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大興善寺
  小倉南区蒲生2丁目8-6  [2008/07/12]
 

大興善寺は紫川中流左岸の蒲生の、鷲峰山の麓にあります。鎌倉時代、北条時頼から崇敬されていた、律宗中興の祖といわれる奈良西大寺の叡尊によって開山されたといわれています。戦国時代、兵火で焼失しますが、曹洞宗の寺院として徐々に復興されました。
県道51号曽根・鞘ヶ谷線の蒲生交差点の西、藪瀬橋付近の紫川右岸から、大興善寺の方向を眺めています。左端の生コン工場の右に大興善寺本堂の甍がみえます。右側の山が標高136.7mの鷲峰山で、山頂の平和観音がかすかに見えます。
紫川にについては、次のような話が伝えられています。
紫川が企救川と呼ばれていた時代、河口の漁師の村が海賊に襲われました。荒らされた村を再生させるため、上流の山里に棲む者に、山里で採れた食べ物をいかだで流してくれるように頼もうと、漁村の若者が思い立ちました。他の村の者が彼が住む山に入ると殺されると、若者の父は、若者が山に行くことを止めました。若者の気持ちは変りませんでした。途中で、山里に棲む者の妹に出会いました。妹は兄に会っても殺されるので、自分に任せるように言いました。相手にしなかった兄も、妹の熱意に打たれ、1ヶ月以内に鯛100匹を持ってくるように条件を出しました。この話を聞いて頭を抱え込む若者に対し、娘は、紫色のアイゾメの木の実を流しますので、川が紫色に染まっている間は、私が成功するように祈っています、と言いました。紫色の川の流れを眺めながら、若者は漁に励みました。約束の日が近く、今日こそ100匹と荒れた海に若者は出掛けました。しかし、若者は荒海の飲み込まれてしまいました。若者の死を知らない娘は、アイゾメの木の実を流し続けました。このことを知った川沿い人々は、企救川を紫川と呼ぶようになりました。
県道曽根・鞘ヶ谷線と県道63号長行・田町線が交差する蒲生交差点から、県道長行・田町線を南に行きます。次の交差点を右折し、車1台が通れる程度の道を元の方向に戻るように進むと、現在工事中の道路の側に大興善寺があります。
大興善寺の前に、道路工事で無くなりましたが、池のような跡がありました。ここに紫池があったといわれています。
古代、万葉集に「企救の池」と歌われていますが、それ以前に、この辺りに大きな湖があり、その名残の池があったといわれています。大興善寺の前に紫という池があり、その池は「企救の池」を指すのではないかといわれています。
その紫池は、種々ある紫川の名前の起源の一つにあげられています。
山門は江戸時代1671(寛文11)年に建築されましたが、1719(享保4)年に大修理されました。現在、享保の姿に復元されています。
山門には仁王像、すなわち、金剛力士像が安置されています。南北朝初期(14世紀中頃)の作品です。向かって右が、阿形(あぎょう)です。
向かって左は、吽形(うんぎょう)です。桧の寄木造りの金剛力士像です。
山門の内側です。
平安時代末期、蒲生では、宇佐神宮の荘園のひとつ蒲生安則(がもうやすのり)が成立しています。
鎌倉時代の1245(寛元3)年、時の支配者得宗(とくそう、北条氏嫡流の惣領家)北条時頼が家臣佐野源左衛門常世に命じて大興善寺を創建し、時頼から崇敬されていた叡尊によって律宗の寺として開山されたと伝えられています。翌年の寛元4年に、時頼は執権に就いています。得宗は全国の交通・流通の要衝に、律宗の寺院を建て、地方支配の拠点としていました。奈良西大寺の末寺になった大興善寺は、講堂・本堂・三重宝塔・経蔵・山門が次々に造営されました。
1933(元弘3)年、鎌倉の北条氏は攻められ、一族が戦死し、鎌倉幕府は滅亡します。翌1934(建武元)年、帆柱山で、規矩高政が北条再興の兵を挙げます。しかし、後醍醐天皇に味方する軍に攻められ、帆柱山城は落城します。居城の虹山城(鷲峰山の南の同じく蒲生の虹山にあった)に逃げますが、そこで討死しました。
山門の正面に本殿はあります。
大興善寺の本尊は如意輪観音坐像です。この胎内墨書銘から、1340(暦応3)年に厚東武村・武直父子が造らせたことが分かっています。
南北朝時代、父が長門国守護であった厚東(ことう)武村は隣国の豊前国企救郡を与えられていました。厚東氏は物部氏を祖とすると伝えられ、長門国厚狭(あさ)郡東部出身の豪族でした。1338(暦応元、りゃくおう)年には、大興善寺は厚東氏の庇護を受け、繁栄していきます。武村は父の跡を継いで、長門国守護となり、その子武直・孫義武も長門国守護となりました。義武の時代、周防の大内弘世と争い、長門守護職を奪われます。大内氏は防長二国の守護となり、その後、厚東氏は滅亡します。
大興善寺は大内義弘や室町時代の将軍足利義教から寺田の寄進を受けています。安土・桃山時代の天正年間(1573〜92)、大友軍の兵火によって大興善寺の伽藍は焼失しました。その後、曹洞宗の寺院として、徐々に復興が図られていました。
江戸時代の1671(寛文11)年、小倉藩主小笠原忠真の夫人永貞院によって再建されました。しかし、1866(慶応2)年の長州藩との間の兵火により、被害を受けました。
本堂の横に、この舎利殿(しゃりでん)があります。本尊の如意輪観音坐像の胎内に納められていた仏舎利を祀る建物です。建立は1690(元禄3)年と考えられています。
山門や舎利殿は、平成12〜14年度に保存修理が行われました。
新しい道の一段高い所に、大興善寺の前の道があり、北東方面への坂道になっています。そこを上って行きますと、車両は通行止めになって、大興善寺の背後の鷲峰山への登山道になります。新しい道は県道曽根・鞘ヶ谷線の方向に伸びて行き、蒲生交差点の経ずに県道長行・田町線と連絡するようになる模様です。
鷲峰山の登山道はアスファルト舗装されています。林の中を進むと、それほど時間はかからずに、山頂広場にたどり着きます。山頂広場の一隅に、小倉市街地を望むように、平和観音が建てられています。
山頂広場から小倉北区、小倉南区の市街地が一望できます。
これは小倉北区の市街地です。左の銀色の屋根は、競輪が行われるメディアドームで、中央の高架道は都市高速です。右の一番高い山が足立山です。右手前は市営南ヶ丘団地です。更に右手を見ると、真下に小倉競馬場を見ることができます。


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