G.I.グルジェフ著『ベルゼバブの孫への話』
   −−人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判−−
(浅井 雅志訳/平河出版社)


 久しく前から名前だけは紹介されていたものの、そのあまりの難解さと長大さ
ゆえに、翻訳は不可能と言われてきたゲオルギー・グルジェフの主著『ベルゼバ
ブへの孫への話』の邦訳が平河出版社より刊行された。『森羅万象』シリーズの
第三巻めは未訳なものの、この本の刊行によって、以前に出版された『注目すべ
き人々との出会い』( 星川淳訳、めるくまーる社) とともに、著作からうかがえ
るグルジェフ思想の大要は日本語に紹介されたと言ってよい。
 グルジェフの思想を考える上で何よりもまず引き合いに出されるのは、弟子の
ウスペンスキーの著書『奇蹟を求めて』(邦訳、平河出版社)である。この本は
グルジェフの名を西洋に高からしめるのに功績大であったが、それは何よりも著
者のウスペンスキーがグルジェフの思想に精通していることに合わせ、ウスペン
スキーの学者としての素養に培われた論理と教養が相まって見事な体系が形成さ
れており、一躍注目を集めたのも当然であった。それに比べると、グルジェフ自
身の手によるこの『ベルゼバブ』は、その長大さと頻出する用語の難解さゆえに
、出版されてからもなかなか省みられることが少なかった書物である。
 トロゴオートエゴクラッティック・プロセス、パートクドルグ義務、ヘプタパ
ラパーシノクなどと言ったら、グルジェフを知らない一般人には何のことやらさ
っぱりわからないだろうが、いずれの言葉もグルジェフの思想を理解するための
重要概念であり、こういった言葉を理解しないで『ベルゼバブ』を味読すること
は不可能である。こういった難解で翻訳不可能な用語が「ベルゼバブ」に多数出
てくるが、これらは何もいたずらに読者を混乱に陥れようとするためではなく、
現代の言葉では人間に真の知識を伝えることはできないとするグルジェフが、書
物を通じて思想を伝える際に、誤解と歪曲を避けるために選んだ妥協的な防衛手
段と言うことができるだろう。
  あとがきで訳者自身、「読者を困惑するためにつくりだされたのではないかと
思われる奇妙な造語」という表現をしているが、この本を読み始めた読者の大部
分はそれと同じような感想を抱くであろう。しかし造語とは言っても、著者が恣
意的に作り出したものばかりであるとは必ずしも言えない。著者自身が育ったコ
ーカサスの環境では、アルメニア語・ロシア語・ギリシャ語が併用されており、
そういった言語を幼児期にマスターした他、数多くの遊牧民族とともに中央アジ
ア各地をわたり歩いた著者はその言語も十数種類マスターしたそうであるから、
こういった難解な用語はそういった言語に由来するのであろう。
 この本の結論だけを知りたい人は、最終章(47章) を読めばそれらしいものに
は出会うことができる。つまり「死を意識することによって人間は本来的な存在
に到ることができる」という、ハイデガーの『存在と時間』に非常によく似た結
論がそこに述べられている。この20世紀を代表する二大著書が、ともに奇しくも
一九二七年頃に書かれていることは意味深長な符合であるが、両者の比較はここ
ではおくとして、ここで指摘したいのは、グルジェフの思想の主眼は最終部分の
結論にはないということである。グルジェフは自分の思想を安易に理解しようと
する者に、二重三重の煙幕を張りめぐらせている。したがって彼の思想の核心は
、一見無駄に見える饒舌や荒唐無稽な話の中に散りばめられていると言ってよい
。
 ウスペンスキーを通じて知られるグルジェフは、神秘的で壮大な秘教的知識を
有しているが、理路整然と語る偉大な教師といった印象を与えるであろう。とこ
ろがグルジェフ自身の手になる本書に立ち入った者は、前人未踏のジャングルに
踏み行ったかのような感想を持つだろう。ウスペンスキーの本は整理され洗練さ
れた庭園であるのに対し、『ベルゼバブ』は藪の繁った森という感じを抱かせる
。しかし藪の中に宝石は確かに隠されている。それを発見し磨き出すかどうかは
、ひとえに読む者の努力と心がけ次第なのである。
 要するに本書はグルジェフの思想に興味を抱く向きには、必読の書であり、『
奇蹟を求めて』とは互いに相補する関係にある。
 今後さらに邦訳が期待される未訳のグルジェフ関係の著作として、グルジェフ
の第三著作『私が存在するときにのみ生はリアルである』、モーリス・ニコール
の五巻本やウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』『第四の道』、全体の
三分の一しか邦訳されていない「超宇宙論」などが数えられる。

                     (「ほん」からの再録)
                                                            小森  健太朗
 

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