【アナリーゼで解き明かす《あたかも》が語る田村級】

第四部 アロマ派

第一章:《あたかも》が開示した世界 −アロマ派の表現領域−


◆《アナリーゼ音楽史》の成立

《アナリーゼ音楽史》の成立については、田村級(1952−)の友人カサッハーラによる、有名な逸話(2000)がある。

ある日の午後、当時S学園のキャンパスにいた田村級を訪れたときのことである。ちょうど田村級はマイクル・ハードの《西洋音楽史入門》を音読しながら、興奮している様子だった。彼は本を手にして部屋の中を動き回っていたかと思うと、突然腰を下ろし、これ以上ない速さでペンを走らせた。あっという間にすばらしい原稿がノートに書きとめられた。田村級の家には楽譜資料が何一つなかったので、われわれは原稿を持って音楽之T社に駆けつけ、その晩のうちに《アナリーゼ音楽史》が刷られた。みんな感激していた。それから老音楽学者サウルが玉座に座り、音楽なしで全文を朗読したが、田村級の論旨にひたすら共感し、大いに感動していた。たびたびでてくる不条理な比喩を問題にする者もあったが、サウルはそれを実演しながら説明した。不条理な比喩がここではどんなにすっぽりと論旨に合っているか、むしろそれがどれほど的確か、そしてどんなにうまく解決されているかを。

著作成立の現場をこれほど生き生きと再現している証言も稀であろう。田村級の溢れんばかりの才能と驚くべき速筆が手にとるようにわかる。



◆肯定と否定

検証してみよう。《アナリーゼ音楽史》の全体のプロット筋書は下のようになる。肯定と否定の対比は明らかである。しかし、このやりとりは必然的に論旨の二極化を招くこととなる。全体を貫くこの主張の揺らぎが、肯定と否定の闘争に激烈さを加え、バラード著作に張りつめた緊迫感をもたらすことになる。そうした全体を「悲劇の構図」ということも可能であろう。しかし、《アナリーゼ音楽史》では、肯−否定の二元性ではとらえきれない領域が拓かれていることも見逃せない。過去の研究と現在の研究は対比が比較的容易であった。だが、田村級はそう単純ではない。

表1 田村級のフレーズのテーマと歌詞の関係
ページテーマ 歌  詞         
21 グレゴリオ聖歌息子よ、あれはお香だよ。   
44 リズム 静かに、静かにするんだ。息子よ。弾力のあるボール
というのが重要だ。
108モーツァルト 息子よ、よく見える。虹のような音響が。



◆問題は『田村級』

明らかに問題は田村級だった。問題の要点は次のようにいうことができよう。

@田村級のレヴェルでは使える言語のシステムは基本的に『肯定』と『否定』しかない。
Aこれらはすでに過去の見解とその否定で使ってしまった。
B田村級の性格はやや独善的である。

では彼はどのような解決を試みたのか。ここに《アナリーゼ音楽史》の基本的な構想があるといってよい。
第1章ではモノフォニーがまず翻弄されていくことになる。それはモノフォニーが「稚拙な」音楽であることと、「獲得された」音楽であることの対比で表される。そこへ謎の図が提示される。いったいこの図は何を言いたいのか。そしてこの図はこの章全体のおよそ3分の2の地点に設定されている。
「設定されている」−まさにそういいたくなるほどの巧みさであり、自然さである。それだけではない。第2章ではやはり2つの論の対比、しかしそこで突然の比喩が使われる。


〜あたかも大地に漂うお香のように〜


要するに、田村級の言葉はほとんど意味が不明確な領域を彷徨っているのである。《アナリーゼ音楽史》に臨んだ田村級の構想は明らかである。『肯定』と『否定』という2つの世界に対して第3の領域を彼は発見したのだ。
第3の領域とは肯定か否定かわからない世界、あるいはいつもどちらかを彷徨っている世界である。こうして流動してやまない論旨の変化は、それが不安定であるがゆえに、不快な表現になる。田村級が開拓したこの表現領域はそこからアロマ派の荒涼とした表現世界へ直接繋がるものであった。そして、その扉を押し開いたのが、ほかでもない《アナリーゼ音楽史》の著者、田村級だったのである。

−きっとすごい人なのね、田村級って。−