[自分自身と自分を拝する者は不敬虔な者が高官、主教として栄誉に引き上げられ、富に溢れ、優雅なぜいたくな暮らしをしているのを見るのに、神を拝する者が嘲られ、窮しているのを見ると、強く神的摂理に対する否定を確認する]
自分自身と自然をを礼拝する者は、名誉と富が最高の唯一可能な幸福であり、それ故幸福そのものであると信じる、もし彼が小児の頃教え込まれた礼拝の結果神を考えることがあるなら、名誉と富とを神の祝福と呼び、それに満足している限り、神はおられると考え、また、神を拝する。しかしその礼拝の中には、その時彼の気付かないところの、神によりさらに高い尊さとさらに大きな富に挙げられようとする欲望が隠れており、もし彼がそれを獲得するなら、その礼拝は益々外なる物に向けられ、遂には堕落し、しまいには、神を蔑み、否定してしまうのであり、もしその心をよせている高貴と富から投げ下ろされるにしても、それと同じことをするのである。それゆえ、高貴と富とは悪い者には躓きの石以外の何であろうか。しかし、善い者にはそうではない。なぜなら、彼らはその心をそこにおかないで、用または善におき、名誉と富はただそれを遂行する手段として役立つにすぎない。
それゆえ、自分自身と自然とを拝する者を除いては何人も悪い者が高官と主教として名誉と富にすすむことから、神的摂理をつよく否定することはできない。さらに、名誉は、それが大であれ、小であれ、何であろう。また富もそれが大であれ、小であれ、何であろう。それらは本質的には想像上の事柄ではないか。一人の人物は他の人物よりもさらに恵まれて幸福であるのか。偉大な人間の高貴も、王または皇帝のそれすらも、たった一年後にはありふれたものとして認められ、もはや、彼の心を喜びでふくらませることもなくなり、その目には無価値なものとすらならないか。これらの人間は、農夫やその召使のような、低い、または最低の地位にある者よりもさらに大きな幸福をその高貴から得ていようか。農夫や召使は何事もうまく行って自分の運命に満足しているときは、さらに大きな幸福をたのしむことができよう。自分自身を愛する者は、とくに自分がその心の誇りに応じて尊ばれないときは、また、その好みと欲望に応じて成功しない時は、他の何人にもまさって心が休まらず、容易に苛立ち、猛烈に激怒する。それ故、高貴は、目的、または用になんら貢献しないならば、観念以外のなんであろう。そして、このような観念は、自己と世とを目標として、この世が凡てであって永遠は無意味であると仮定する以外のいかような種類の考えに在ることができよう。
さてなぜ、神的摂理は、心の邪悪な者が高位に上げられ、富を与えられるのを許されるかを説明するために若干語ってみよう。不敬虔な者または、邪悪な者も敬虔な者または、善良な者と同じように用を遂行することができ、実に、さらに、大きな熱意を以って活動しているのである。なぜなら彼らは、その遂行する用の中に自分自身を目標とし、名誉を用として認めて、その名誉のために努力し、それ故、自己への愛が高まるに応じて、ますます、激しく、自分自身の光栄のために用を為そうとする欲念が燃え上がるのである。敬虔な者、または善良な者には、下から名誉への愛によって刺激されない限り、このような火はない。それゆえ、主は高位にある心の不敬虔な者を自分自身に対する関心により支配され、かくして彼らを刺激してその住んでいる共同体、国家、社会、また都会のためにまたその同胞、または隣人のために用を遂行させられる。このような人間にはこれが主の統治、または神的摂理の方法である。しかし、用のために用を遂行する者が僅かしかいない所では、主は自己を拝する者を高い任務に上げさせられそこでその各各の者は愛により刺激されて善を為すのである。この世に奈落の王国が在って(そのようなものはないが)そこでは自己への愛または悪魔のみが支配されていると考えられよ、そこの凡ての者は自己愛の火から、自分自身の光栄の輝きを求めて、他の如何なる王国にいる者よりもさらに用を遂行しないであろうか。しかし凡てこうした人間は公共の善を口にはするが、自分自身の善を心に抱いており、そして各各の者はさらに偉大なものとされるために、(なぜなら彼らは、最大な者になろうと渇望しているから)自分自身の主君を仰いでいるゆえ、こうした者は大火の黒煙のような煙に取り囲まれて、霊的な真理の光は一つとしてその許にさし込んでくることができないのに、神がおられることを認めることができようか。私はこうした人間の地獄の周囲にその煙を眺めたのである。
諸君の燈に火をつけて、現今の王国の中に自己と世とを愛しないで、名誉を渇望している者が幾人いるかを試しに探されよ。神を愛する者を千人の中に五十人見出すであろうか。しかも、この五十人の中にも、高位を求める者は極わずかしかいないのではなかろうか。それ故、神を愛する者は、極めて少数であり、自己と世とを愛する者は極めて多いため、そして後者はその熱意から用を遂行することが、前者がその熱意から用を遂行するにまさっているため、邪悪な者が善良な者よりも名誉と富とをさらに得るという事実により如何にして神的摂理に対する不信仰を強めることができようか。この立場は主の以下の語により支持されている、《それで主人は不正な支配人を深重に行動したことで誉めた、なぜなら、この世の子らはその代では光の子らよりも深重であるから。それで私はあなた方に言う、不義の富=マモン=で自分のために友を作りなさい、富が失せた時、その友はあなた方を永遠の住居に迎え入れるであろう。》=ルカ伝16.8、9。これらの言葉の自然的な意義は明らかである。しかし霊的意義では、不義の富は悪い者が自分に名誉と富とを得ようとしてのみ、所有し、用いる真理と善の諸々の知識を意味する。この知識から善良な者、または光の子供たちは自分自身の友を作らねばならず、これが彼らを永遠の住居へ迎え入れるものである。多くの者は自己と世とを愛し、僅かな者しか神を拝しないことを主は以下の語で教えられている。《破滅に通じる門は大きく、その道は広く、そこから入る者は多い。しかし、生命に通じる門は細く狭く、それを見出す者は僅かしかいない。》=マタイ伝7、13、14。名誉と富とは或る人間には呪いとなり、他の者には祝福となることは前に見ることができよう。