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駒場一揆


 
駒場一揆について

 江戸の終わり頃に駒場狩場を練兵場にするという計画があったのが、周辺の農民の一揆で取りやめになったという話がありました。確か手塚治虫の陽溜まりの樹にもあったような気がするな。上目黒村の住民にとっては村域ではあってもはるか遠くのことだから、周りで騒ぎそうなのは下北沢村や代田村または代々木村の方の気がします。どこの住民がという話はあまり聞いたことがありませんね。最も特定できたら処分の話が出てきそうだから誰も記録には残したくは無いでしょうがね。

 その後少し詳しい話を聞きました。駒場狩場の西側を砲弾の着弾点にするため、立ち退きを求めたそうです。下北沢、代田をはじめとした8ヶ村が対象で、お狩場の番小屋を襲ったりして抵抗したそうです。


上にも書いておきましたが、駒場野の一体は幕府の御猟場でした。
幕末も終盤近くにこの御猟場を西洋式軍隊の調練場にし、さらに大砲の着弾地として拡張し、近辺の農家を立ち退かせようとする計画が起こりました。
時は第2次長州征伐(1865-1866)後の1867年の秋の初めです。

去る14日(西暦1967年9月14日)幕府役人が世田谷領の視察に来たこと、世田谷村内で農家19軒取壊すことに決まったことを今朝使者から聞きました。
幕府役人の視察もあったことですし、このことは世田谷代官から届けのあるべきことなのに、何も聞かされず今朝初めて聞きました。
どういうことだか聞いておきたいのでお伝えします。
 8月17日(西暦9月17日)   勝五兵衛
  大場広之介殿(世田谷代官)
なお、幕府役人が領内に立ち入ったこと、届けのなかったことは不都合だと思われます。


これは、井伊家から世田谷代官に宛てた手紙です。幕府も重臣の井伊家には伝えなくてはならなかったのでしょう。よそから聞いた話なので、担当の世田谷代官に問い合わせています。怒っているみたいです。

お尋ねの件、世田谷村役人が書状で返答いたします。
去る14日幕府役人が世田谷村内を視察され、昨17日農家19軒取壊すよう仰せられたとのことですが、同日、下北沢・代田・幡ヶ谷三ヶ村は視察されたことは聞きました。
羽根木と代田村の境までは来られましたが、当村には来ていません。
羽根木の内で19軒囲い込まれることは隣村の噂で聞いておりますが、正式には何も伝えられておりません。
このような次第で大変困っておりますので、何かありましたら有利なようにしていただけたらとお願いいたします。
 慶応3年8月18日(西暦1867年9月18日) 世田谷村 名主 松本宗八
                        同  武川久次郎
                 羽根木  年寄 芹沢新兵衛
 御代官所様


さらに代官から返事しろと言われた村役人からの代官への返事です。どこかに8ヶ村が関係していると書いてあったように思いますがここでは見つかりませんでした。読みとれるのは代田・代々木・幡ヶ谷・下北沢と世田谷村の内羽根木の5ヶ村です。世田谷区外は知りませんが、関係する村は旗本領がほとんど、羽根木だけが井伊家領です。
ですから世田谷代官所に関係するのは羽根木です。ここは今でも羽根木の地名であるところに当たります。ここと羽根木公園の場所を合わせて、世田谷村(上町あたりが中心の村)の飛び地であったところです。
8ヶ村となると後は和泉・松原にお膝元の上目黒くらいなものでしょうか。下に地図を示します。こんな形で大砲の弾が飛ぶと想定したのでしょうか。確かにこの方向ならば最も田が少ない方向です。
幕府にしてみれば、旗本領内だけに収まれば、身内のこととしてさっさと実行できたのでしょうが井伊家世田谷領に知らせなければならなかったのが残念なことだったでしょう。飛んだところに飛び地があったものです。





江戸城使代役人水野大三郎よりの書状
この度、駒場原を外国大砲場にするため、地続きの代田村・代々木村・下北沢村の農地・農家を没収し農民は立去らすようにとのことで、農民は20日結集して御用を勤める駒場原番人宅を打壊したそうです。
松村忠四郎代官の手のものが鎮圧に向かい、棒竹槍を携えて多人数結集した農民も鎮静となったそうです。
 8月23日  名主 田中権左衛門より
 9月1日(西暦9月28日)   水野大三郎
(熊本藩庁記録)

なんだか大変みたいですが、熊本藩細川家にも知られてしまいました。井伊家の筋でしょうね。起きた事態そのものを見ると、まあそれほどのこともない、番人の見張り小屋ですから掘建小屋一つ壊しただけですよね。農家打壊しならこれくらい騒いでもしょうがないですよね。

去る8月中に伝えた駒場原を外国調練場にすること8月26日代官所松村忠四郎様より村役人が呼び出され中止となったことが伝えられました。
この度は上中豊沢両村・羽根沢村・道元坂町・下渋谷町を囲い込むとのことで、この町村の人々が竹槍や鉄砲を携えて群集したため、視察は中止となりました。
 9月1日             世田谷御代官
  佐野御奉行衆中


これに対する幕府の対応は不思議としか言いようがない。そう簡単にはいかないと思ったか今度は東側を提案ですが、そりゃ無理だ。渋谷の町にかかってしまうは、大山道を弾が超えるはの計画ですからね。それにしても鉄砲まで持ち出しています。まあ、世田谷代官も他人事になったので、気楽に書いたのでしょう。世田谷の場合も鉄砲は出たのでしょうか。
この鉄砲、駒場野の近辺の農民たちは調練にかり出されていますので、その時のものでしょうか。農民にしてみれば、そのような協力もしているのに打ち壊しとは何だとなりますよね。頼りない対応だった幕府ですが、これで実行はしばらくできそうもないなと思ったでしょう。そのうちに、

大政奉還 10月14日(西暦11月9日)申出 翌日受理

ということで、話は終わってしまったようです。

*本ページ:「肝高」様に負うところ大です。ありがとうございました。


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