恐怖シーン・ベスト3

                                 

  ときどきホラー小説を読んでも怖くないという意見をよく耳にする。私自身、スティーヴン・キングをはじめとするモダンホラー小説を結構愛読してきたのであるが、そういった小説で怖い思いをしたかというと、さほどでもないという気がする。所詮は紙の上に書かれた絵空事だと突き放してしまっては、どんなにすぐれたホラー小説でも怖がれないのは、自明であるが、作中世界に感情移入して読んでいるのであれば、ホラー小説はどれもこれもたいてい「怖い」ものであるはずである。死にまつわる事柄は、なんであれ、恐怖という感情と結びついているはずだし、なんらかの仕方でホラー小説はかならず死と結びついているものだからである。しかし、それでも、「ホラー小説が怖くない」と言われるのは、要するに「怖がらせてくれることを期待して読んだのに、期待したほど怖がれなかった」ということであろう。これはしかし、多分に読者の読む姿勢というか構えに依存する事柄である。笑わせてくれることを期待してユーモア小説を読むときに笑える効果が減退するのと同様、初めから怖がらせてくれることを期待してしまうと、作中のホラー効果が半減してしまうのは、ある程度やむをえないことである。作品のもたらす笑いや恐怖は、読者の期待していない、意表をついた形で現れるときこそ、その効果を最大に発揮するからである。

  以前、大学の図書館でショーペンハウアー全集を読んでいたときに、不覚にも声を上げて笑い出してしまったことがある。実際、後期の「余録と補遺」のあたりのショーペンハウアーの小論文、特に、白水社のショーペンハウアー全集の14巻に収められているエッセーは、作者も意図しているはずだが、色濃いユーモア風味に彩られていて、いま読み返しても微笑を禁じえない。しかし、普段ギャグ漫画を読んでいても、声を出して笑うほどの過大反応を示すことなどあまりないのに、ショーペンハウアーを読んで思わず激笑してしまったのは、笑いの要素に、それがおよそ含まれそうもない哲学書の中でいきなり不意打ちのように、遭遇したからである。恐怖に関してもこれと同様で、初めから怖がらせることを意図している怪談やホラー小説よりも、不意打ちをつかれた非ホラー小説の中での恐怖シーンの方が私の読書体験の中では、より怖いものとして刻み込まれている。したがって、今まで読んだ中で怖かったベスト3を選んでみると、どれもいわゆるホラー小説の範疇には含まれないものばかりとなったのである。

 一つは、ドストエフスキーの『悪霊』。その中で、シャートフという登場人物が、別れた妻と、和解してよりを戻す場面は、実に感動的に描かれている。シャートフを捨てて家を飛びだした前妻が、実は今でも深くシャートフを愛していたことがわかる場面は、涙なくしては読めないほどの名調子である。しかし、読者は同時に、『悪霊』の革命団の首領ピョートルが、裏切り者としてシャートフ抹殺指令を出したことを知っている。シャートフがこれからどうなるんだろうとはらはらしていると、章がかわって、ピョートルの部下がピョートルに、シャートフを、戻ってきた彼の妻もろとも虐殺したことを淡々と(なんの感情もまじえずに)報告している。その記述がわずか数行でさらりと済まされているあたりに私は慄然とした。(それ以前のシャートフ視点の章が延々と書かれているのに比して)。なんと言っても、世界文学史上の最も怖い場面の一つとして、私はこの作品を第一に挙げたい。

 もう一つは、ルイス・キャロルの『スナーク狩り』。その長編詩の最後の一行──「スナークは結局ブージャムであったのだ」は、この上なく不気味で、不可解なほど恐怖の効果を高めている。この詩はナンセンス詩と呼ばれ、作中の中心語である「スナーク」も「ブージャム」も、キャロルが創作した言葉であり、その意味するところは不明ないし不確定である。『スナーク狩り』は、全体としては、スナークを追い求める物語であり、出てくる登場人物たちはみなスナークを獲ることを目的としている。そして、作中には、通底音のごとく、「もしスナークがブージャムであったなら」というおそれが流れている。最後の最後、いよいよスナークが見つかったときの、破局、死、そして「スナークは結局ブージャムであったのだ」──。これほど恐ろしい効果をあげている物語は、他に類を見ないと思う。

 三つめは、つりたくにこという、あまり知名度のない漫画家が描いた「ジャム」という短編漫画。青林堂の『六の宮姫子の悲劇』に所収なので、是非一読願いたい。コメントは避けるが、この漫画のラストは、私にとって、それまで読んだどんなホラー小説よりも怖い劇的な幕切れが待っていた。

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