読書録/2002年12月

12月15日  トロツキー『スターリン』(全三巻) 佐藤一羊・佐野健治訳 合同出版 1967年

 スターリンの派遣した暗殺者によって斧でトロツキーが頭を叩き割られたと き、彼が校正したのが本書の原稿だった。書きかけの序文は、途中で途切れて いる。元の本は、血まみれの原稿が表紙になったという。
 しかし、世にある伝記の中でも本書はかなり珍しいタイプである。生涯にわ たって闘争を繰り広げた、当の敵対者からの詳細な伝記で、なおかつかなり客 観的で冷静な記述がされている伝記というのは、他に思いつかない。崇拝者の 手になる伝記や後世の伝記は多いけれど、トロツキーはスターリンとずっと 戦った当の相手なので。
 スターリン自身は、当初から熱心な革命家で、レーニンの古くからの友人だっ たとの個人史の捏造を後から行なう。トロツキーはその嘘を一つ一つ暴いてい く。証明されるのは、1917年以前のスターリンが、ボリシェビキに属してはい ても、なんの著作も業績もなく、演説もしたこともない下っぱの一人だったこ と。一巻はスターリンの歩みをたどるというより、彼が主張している自伝の嘘 を次々と暴いていくことに力が向けられている。
 この章の七章、1917年の革命のところまでが著者が校正を終えたところで、以 下のロシア内戦時の記録は、草稿段階のものを編者が適宜補正加筆したものに なっていて、前半より完成度は落ちている。しかし、レーニン死亡をめぐる考 察は良質の推理小説を読むような迫力がある。ミステリでないので、ネタバレ にあたることまで書いてしまうが、トロツキーは、スターリンがレーニンを暗 殺したと推理している。その証拠固めを次々と脇からかためていくし、レーニ ンの夫人のクルスプカヤもまた、スターリンが夫の死に責任があると指弾して いる。レーニンが死の直前に「毒薬をくれ」とのメッセージを残したのが、記 録に残されていて、これは病苦のあまり自殺を望んだためというのが通説であ るが、自分を軟禁状態においているスターリンをレーニンが殺したくなってい たのではなかろうか?レーニンの晩年の食事を用意したのは、スターリンの息 のかかった者で、スターリンは、レーニンとその妻クルスプカヤを会わせない ようにしていた。
 トロツキーは、レーニンの葬儀に参列しなかったのが後で非難されるが、ス ターリンがわざとトロツキーを参列させないように、あやまった日時を伝えて いた。ライバルを追い落とすための陰謀がここでも張りめぐらされていた。 レーニン死亡をめぐる状況で、トロツキーの推理は説得力があり、迫真性があ る。伝記文学としても第一級の面白さをもっていて、これがこの三十年絶版で 入手難なのが惜しまれる。

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12月20日 ツルゲーネフ『貴族の巣』米川正夫訳・角川文庫

 ひさしぶりに読むツルゲーネフ。『ルーヂン』に続く第二長編。控えめで善良 なリーザがヒロイン。彼女をめぐる男性がいろいろ出てくるが、ラヴレーツキ イがその中でも重要な役どころを占める。『ルーヂン』では、優柔不断な主人 公ルーヂンに愛想を尽かす、自己主張を強くするジナイダという女性が出てき たが、リーザはまたジナイダとは違ったヒロイン造型がなされている。封建時代 のロシアの階級社会にあって、リーザは一見おしとやかだが、かと言って男性 の言いなりになるタイプでなく、複雑な心のあやをひめている。人物造型は巧 みだが、ドラマチックな要素があまりなくストーリーがもう一つ盛り上がりが ほしかった気がした。

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12月27日 西澤保彦『ファンタズム』(講談社ノベルス)

   冒頭、女性を殺害する犯人は名前が明示されている。連続して女性を殺す殺人 犯の男の視点と、連続殺人とあたりをつけながらも被害者の共通性をなかなか みいだせずに苦悶する捜査側の両方が描かれる。ミッシングリンクの連続殺人 ものの趣向なのは、『猟死の果て』を想起させる。しかし「作者のことば」で この作品は本格ではないと明言されている。この仕掛けというか真相は一体… …?? 山口雅也の『奇偶』とも重なる、量子力学と確率論の問題設定を、ミス テリに取り入れた作品とでも言うべきか。結末は、わかりやすいとは言えず、賛否両論ありそうな。

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12月30日  三島由紀夫『近代能楽集』(新潮文庫)

古典の能楽に題材をとり、舞台を現代にうつしかえ、三島流にアレンジした作 品集。大学のときに文学通の意見として、三島は長編よりも短篇の方がよく、 中でも戯曲に粋があると聞いたことがある。読んでみて私もその意見、それな りに納得できるものがある。短い枚数に凝縮された生と死のドラマ。「班女」 は、狂気をわずらった女性と、それの世話をやく女性。二人の正気と狂気が反 転する瞬間が実に鮮やか。「弱法師」は、世の終わりを見たという盲目の若者 のセリフが迫力あって美しい。

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