を学びたいと訪ねて来ます。そのF君が、小倉で寝泊りしたのが立見でした。 |
| 旧長崎街道を西に進みます。当時の小倉駅は、達見を西に行った、今の西小倉駅の位置にありました。西小倉駅前の通りに出ます。旧街道筋はその通りを斜めに進みます。その先で大門1丁目交差点に出ます。そこから大通りを南下して、右折すると、安国寺の前に出ます。鴎外が知己を得た玉水俊こ(こは交に虎の字です)は安国寺住職でした。 「二人の友」の後半では、京町の住いを度々訪ねてくる安国寺さん(玉水のこと)が描かれています。安国寺さんからは、鴎外は唯識論の講義を受け、安国寺さんは、鴎外からドイツ語の哲学の講義を受けました。 |
![]() |
![]() |
常盤橋を渡った東詰に、広告柱が立っています。これは当時の1/3の大きさで、新たに建てられました。 京町に転居した後を題材にした、小倉3部作の第2作の「独身」(明治43年、1910)の冒頭で、広告柱と、伝便(でんびん、清張の「或る『小倉日記』伝」では、キーワードになります)が出てきます。この作品では、主人公宅で、友人達が酒を飲みながら、主人公の独身生活を話題にします。 |
| 小倉駅前の南西の角にある、屋外のエスカレーターの下に、森鴎外京町住居跡の石碑が立っています。当時は、ここは駅前ではありませんでした。1900(明治33)年12月鍛冶町からここに転居します。 小倉を発つ1902(明治35)年の年初に、荒木志げ子と再婚します。2年前、前妻の赤松登志子は病没していました。 前年の1901(明治34)年11月18日、官営八幡製鐵所の作業開始式に、鴎外は出席しています。 「二人の友」によりますと、鴎外が東京に転任すると、安国寺さんは人に寺を譲り、東京に出て来ます。F君も東京に出て来ます。二人の友は、鴎外の近くに下宿します。安国寺さんは、後小倉に戻って、辻三で住職になっています。そのお寺は、「北九州のみどころ」の「合馬の竹林・三岳梅林」をご覧ください。 |
![]() |
| You Tube でこのページの動画がご覧になれます この先をクリックしてください → 森鴎外旧居 |
| 掲示板 → 北九州から、北九州に |