日々雑感
(順次消してゆきます)(更新は不定期です)
2000年8月8日 今世紀のベスト10とウスペンスキー『ターシャム・オルガヌム』
2000年3月29日 デュマ『モンテ・クリスト伯』の全貌
デュマの話です。
2000年 1月2日 あの有名な密室トリックの原典
(注意! 各務三郎編『ホームズ贋作展覧会』中の短篇の真相にふれています。未読作品のネタバラシを回避するために、同書と『大密室』(新潮社)を事前にお読みになることをお勧めします)
5月29日 親指ひゅんは使える!
今月は長らく自宅をあけておりました。その間、原稿執筆用には携帯用のオアシスワープロを持っていったからまあよいのですが、すっかりネットづいている身としては、インターネットが長い間見られないのは困るので、それが出来るノートパソコンを入手しようと思いました。しかし、ノートの親指機種はなかなかに入手困難であります。二階堂黎人さんがもっているような、ハイグレードな親指ノートが欲しいところだが、見積もりで30万円は越えるので予算的には見送り。やむを得ず中古で三万円のJISキーボードのFMVノートを買いました。
むかしワープロ入力のアルバイトをしていて、かなりローマ字入力をしていた時期もあるので、当面ローマ字でいいやと思ってはいたものの、そのノートでメールの返事などをローマ字で書いていると、数日もしないうちにストレスがたまりだします。
ローマ字入力! こんなかったるいことやってられっかああ。なんで一文字うつのに二打鍵も要るんだぁぁ!
それで、今まで試したことのなかった、ソフト的に親指シフト化する方法に乗り出すことにしました。元々はあまり期待していなかったのです。所詮は疑似親指シフト化ソフト。空白キーの位置も、真ん中に大きめで、親指シフトの左右に割り当てるには、微妙に横にはみだしている。説明書を読むと、ペンティアム133MHz程度以上なら使えるとあったけれども、私の中古は486の50MHzのもの。同時打鍵判定もちゃんと動かなそうな気がしていたのですが、いざいれてみると−−
相当快適なのにびっくり。
ニフティのFKBOARDのデータライブラリからダウンロードし、解凍したファイルをすべて、新規の親指ひゅん用フォルダーにいれます。そこからoyaoyaqというプログラムファイルを実行するだけで起動します。ヘルプを見て、使っているIMEに合わせて、プロパティのチェックボックスをあわせてやります。ノートではMS-IME95を使用していたので、特に特別な設定は要りませんでした。最初に親指ひゅんを起動したときには、NICOLA配列にならず、JISかなの文字が出て「あれ!?」と思ったのですが、コントロールパネルのキーボードのところにあるIMEの設定で、初期状態をローマ字入力からかな入力に変更すればうまく親指シフト配列でうてるようになりました。多少キーの位置が純正親指シフトキーボードからズレるので、キーの左右の分かれ目のところにマジックで印をつけると、後はすらすらと文字が打てました。これにはびっくり。Windows用のOASYSのキーボードドライバーは同時打鍵の判定に難があるのに(後述)比べて、同時打鍵の判定タイミングは実によくできていて、年季の入った親指シフト使用者を充分満足させるものです。
その難点というのは、濁音、半濁音入力において、しばしば二文字入力状態になるということです。たとえば「が」と打ちたいのに「か゛」と、「ぱ」とうちたいのに「は゜」ないし「ら゜」となってしまうのです。これは特に、日本語入力を始めた直後によく起きるし、速い打鍵になると、追従できないのか、しばしばそういう現象が起きるのです。オアシスワープロでは私は分速150文字以上の快速ぺースで打っているのですが、Windowsになると、その速度で打つと濁音半濁音判定がうまくいかないので、いきおい一秒で一文字〜二文字程度のスローペースにならざるをえませんでした。この難点は、CPUが高速なマシンでは解消されていて、ペンティアム133MHzのノートパソコンでOASYS4.1は、支障なく打鍵できるのですが、486以下のマシンでは、この問題が出まくりです。3.0⇒4.0⇒4.1とバージョンアップするにつれて、この難点の発生率がどんどん増してくるので、4.1をうちのTOWNSで使用することはあきらめ、4.0にダウングレードして我慢して使ってました。
ところが!
純正の親指シフト機であるうちのTOWNSのWindows95にも、この親指ひゅんをいれてみたら−−この難点が完全とはいかなくても、かなり解消されました。しかし、DOS/V機と同じ設定にして試用してみたら、今度は「ば」とうつところが「゙み」、「ぱ」とうつところが「゚ら」と出たりして、うまく動作しません。TOWNS(親指シフト)では「NICOLA配列にする」をチェックしないで、使用すると、なぜだか打鍵判定の精度があがります。これは、よく判らないけれども、親指ひゅんのファイルの中のdllファイルが影響を与えているのでしょうか。
というわけで、親指シフトがパソコンで使えないとお嘆きのあなた。親指ひゅんはそういう方に、おすすめです。
4月29日 悪訳! バック『イリュージョン』(集英社文庫)
リチャード・バックの『イリュージョン』は、『かもめのジョナサン』と並んで、バックの代表作というべき作品で、私も大好きな作品です。原書で最初に読んで大いに感動したのですが、これの日本語訳として集英社文庫から刊行されている村上龍の翻訳は、あきれ返るくらいひどい誤訳・悪訳の連続です。全体のうちの一頁として、正しく訳せているという頁すら見いだせません。素晴らしい原著が悪訳のせいですっかり台無しになっています。バックのファンとしては、一日も早く、この作品がちゃんとした翻訳で刊行され直すことを願うばかりです。
以下、いくつかの箇所を、原書と、訳書で対比して例示してみましょう。英語が読める人なら、訳文がいかにひどいものかわかってもらえると思います。
底本としたのは原書が、1977年DELL
PUBLISHING CO. のペーパーバック版。集英社文庫(
昭和56年3 月初版) は昭和62年7
月の第七刷。改行箇所は適宜省略しましたが、引用内容は原文通りです。
章の切れ目にある、作中作の「メシアのためのハンドブック」の文章を中心に適宜選んでみましたが、あえてこの訳書の中の、特にひどい訳文の箇所を選んだわけではなく、ほぼ全編がこの調子で訳されています。
I did remember that,had read it on a small-town Ohio
newspaper rack,because it was on the front page.
"Donald Shimoda?"
"At your service,"he said."Now you know,so you don't
have to puzzle me out anymore.Go back to sleep."
I thought about that for a long time before I slept.
( 原書45〜45p,第三章より)
その記事なら知っている。オハイオ州の小さな町のスタンドで売っていた新聞の第一面に載っていた。
「そうか、君がドナルド・シモダか、君は救世主か、わかったよ」
僕は何がわかったのか自分でも曖昧なまま再び横になって眠った。意識が完全に目覚めていたら、驚いたり、問い返したりしたのかも知れないが、まだ夢の続きのような気がしていて、ドンが優しい声で、「わかったらまた眠りなよ」というのとほぼ同時に眠ってしまった。( 集英社文庫、50頁)
(赤字の部分は、村上訳のオリジナル/原文に対応していない)
Live never to be ashamed if anything you do or say is
published around the world -even if what is published is not
true.
( 原書60p)
(村上訳) 君の行為や表現が世に公表されたとしても決して恥じてはならない。例え公表されたものが真実でないとしても決して恥じてはならない。(
同68頁)
(小森訳) 君の行為や君の言葉が、世界中に公開されたとしても、まったく恥じることがないように生きなさい。たとえその公開されたものが真実ではないにしても。
You are led through your lifetime by the inner learning
creature,the playful spiritual being that is your real self.
( 原書63頁)
(村上訳) 君の中は何種類もの生き物によって構成されている。君がある方向へ一歩を踏み出すのは、その中の学習欲旺盛な一匹によるものである。好奇心、それが君自身だ。(
同70頁)
(小森訳)君の人生を導くのは、内側の学びつつある生き物、遊び心に満ちたスピリチュアルな存在──すなわち君の本当の自己だ。
There is no such thing as a problem without a gift for you in its
hands.
You seek problems because you need their gifts.
( 原書71p)
(村上訳)いかなる種類や程度のものであっても、困難は君達に何かを与える。
君達は、言うなれば、困難さを捜しているのである。
困難さが与えてくれるものには、価値があることを知っているからである。(
同79〜80頁)
(小森訳) 君になにも贈り授けない困難などはない。君が困難を求めるのは、その贈り物を必要としているからだ。
The bond that links your true family is not one of blood,but of
respect and joy in each other's life.
Rarely do members of one family grow up under the same roof.
( 原書84p)
(村上訳) 家族の絆は血ではない。一個の家族が一つ屋根の下で成長し合うことはほとんどない。(
同92頁)
(小森訳) 本当の家族の絆は、血縁ではなく、互いに尊敬し喜びを分かち合うことにある。真の家族の絆で結ばれた者同士が、一つ屋根の下でともに暮らして成長することはめったにない。
You are never given a wish without also being given the power to
make it true.
You may have to work for it,however.
( 原書120p)
(村上訳) ある願望が君の中に生まれる。その時、君はそれを実現させるパワーが同時に在ることに気付かねばならぬ。
しかし、そのパワーの芽は、きっとまだ柔らかい。
( 同131 頁)
(小森訳) あなたの力で実現できない願望があなたに授けられることは、ない。その実現のためには、自ら努力しなければならないが。
The original sin is to limit the Is.Don't.
( 原書128p)
(村上訳) 君は自分の中に預言者が住んでいるのを知っている。預言者を閉じ込めてはいけない。それは絶対に避けるべきである。
(小森訳) 原罪は、自らの存在を制限することだ。原罪から脱しなさい。
( 同137 頁)
In order to live free and happily,you must sacrifice boredom.
It is not always an easy sacrifice.
( 原書172 頁)
(村上訳) 自由に生きるためには退屈と戦う必要がある。退屈を殺し灰にしてしまうか、退屈に殺されて家具になるか、激しく根気のいる戦いである。(
同182 頁)
(小森訳) 自由に、幸福に生きるためには、退屈するのを断念しなければならない。これは必ずしも、容易にできる断念ではない。
4月8日 麦ですれちがった人たち
東大に在学してたときに、いきつけにしていた喫茶店が、本郷三丁目の駅前にある「名曲喫茶・麦」である。修士論文とか「コミケ殺人事件」のかなりの部分を、この喫茶店の中で書いた。ここは、なぜだか、出版業界人や文筆家ともときどき遭遇できる喫茶店である。
小説家や漫画家と編集者がよく打ち合わせている場所として有名なのは、新宿の談話室・滝沢。神田の神保町付近に、その手の喫茶店は多い。池袋だと、芳林堂の上の喫茶店も割に業界人の打ち合わせがよくあるようだ。
もう二〜三年以上前のことになるが、この麦で、隣りの席にいた中年の男性二人。一方が他方に平謝りをしている。横で話を聞いていると、事情がおよそ飲み込めた。謝っているのは、某新聞社のワンテーママガジンの編集者らしい。相手は、東大医学部の助教授?のようだ。「ストレスとスポーツ」とかいうテーマで出した本、無断でその助教授の実験データが、本誌に使われていたらしい。「全誌回収しろ」「裁判にうったえたら、おたくは莫大な賠償を払うことになる」と、助教授はずいぶんタカビー。編者はひたすら腰が低く「なんとかお許しを」。
一時間以上におよぶ長いその話のおとしどころはというと−−。某社の方で、その助教授に原稿依頼をして原稿をかいてもらうかわりに、データの無断引用は不問に付すという、なかなか政治的決着であったようだ。
先週、この麦にいったときも、なにやら著者と編者の打ち合わせに遭遇した。編者はベネッセの人のようだ。相手は、若い東大の院生のようだ。前の福武書店の名のころから、教育雑誌の老舗の会社だから、この打ち合わせもどうやら、教育雑誌に掲載される原稿のことらしい。 「それで、この原稿料はいくらになるんですか?」と院生がききにくそうにきく。「400字一枚で二千円です」と編者のおこたえ。「あ、それなら、割に条件いいです」。もし私なら、その稿料はあまり条件よくないと考えるところだが、青土社の某誌は一枚千円とも聞くしなあ。教育雑誌の内情が少しわかる。
他にも、料理本の著者らしい中年の女性と、編集者の打ち合わせとか、バンプレストの社員らしい人の「スパロボ大戦」の話題とか、スポーツ新聞かなにかの記者の一団らしき人たちの巨人軍追跡の話題とかに遭遇したことがある。
東大の文学部生か法学部生なのだろうか、あやしげな長篇小説書いてたのがいたなあ。知り合いに荒筋をとくとくと説明しているのを聞いた。題が「祝福」。司法試験を目指している若者が主人公。付き合っている恋人がいる。その恋人の危機を救うために、二次試験まで合格していたのに、三次試験をすっぽかしてしまう。そのせいで不合格になった司法試験をあきらめて、故郷に帰ると、結末で、「それは祝福なんだよ」と田舎のひとにさとされて主人公がはっとして終わるという。純文学の人はこれだから(笑)