北九州点描

ホーム


金辺峠
  小倉南区呼野・田川郡香春町  [2009/03/28] 
 

金辺(きべ)峠は、古代より豊前国企救郡と田川郡を結ぶ交通の要衝でした。峠を通る街道は、時代や目的地によって田河道・香春(街)道・小倉(街)道・秋月街道などと呼ばれました。
740(天平12)年、政治の乱れを指摘し、玄ムと吉備真備を退けるように訴えて、大宰少弐の藤原広嗣は乱を起こします。広嗣軍は板櫃(いたびつ、小倉北区到津)鎮(ちん、兵営)を目指します。そのうちの一軍が金辺峠を通りました。乱は、板櫃川で広嗣軍が官軍に敗れて終わりました。
島津の豊後侵攻に対し、大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願い出ました。秀吉は出陣に先立って、毛利・吉川・小早川に先遣を命じました。1586(天正14)年毛利軍によって香春岳城は落とされ、高橋元種は降伏します。秀吉は大軍を率いて、翌1587(天正15)年出陣しました。秋月種実は秋月古処山城に籠城しますが、豊臣軍の圧倒的兵力に恐れ、降伏します。秀吉の九州平定の一連の戦闘にも、この峠は使われました。
1866(慶応2)年第二次長州征討戦の小倉口の戦闘に於いて、小倉城自焼後、小倉軍の最高責任者島村志津摩(しづま)は、金辺峠を拠点に、長州軍を相手に遊撃戦を行いました。
金辺峠の交通路は、近代になるとトンネルが掘られ、重層的に通っています。1897(明治30)年鉄道トンネルの掘削が始まりますが、難工事で、1915(大正4)年やっと小倉鉄道により、小倉東・上添田間の鉄道が開通しました。これは一番下です。街道の峠道のすぐ下に、1917(大正6)年に小倉と筑豊地方を結ぶ道路の金辺隧道が開通しました。これは一番上です。その間に、国道トンネルとして、1967(昭和42)年に新金辺トンネルが、その横に上り専用として、1989(平成元)年第二金辺トンネルが開通し、上下線が分離されました。
国道の金辺トンネルの手前で、国道322号線(新国道、呼野バイパス)に旧国道が交差します。その手前右手から、高架の新国道から下りて行ける道があります。中央分離帯がありますので、先でUターンして戻って来ます。今回は車で行ける所は、車で行きます。
JR日田彦山線の踏切を渡って左に来た所に、下りて行きます。この道は旧街道筋です。踏切の上は、322号旧国道です。
踏切の右方向については、「北九州点描」の「呼野」をご覧下さい。
新国道を下りて来て、左折します。数軒の集落の間を旧街道は通ります。集落の端に橋があります。橋の上を小川が流れています。橋の下を日田彦山線が通っています。先のトンネルは、金辺トンネルの手前、上り側にある短いトンネルです。その先に先程の踏切があります。この反対側に金辺トンネルはあります。
金辺トンネルは金辺鉄道が1897(明治30)年着工したものでしたが、この路線で金辺峠にこのトンネルを掘るのが一番の難工事でした。南北から掘り進めたトンネルは中央で合わずに、責任者が切腹したという話も残されています。そして金辺鉄道は資金が続かず、解散しました。小倉鉄道が後を引き継ぎ、工事を継続しました。1915(大正4)年小倉鉄道により、東小倉・上添田間が開通しました。この路線は筑豊からの石炭輸送が目的でした。東小倉駅は現在はなく、上添田は現在は添田駅になっています。線路は南に延長され、更に統合されて、現在は貨物列車の通らない、JR日田彦山線になっています。
全長1,444mの金辺トンネルの線路はその中央を通ってなく、トンネルの幅が広くなっています。石炭輸送が増えて、いつでも複線化ができるように計画されていたようですが、予想ほどには増えなかったようです。
鉄道の金辺トンネルの先で、旧街道は、現在の日本磁力選鉱の敷地を通って金辺峠に上って行ったのですが、その道は失くなっています。
先に行くと、国道322号線の新国道と旧国道の交差点から、旧国道を金辺峠側に来た所に出ます。そこを左折すると、旧国道は新国道に合流します。国道322号線を更に上って行きますと、国道の金辺トンネルが見えてきます。
先に見えてきたのが、右側上り専用、全長850mの第二金辺トンネルです。1989(平成元)年の呼野バイパスとともに開通しました。第二金辺トンネルには歩道が完備していますので、金辺峠を通る歩行者や自転車は上り下りに関係なく、第二金辺トンネルを通行します。
下り専用のトンネルは、第二金辺トンネルの左側に、開口部はもっと先になります。1967(昭和42)年、全長590mの新金辺トンネルは開通しました。
第二金辺トンネルというのは、新金辺トンネルに対して、第二ですし、新金辺トンネルというのは、このトンネルのもっと上にある金辺隧道に対して、新しい道路トンネルということです。
金辺隧道や旧街道の峠道へは、トンネルの手前、土処分場の看板が出ている所を、国道から左折し、坂道を上ります。
坂道を上って行きます。道路は荒れています。左手に砕石所や土処分場の看板が出ています。すぐに、前方左手に標高680mの竜ヶ鼻が迫ってきます。竜ヶ鼻と右手の山の間に向かって進みます。先方にトンネルが見えてきました。
全長100mの赤レンガ造りの金辺隧道です。1917(大正6)年に小倉と筑豊地方を結ぶ目的で造られました。下に掘られた国道の新金辺トンネルができるまでその役目を果たしました。
トンネルの銘板には、「道隧邊金」と右から書かれています。なお、新金辺トンネルには「新金辺隧道」、第二金辺トンネルには「第二金辺トンネル」と書かれています。
トンネル内には水が流れ込んでいます。安全のために、トンネルは通らずに、新金辺トンネルを通ることにします。
金辺峠の峠道へは、金辺隧道の手前、左手に上る坂道がありますので、その付近に駐車して、歩きになります。この道は竜ヶ鼻への登山道でもあります。ほどなく、竜ヶ鼻と金辺峠への分れ道になります。そこを右に行くと、すぐに標高217mの金辺峠です。
右手の崖の上に郡境の石碑が立っています。北が企救郡、南が田川郡の郡境であることがしるされています。
石碑の先の街道脇の樹木の根っこ部分に石組みがあり、水が滴り落ちています。往時は、峠には関所・茶屋・水飲み場があったとのことですから、水飲み場でしょうか。
峠の先に、携帯電話のアンテナの鉄塔が2基建てられています。
峠の反対の左手に、島村志津摩(しづま)の碑があります。
1866(慶応2)年第二次長州征討戦の小倉口の戦闘に於いて、小倉城自焼後、小倉軍の最高責任者島村志津摩は、金辺峠に向かいました。金辺峠を拠点に、企救郡内からの農兵を集めて、反撃に出ることを決めました。領内を長州軍からの侵略から守るとの郷土防衛意識をもって志願した農兵が数多く集まり、遊撃戦を行いました。しかしその後、小倉軍の戦力からして、限界になってきました。島村はともに戦ってきた企救郡の農兵達と決別し、島村率いる軍は金辺峠から退きました。翌1867(慶応3)年小倉藩と長州藩の間で、止戦協定が締結されました。1876(明治9)年島村志津摩は死去します。
この石碑は、死後10年の1886(明治19)年に、彼の遺徳をしのんで建てられました。
小倉城自焼前の小倉口の戦闘については、「北九州点描」の「赤坂」をご覧ください。
島村志津摩の碑の背後に石段があり、その上に金辺観音堂があります。
峠名のきべは古くは木辺と書かれたようですが、呼野の金山にちなんで、金辺と書かれるようになったようです。
国道322号線まで戻り、新金辺トンネルを抜けるとすぐに左に入る道があります。そこから振り返っています。右が新金辺トンネルで、左が上りの第二金辺トンネルです。トンネルのこちら側は田川郡香春町(かわらまち)です。
国道から左に入って、左の山手に上って行きます。
道は細くなり、曲がりくねった道が上に続きます。途中から南方向を眺めています。眼下の道路が国道322号線です。中央右側の山は、標高511mの香春岳の三ノ岳です。
アスファルトの道が砂利道になると、トンネルが見えてきました。
金辺隧道の香春側です。右手の道が峠道で、登って行くと、先程の峠の上部に出ます。
国道322号線は、北九州市側の呼野バイパスから金辺トンネルを通り抜けた香春側も、新国道の香春バイパスが開通しています。国道トンネルを香春側に抜けた最初の交差点が金辺峠交差点で、直進するのが香春バイパスの新国道で、右折するのが旧国道です。
金辺隧道から曲がりくねった道を下りて来ると、金辺峠交差点に出ます。
旧街道筋は、金辺峠から金辺隧道の横を通り、山腹の傾斜を真っ直ぐ金辺峠交差点付近に出る、かなりの坂道だったと思われます。
金辺隧道から下りて、金辺峠交差点を直進し、旧国道を進みます。すぐ右手に駐車のスペースがあります。そこからの眺めです。
山は標高680mの竜ヶ鼻です。左端に鉄塔が2基見えます。その辺りが金辺峠の上部で峠道が通っています。中央の白い線が新国道の香春バイパスです。その下に白い三角屋根が見えますが、その右付近が鉄道の金辺トンネルの香春側です。その横に白い帯が横に伸びていますが、その下に線路はあります。
旧国道の坂を更に下ると、右にカーブし、その先に信号機があります。そこを左折すると、すぐに跨線橋があります。その上を水が流れていて、フェンスに囲まれています。そこから振り返って、鉄道の金辺トンネルを見ています。
左手の上を旧国道が通っています。旧街道は旧国道とほぼ同じ所を通っていました。


You Tube でこのページの動画がご覧になれます
この先をクリックしてください → 金辺峠


掲示板 → 北九州から、北九州に


トップへ

北九州点描へ

ホームへ