【エホバの十戒】
1.創造主以外の神があってはならない。
2.いかなる像を作って拝んではならない
3.神の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を心に留め,これを聖別せよ。
5.あなたの父母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.隣人に関して偽証してはならない。
10.隣人の家をむさぼってはならない。
日々の生活で神を見上げる者以外、何人もこれを受け入れはしない。
生活に神を見上げることは、悪を罪として避ける以外の何ものも意味
しない。
主の人間との結合が在り、人間の主との結合が在るため、律法の2枚
の板石があり、その一つは主に、他の一つは人間に関連している。人
間が人間の律法の板石の律法を、恰も自分自身の力によって成就する
かのように成就するに応じて、主はご自身の板石の律法を人間に成就
させられることができるのである。しかし、その凡てが隣人愛に関係
している人間自身の板石の律法に服従しない人間は、その凡てが主へ
の愛に関連している主の板石の律法に服従することはできない。人殺
し、盗人、姦淫する者、また偽証人は如何にして主を愛することがで
きようか。このような性格を持つことと神を愛することとは矛盾であ
ると理性は宣言しないか。悪魔はそうした性格を持たないか。彼は神
を憎む以外に何を為し得よう。しかし人間は殺人、姦淫、盗み、偽証
を地獄のものとして嫌忌するとき、主を愛することができる。何故な
らそのとき彼はその顔を悪魔から主に向けるから。そして彼はこれを
為すとき、愛と知恵は彼に与えられ、さの愛と知恵は人間にその顔か
ら入ってくるが、首の後ろからは入ってこない。主との結合はこのよ
うな相互の方法によってのみ起るゆえ、二枚の板石は契約と呼ばれて
いる。何故なら、契約は二人の間になされるからである。
【生活の善、または善良な生活を送ることは、悪をそれが宗教に反し
それゆえ神に反するため、避けることである。】
もし、諸君が善良な行為を無数に行っても、例えば、教会堂を建設し
それを装飾し、それに捧げ物を満たし、病院と養育院のために金銭を
費やし、日々施しをし、やもめと孤児とを助け、勤勉に宗教の神聖な
義務に携わり、さらにこれについて恰も誠実そのものから考え、語り
説いても、彼が悪を神に対する罪として避けないなら、その行為の凡
ては真の善ではなく、偽善的なものであるか、または功績の観念で汚
されているかしている。何故なら、悪は依然それらの中に潜んでいる
からである。何故なら各々各の人間の生命はその為す凡ての事柄とそ
の個々の物の中に在り、善良な行為は悪がそこから除かれたときにの
み真に善となるからである。それで悪をそれが宗教に反し、それゆえ
神に反したものとして避けることが善良な生活を送ることであること
は明白である。
唯一人の神を承認して、悪を神に反したものとして避けることが純粋
な宗教を作る二つの物であり、もしその中の一つが欠けるなら、それ
は宗教と呼ばれることはできない。何故なら、善を為すが神を承認し
ないことは矛盾であるように、神を承認して、しかも悪を為すことも
矛盾であるから。それは一は他のものなしには存在できないためであ
る。、、、、この二つの原理は明らかに凡ゆる種類の宗教の最高のも
のである。何故ならそれは十戒の教える二つのものであって、十戒は
エホバの声によりシナイ山から布告された聖言の最初の部分であって
二枚の板石に神の指を以って記され、次に箱の中に置かれてエホバと
呼ばれ、幕屋の至聖所とエルサレムの神殿の聖所とを構成し、そこの
凡ゆる物はその聖さをそれのみから得たからである。箱に収められた
十戒にかかわる聖言の他の多くの事柄は記すまでもなかろう。
しかし、私は以下のことを附言しよう。
上に十戒を記した二枚の板石を納めた箱が
ペリシテ人に奪われ、
【ペリシテ人は仁慈を欠いた信仰を持つ者を意味】
アシドドのダゴンの宮に置かれたところ、ダゴンはその前で倒れ、
【ダゴンはそれに相応した宗教を意味】
頭と手とは身体から切り離されて、家の敷居に横たわり、アシドドと
エクロンの人々はその箱のために疾病を病んでその数は数千にも達し
【彼らのかかった疾病は霊的な愛から分離すると不潔なものとなる自
然的な愛を意味】
その土地ははつか鼠のために荒され、
【はつか鼠は真理の誤謬化による教会の荒廃を意味】
またペリシテ人はその民の主たちの忠告により、五つの黄金の疾病と
五匹の黄金のはつか鼠と新しい荷車を一台作り、その上に箱と、その
箱の傍らには黄金の疾病とはつか鼠とを置き、
【新しい荷車は(彼らはその上に箱を置いて送り返したのであるが)
新しいが、しかし自然的な教義を意味した。何故なら聖言では霊的
真理から発する教義は戦車により意味されるから。】
その箱を二頭のめ牛に引かせてイスラエルの子孫の許へ送り帰すと、
め牛は鳴き声を立てながら歩み、
【め牛は善良な、自然的な愛を意味し、黄金の疾病は潔められて、良
いものとなった自然的な愛を意味し、黄金のはつか鼠は教会の荒廃
と、善によるその回復を意味した。何故なら、聖言では黄金は善を
意味するから。途々め牛が鳴き声を立てたことは自然的な人の悪念
を良い情愛に変えることの困難を意味】
め牛荷車はイスラエルの子孫によりいけにえとされた。(サム前5章
6章)
【め牛と荷車とをいけにえとして捧げることは主の和解を意味】
これらがその歴史的な事柄により意味される霊的な物である。それらを
一つの解釈に整え、諸君の生活に応用されよ。ペリシテ人は、仁慈を欠
いた信仰の者を意味することは前記にみることができよう。
また、箱はその中に十戒を入れていたため、教会の最も聖いものであっ
た。
【宗教は各々人間の中に神の映像を転倒することにより衰え、終局に至
る
人間は、神の形に似せ、その映像として創造されたことは良く知られて
いる。(創1.26)神のみが愛と知恵であられ、人間はその二つのも
のを受ける器として、すなわち、意志は神の愛を、その理解は神の知恵
を受ける器として創造された。この二つの受容器官が創造により人間の
中に在って、人間を構成し、死球内の各人の中に形作られることは前に
示された。人間が神の映像であることは彼が神の知恵を受ける器である
ことを意味し、神に似た形であることは、彼が神の愛を受ける器である
ことを意味する。それ故、理解と呼ばれる受容器官は神の映像であり、
意志と呼ばれる受容器官は神に似た形である。人間は受容器官として
創造され、形作られたゆえ、彼はその意志が愛を、その理解が知恵を
神から受けるように創造され、形作られたことが推論される。人間は
神を拝し、その誡命に従って生きるとき、これを受けるが、しかし、
その受ける度は、その宗教により神、誡命、真理の性質を知るに応じ
て、大きくもなり、小さくもなっている。何故なら、真理は神につき
、神は如何に拝すべきかにつき教え、また誡命を説明し、如何に人間
はこれに従って生きねばならぬかを示すからである。
【神の映像と神に似た形は人間の中に事実上、破壊されているけれど
全く破壊されているわけではない。】何故なら、それらは前に再三取
り扱った自主性と合理性の二つの能力の中に内在しており、人間が、
神的愛の受容器官を、または彼の意志を自己愛の受容器官となし、神
的知恵の受容器官を、または彼の理解を自己から由来した理知の受容
器官となしたとき、それらは事実上破壊されたのである。この方法に
より、彼は神の映像と神に似た形とを転倒したのである。