今世紀のベスト10とウスペンスキー『ターシャム・オルガヌム』

 ミステリのジャンルでは、毎年ベスト選びが盛んだが、他のジャンルでは、あまりそういう催しを目にしない。  ここで大胆不敵にも、「存在の神秘」を開示してくれた偉大な20世紀の書物10選を筆者の独断と偏見でセレクトしてみようと思う。  そのベスト10は、以下のとおり。

 P・D・ウスペンスキー(露)『ターシャム・オルガヌム』(1912)
 ラビンドラナート・タゴール(印)『ギタンジャリ』(1912)
 ウィトゲンシュタイン(墺)『論理哲学論考』(1921)
 カリール・ジブラン(レバノン)『預言者』(1923)
 マルティン・ブーバー(独)『我と汝』(1923)
 マルティン・ハイデガー(独)『存在と時間』(1927)
 J・P・サルトル(仏)『存在と無』(1943)
 G・I・グルジェフ(露)『ベルゼバブの孫への話』(1949)
 コリン・ウィルソン(英)『アウトサイダー』(1956)
 クリシュナムルティ(印)『生と覚醒のコメンタリー』(1956)

(刊行年代順、一著者一作に限る)
(どれも人類史的といってよい、素晴らしい傑作ばかりなので、未読のものがある方は、他の読書時間を割いてもまずこれらの著作をお読みになるのをお勧めしたい。)

 この十作の中でも、筆者としては頂点に君臨すると思われるのが、本書『ターシャム・オルガヌム』である。  「存在の神秘」の開示に迫るためには、アプローチの仕方として、詩的言語を選ぶか、論理的に哲学的な言語で書くかで大きく二つに分かれる。上述の著作家では、タゴールとジブランは、詩人であり、『預言者』と『ギタンジャリ』は、今世紀の最も美しく書かれた詩文であり記念碑であろう。

 しかし、詩的表現は、脈絡的には跳躍と飛翔からなり、その詩文を鑑賞することはできても、著者が示す道筋を論理的に順序だてて読者がたどることはできない。

 そこで翻って、論理的な散文言語を選ぶと、途端に大きな困難に直面する。通常の哲学的表現では、神秘のヴェールは容易に開示されないのだ。ブーバー、ハイデガー、サルトル、ウィトゲンシュタインといった一級の哲学者たちは、それぞれの仕方で、その内奥の神秘の開示へと迫ったが、太陽に近づきすぎたイカロスのように、中途での墜落を余儀なくされた。ただ一人、ウスペンスキーだけが、彼らが墜落した地点を越えて、危険なまでに奥義の神秘にまで近づきえたのは、彼だけが、特別に神に愛されて、天使の翼を賦与されていたためであろうか──そんな感慨を抱かせるほど、ウスペンスキーの著作での達成は、奇蹟的なものがある。

 今世紀の最も重要な哲学書の一つとみなされるマルティン・ハイデガーの『存在と時間』は、前半だけの未完に終わり、予告された後半が書かれることはなかった。簡約すれば、『存在と時間』の前半は、現存在から存在にいたる道なのに対し、書かれなかった後半は、存在から現存在への通路をつける意図でいたようだ。その未完の後半を補うべく、後期のハイデガーの思索は、存在から現存在への通路を見いだそうとする、さまざまな試みという色彩が強くなるが、後期の著作もまた、講義は別として、企図された著作がことごとく未完に終わり、この哲学的な通路づけの試みが失敗に終わったことを示している。

 後期のハイデガーは、何度も「存在とは何か?」という問いに立ち返る。しかし、「存在とは……である(Sein ist ...)」と言った瞬間、その言明自体に「存在=である(Sein)」を招き入れてしまうことになり、定義的言明の不可能ないし論理矛盾という事態に直面することになる。存在者を離れて存在を考えることができないという単純な真理にもかかわらず、存在者(Seiendes)とは異なる存在をハイデガーは追求してやまなかった。

 それでも、後期のハイデガーの著作の中で、何度も存在を規定づけようとする試みがなされている。「存在とは、自ら身を引く形で、存在者に存在を与える」。その規定の上で、存在を無と同値だとしたり、ドイツ語の古語であるSeynとSeinの区分を導入したり、Seinにバツをつけたものを文中に持ち込んだりした。バツ印は、「存在にして存在ならざる」とか「身を引くこと」とか「四領域のまじわり」といった多義的な意味を負わされることになる。

 「存在」をとらえようとしてついにとらえられないハイデガー後期哲学の奇妙な袋小路に対して、浴びせられた批判の代表的なものは、要するにハイデガーのしていることは、「言葉遊び(Wortspiel) 」であるということであった。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の次の言葉は、直接にハイデガー思想の批判に向けられたものではないにしても、なによりハイデガーの特に後期思想への批判として的を射たものと言えるだろう。

「哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いの多くは、誤りではない。ナンセンスなのだ。したがって、われわれはこの種の問いにおよそ答えるすべを知らず、ただそのナンセンスであることを立証できるにすぎぬ」(4.003)(坂井秀寿訳)  『論理哲学論考』では、末尾の「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(7) という一節が特に有名であるが、この一節は、その前の「いい表せぬものが存在することは確かである。それはおのずと現れ出る。それは神秘である」(6.522) という一節と抱き合わせて理解しなければならない。つまり、ウィトゲンシュタインは、ハイデガーと同じく、「存在」という神秘を認めつつも、「それについては沈黙しなければならない」と主張しているのだ。ハイデガーは、そのことを語ろうとする愚を犯していると、ウィトゲンシュタインの立場からは批判されるのであろう。

 このハイデガー後期思想の袋小路と難問への回答を示唆してくれると思えたのが、ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』でグルジェフが開陳した、階梯論である。存在をとらえることの不可能に直面しても、「存在第一番、存在第二番、存在第三番、存在第四番……」と、「存在」概念に位階を持ち込むことによって、存在論のアポリアを打開することができるのではないか。それと同様に人間の存在もまた、「現存在第一番、現存在第二番、現存在第三番、現存在第四番……」と把握出来る。『存在と時間』でも、ハイデガーは、人間の存在を非本来的なありかたと、本来的なありかたに裁断し、前者を「世人(Das Man) 」と命名しているのだから、存在の位階という考えかたは、『存在と時間』の議論に照らしても、そぐわないものではないはずである。

 しかし、『奇蹟を求めて』で開陳される形而上学の深遠さに触発されて、グルジェフ自身の著作(『ベルゼバブへの孫への話』等)を繙いても、そこに一貫した体系も、形而上的思索も見いだすことはできず、失望させられることになる。他の弟子が記述したグルジェフの講義も同様であり、結局のところ、グルジェフが教師として偉大な相貌を表すのは、ウスペンスキーの著作の中においてのみということになる。そして、ウスペンスキー自身の、グルジェフに依らない著作──本書と『新しい宇宙像』──の偉大さと深みを通覧すれば、グルジェフに偉大さを与えていたのは、ウスペンスキー自身であり、グルジェフはウスペンスキーの光によって輝かされていた月のような存在であったことが了解できるだろう。そして『奇蹟を求めて』の位階論を基礎づける理論は、グルジェフ自身の著作ではなく、ウスペンスキー自身の本書(『ターシャム・オルガヌム』)と未訳の『新しい宇宙像(A New Model of the Universe) 』の中に見いだすことができるだろう。

 ハイデガーが生涯をかけてついに辿りつけなかった存在の神秘のありかに、ウスペンスキーは、本書『ターシャム・オルガヌム』において、はるかに肉迫することに成功している。本書は、数学的な次元論という、およそハイデガーとは異なる問題設定から始まりながら、やがて意想外な経路をたどって、哲学的な存在論へと突入していく。「語りえぬものについて沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの正論が、ウスペンスキーだけには通用しなかったかのように、本書は奇蹟的に、「語りえぬもの」の言語化が、可能なかぎりぎりぎりのところでなされている。
 本書の姉妹篇ともう言うべき未訳の『新しい宇宙像』もまた、この『ターシャム』にまさるともおとらないくらい傑作なので、早期の邦訳実現が望まれる。(2000.8.8)