書評 コリン・ウィルソン『わが青春 わが読書』
(学習研究社刊、柴田元幸監訳、1997年12月初版、2500円)

 およそ10年ほど前に刊行された、コリン・ウィルソンのSF大作”SPI
DER WORLD”(全3巻)の日本語版がいつまで待っても出ないので、
とうとうしびれを切らして、洋書店に原書を注文にいったら、あにはからんや
、既に品切れ・絶版だということである。調べてみると、他のコリン・ウィル
ソンの著作群も、原書では品切れで手に入らないものが非常に多くなっている
。現時点で新刊で買えるウィルソンの本は、英語のものより、日本語のものの
方がはるかに多い。コリン・ウィルソンほどの著作家の作品が、かくも英語圏
で冷遇されているのは一体どうしたことだろうか。逆に言えば、コリン・ウィ
ルソンの著作は、世界のどこよりも日本で歓迎されているということなのだろ
うか(とにかく、どこの出版社でもいいから、早く”SPIDER WORL
D”の邦訳を刊行してほしいものだ−−閑話休題)
 こんなことを考えたのも、この『わが青春 わが読書』が、『「死体の庭」
あるいは「恐怖の館」殺人事件』(ぶんか社)以来の、日本向け書き下ろし作
品だからである。日本向けに書き下ろしをしてしまうほど、ウィルソンは臂肉
の嘆をかこっているのだろうか?だとすれば大変に嘆かわしいことである。
 コリン・ウィルソンは、莫大な読書量に基づく該博な知識を誇る思想家・著
作家として、当代の第一人者であるが、この本の序章の「何冊あれば本は多す
ぎるか?」の記述によれば、自宅に二万冊から三万冊にのぼる書物を所蔵して
おり、しかもその蔵書の大半を読破しているというから凄い。レコードも本と
同じくらいあり、一日十時間聞いたとしても、所蔵しているレコードを全部聞
き終えるのに十年かかるという。
 これだけの読書歴をもつウィルソンであるから、安原編集者の求めに応じて
、わが愛読書をリストアップしようとしても、多すぎて、あれもこれも入れた
いという気持ちを強く抑えなければならなかったのもむべなるかな、である。
そうして厳選された愛読書群を論述する本書は、全体が26章から成り、大体
は原則的に一章に一人の作家があてられている。その厳選をかいくぐって選定
された作家の顔ぶれを眺めるだけでも非常に楽しい。ドストエフスキー、ニーチ
ェ、ショー、サルトル、ヘミングウェイ、W・ジェイムズといった小説家・哲
学者たちは、『アウトサイダー』(集英社文庫)以来の、ウィルソンがもっと
も重視する人々だ。言及の頻度も高く、いわばウィルソン・ワールドの「定番
」作家だし、彼が賞賛しなければ埋もれたままわが国に翻訳されることもなか
っただろうと思われる、『アルクトゥルスへの旅』(サンリオSF文庫)のデ
ィヴィッド・リンゼイが本書で一章を使って取り上げられているのも頷ける。
しかし、ウィルソンが非常に重視しているはずなのに、なぜかこの本で一章を
割り当てられなかった作家や思想家もたくさん思いつく。筆頭は、「絶頂体験
」で有名なアメリカの心理学者、エイブラハム・マズロー。しかし、マズロー
については別に一書を割いて、『至高体験』(河出書房新社)で詳述している
からという理由で、省いたのかもしれない。そう考えれば、他の、ウィルソン
が一書を用いて詳述している著作家・思想家たち−−グルジェフ、ウスペンス
キー、ルドルフ・シュタイナー、アレイスター・クロウリー、ユング、ヴィル
ヘルム・ライヒ等−−がこの本で取り上げられていない理由もわかる(ショー
は例外だが)。また、ハイデガーやカミュ、オルダス・ハックスレー、グレア
ム・グリーン、D・H・ロレンス、サミュエル・ベケット等に一章が当てられ
ていないのは、特に不思議はない。ウィルソンが彼らに言及する頻度は多いが
、それは大抵何かとの比較においてであり、しかもほとんどが否定的な文脈で
の言及だからである。
 しかしそれ以外にも、なぜこの作家・思想家を取り上げないのだろうという
のも数多くある。「ウィルソンをめぐる真実」やジェフリー・ファーノルとい
った、普遍的とは言えない作家に本書で一章が割かれているのは、子ども時代
の個人的な思い出や感興と密接に結びついているからだろうし、マーク・トウ
ェインやコナン・ドイルは、読書するイギリスの少年少女なら必ず出会う作家
に違いない。アナトール・フランスは大家だから、一章を割かれても不思議は
ないように思えるが、ウィルソンのこれまでの著作で言及された頻度は多くな
いので、この本で読むまでは、かくもウィルソンがフランスを重視していたと
は知らず、ちょっとした驚きだった。フランスはともかく、ユイスマンス、ア
ルツイバーシェフ、エルンスト・カッシーラーといった人たちに一章を割いて
おきながら、なぜ、作家ではヘッセとトルストイを、思想家ではホワイトヘッ
ドとフッサールを取り上げなかったのかは不可解だ。さらに言えば、チェスタ
トンとH・G・ウェルズを加えてもよいだろう。特にトルストイは、本作中で
も、ドストエフスキーと並ぶ世界最大の小説家と形容されているにもかかわら
ず、である。
 ドストエフスキーに関しては、近年ウィルソンの中で、その評価が下落して
いるらしいことが窺える。処女作『アウトサイダー』では唯一人二章を割いて
精密に考察を行ない、『フランケンシュタインの城』(平河出版社)でも、『
カラマーゾフの兄弟』を最も偉大な小説であると激賞しているにもかかわらず
、である。どうやらウィルソンは、ドストエフスキーの小説の偉大さを賞賛し
つつも、その「マゾヒズムや、自己憐憫や、ヒステリアに耐えられない」らし
い(293 頁) 。
 本書をたとえば、やはり厖大な読書家であり神秘家であるラジニーシの『私
が愛した本』(OEJ)と比べてみるのも一興である。ラジニーシとウィルソ
ンは、共に愛読書の筆頭にニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を挙げ
、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を世界で最も偉大な小説と激賞
している点で共通している。他にウィルソンとラジニーシの挙げた愛読書リス
トで共通している作家はショーとサルトルの二人しかいないが、ラジニーシが
挙げた愛読書の中にはウィルソン自身の『アウトサイダー』が含まれているの
は興味深い。もっともそこでラジニーシが下した評価は、ウィルソンは大変な
器量をもつ学者であり『アウトサイダー』は今世紀の最も影響力のある書物で
あるから一読の価値はあるけれどもそれ以上のものではない、という些かネガ
ティブなものであった。
 ところで長年ウィルソンの本を読んできて抱いてきた些細な疑問が、本書を
読むことで氷解した。それは、ウィルソンがよく取り上げる、銃殺刑の直前で
命を救われたドストエフスキーのエピソードに関してである。これは夙に有名
なエピソードであり、ウィルソンはこれまで何度もドストエフスキーの伝記や
彼自身の書簡を介してよくこの話を引用してきたが、このときの体験はドスト
エフスキー自身の筆によって、『白痴』の中で描出されている。伝記的な事実
から鑑みると、『白痴』中のその挿話は、小説的な脚色ではなく、ほとんど事
実そのままに、ドストエフスキー自身の体験が述べられていると考えて間違い
ない。これはウィルソンにとって、最重要といってもよいくらいの挿話のはず
なのに、なぜかこれまでウィルソンは『白痴』中のその挿話には触れず、ドス
トエフスキーの伝記的な記述ばかりから引用してきた。ドストエフスキーの小
説を愛読しているはずなのに、なぜ『白痴』中の最も迫力あるこの挿話にウィ
ルソンは言及しないのか−−その長年の謎が、本書を読むことによって氷解し
た。『白痴』はあまり面白くなかったので中盤で読むのをやめたまま今日に至
るまで読破していないとウィルソンは告白しているのだ(287頁) 。この事実は
読書人にはちょっとした苦い笑いをもたらすだろう。しかし、ウィルソンの知
人には、ドストエフスキーの読者はいなかったのだろうか。そんなはずはないと
思うが、ウィルソンに、前半は退屈でも、後半に素晴らしいクライマックスの
ある『白痴』のことを進言してあげるほど親切な友人はいなかったのだろうか
。あの作中の最も示唆に富む迫真の挿話が、ウィルソンに活用されることなく
眠っているのも非常に惜しい話だと思う。
                          小森健太朗

 上の書評は、東大生協書籍部発行の「ほん」97年12月号に掲載されたも
のですが、掲載分は、枚数の関係で、500字ほど削られています。ここに載
せたのが、削除前のオリジナル版です。

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