読書録/2000年12月

12月2日 加納朋子『螺旋階段のアリス』(文藝春秋社)

 ルイス・キャロルのアリス物語をモチーフにしたミステリは、欧米でも日本でもかなりの作例がある(私の『ローウェル城の密室』と『ネヌウェンラーの密室』も、アリス・ミステリだ)。最近の国内作家が、アリス・ミステリに挑戦する例はかなり増えているようだ。本書もその一つだが、数あるアリス・ミステリの中でも上位の出来ばえだと思う。
 中年の男性の私立探偵と、助手の女の子という人物配置は、北村薫『冬のオペラ』に似ているが、作品世界は、北村薫の亜流ではなく、独自のものである。安梨沙という少女が実に魅力的で、キャラクター描写はうまいと感心した。些細な点だが、冒頭で、私立探偵を開業するのに日本ではライセンスなんて必要ない、と探偵役がこたえているけれど、日本にも探偵のライセンスはあったと思う……。
 推理ものの観点からみると、どう評価されるだろう。
本書は、チェスタトンのブラウン神父ものを初めとする直観型探偵譚の系譜に属する作品である。こういう系列の作品の場合、特に枚数の短い作品では、真相と、真相を導き出すにいたった手がかりや伏線との間に、ある程度、飛躍があるのはやむをえないが、どの程度、探偵の推理で、読者に飛躍を感じさせないかが一つの勝負どころだと思う。本書を読んでいて、ところどころ飛躍というか推理の隙間を感じたりはしたものの、全体的にはうまくやっている方だと思う。
 七つの短篇の中で、ベストを選ぶなら、「子供部屋のアリス」。明かされる意外な真相には、秀逸なホワイダニットの趣向がある。
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12月5日  G.E.ムーア『倫理学原理』深谷昭三訳・三和書房

 哲学史に名を刻む名著はすべて「アンチ・哲学」の書であるという言葉をどこかで聞いたことがある。たしかにニーチェの諸作も、サルトルも、「アンチ・哲学」の著作を書いている。それと共通して、この、倫理学史上名高きムーアの『倫理学原理』(原著刊行は1903年)は、アンチ・倫理学の一書である。
 最初の方で、倫理学の課題を簡潔にまとめている。要するに「善とはなにか」ということと「人間は何をなすべきか」、この二つの問いにこたえようとするのが倫理学であると。前者の問いに関しては、開巻早々に「善は定義不可能である」というもっともな結論にいたっている。その上で、「善とはかくかくである」と述べている、主だった倫理学の学説を、各個撃破していく議論が始まる。
・善は、自然的に直覚される(自然主義的立場)
・善は、快である(快楽主義)
 そこから派生する説として、ミルの、幸福を善とする功利主義や、シジウィック教授の直覚・快楽主義や、利己主義学説を論破していく。
・善の形而上学
イデア的に善を考える学説を論破する。
 その上で、行為論にうつり、限定的にしか「何をなすべきか」という問いには答えられないとする。最後は「理想(観念)」論。
 数百頁を費やす大著でありながら、そのほとんどが、否定的言辞に費やされ、考えられるあらゆる倫理学主張を、論破していく書物。といって、肯定的に持ち出す説はほとんどなきに等しいところが、奇妙なまでに虚しくも心躍る一書。名著だとは思うが、それでも、ニーチェの戦慄的な傑作『道徳の系譜』に比べると、格段に落ちると思う。『道徳の系譜』の善悪論では、ドイツ語にあるGUT(善い)の二つの対立語、BOESE(悪い)とSCHLECHT(劣った)の対立を検討し、GUT-BOESEのBOESEが、GUT-SCHLECHTのGUTと同根概念であるという、恐るべき、驚天動地の結論にたどりついている。『道徳の系譜』を初めて読み終えたときは、全身に冷水を浴びせられたかのようなショックを感じたものである。しかし、ニーチェほど鋭利な知性は、哲学史においてさえ、他に類はないので、ニーチェと同種の感動を与えられる本は、世界のどこを探しても見当たらないのであった。

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12月5日 エドウィン・A・アボット著『多次元★平面国 ペチャンコ世界の住人たち』
石崎阿砂子・江頭満壽子訳 東京書籍

 野崎六助氏の『複雑系ミステリを読む』という評論集で、拙著『ローウェル城の密室』を一章を割いて取り上げてもらった。あの小説は、二次元世界に入り込むというのが発端なのだが、野崎氏が、二次元世界に入り込む小説として、アボットの小説に先例があるという指摘があり、初めてその名を知った。
ABBOT(1838-1926)による、"A ROMANCE OF MANY DIMENSIONS"(1884)の邦訳。邦訳書の刊行年は、1992年で、現在は絶版になっているので、今日図書館で借りてきて一読。
 二次元世界の住人の描写を、数学的に基礎づけようとするところは、それなりに面白いが、あまり興味は湧かなかった。しかし、最後の方に、二つほど興味がひかれる趣向があった。
 一つは、三次元の知覚をできる主人公が、二次元世界で、一部の崇拝者から教祖と崇められる一方で、政府から、人心を惑わすえせ教祖として告発されて投獄されるあたり。キリストの受難物語と同じ経緯をたどるところが、宗教と連動していて、深く考えさせられるところがある。
 もう一つは、二次元に三次元を説く困難に直面した主人公が、より高次元の知覚ができる存在から、「アナロジーによって、四次元も五次元も、もっと高い次元もわかるはず」とさとされるが、その言葉が理解できないあたり。ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』と共通性を感じさせるなあと思っていたら、それはもっともな理由があり、ウスペンスキーが高次元の議論において大きく依拠したイギリスの数学者ヒントンが、このアボットの本を愛読していたと、ヒントンの本に書かれている。アボット⇒ヒントン⇒ウスペンスキーは、次元論として、直系の流れにあるわけです。
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12月5日 『ヒンドゥー教の聖典 二篇 ギータ・ゴヴィンダ/デーヴィ・マーハートミャ』
小倉泰 横地優子・訳 平凡社東洋文庫

 今年の初めに、英訳版の"GITA GOVINDA"を読んだばかりなのに、まさかその日本語訳がこの九月に刊行されようとは、思ってもみなかった。なかなか日本語で読めないインド文学が邦訳刊行されたのは、嬉しい驚き。「ギータ・ゴヴィンダ」は、私が読んだ英訳版は、この邦訳の解説と本文と対比参照してみると、かなり自由訳で、原意をかなり歪めていたようだ。英訳では不明なところが多かった、インドの神話や固有名詞も、本書では丁寧に訳注がついていて、大幅に理解しやすくなっていて、実にありがたい。
 この「ギータ・ゴヴィンダ」は、宗教詩として崇められているものなのに、内容は実にエロチック。赤裸々な愛の歌で、性行為があからさまに描かれ、讃えられている。「聖書」だと、そんな箇所は、ソロモンの「雅歌」しかないが、インドの経典は、そういうものは他にもたくさんあるようだ。
  しかし、ラーダ女神に求愛するハリ(クリシュナ)は、SMのMな方じゃないかと思える。以下、ちょっと引用。ラーダへの呼びかけの言葉である。
「声の静かなひと。……気高い美しい若芽のような足をぼくの頭に載せておくれ。それはぼくの頭を飾り、愛神の毒をも溶かしてくれる。……愛くるしいひと。無慈悲な歯でぼくを噛んでおくれ。蔦草のような腕でぼくを縛っておくれ。豊かな胸でぼくを押し潰しておくれ。残酷なひと……」(60-61頁)
 こんな調子で延々と、クリシュナ神は、ラーダからいたぶられることを求め続けています。それにこたえて、やってきたラーダは、女王様よろしく、クリシュナをさんざんかわいがってやり、クリシュナが歓喜する、というのが、後半の内容になります(笑)

「デーヴィ・マーハートミャ」は、神々の闘いを歌った、インドの古詩。こちらは、特に感興をおぼえなかった。

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12月6日 ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆志訳・大修館書店(ウィトゲンシュタイン全集第八巻)

 大学時代にウィトゲンシュタイン論を論文として一本書きかけたことがあり、その時分に、この大修館書店のウィトゲンシュタイン全集を揃えて適当に拾い読みしたり流し読みしたりしていたのだが、なかなかウィトゲシュタインを読み解くのは難しく、論文書きも暗礁に乗り上げたものだった。
 今回、初めてこの後期の主著と目される書物を通読したが、これは著者の死後、弟子が手稿をまとめて公刊した、覚書集であり、まとまった論文ではない。ウィトゲンシュタインが、生前に公刊した書物は、哲学の業績としてはほぼ『論理哲学論考』の一冊のみということになる。その『論考』で、「哲学史上のあらゆる問題を片づけた」と豪語したウィトゲンシュタインは、その言葉とおり、哲学の世界から引退して、故郷でつつましく教師を営んでいたのであるが、英国哲学の大家にして、ウィトゲンシュタインの書物を公刊させるよう尽力した、師・バートランド・ラッセルの強い勧めを受けて、十数年のブランクの後に、イギリスの哲学講座の教師に赴任する。その時期以降が、思想的には後期に分類され、「後期ウィトゲンシュタイン問題」というのが、現在の哲学界でも、主要な議題として議論の対象にもなっている。その「後期ウィトゲンシュタイン問題」が凝縮されて描かれているのが、本書『哲学探究』である。
 その出発点は、前期の到達点である『論理哲学論考』に疑義を呈するところから出発する。特に同書2.1からのあたりの、「映像は事実であり」「映像はこのようにして実在と結びつく」と断定されているあたりは、後期の思想からすると、否定される命題になりそうである。『哲学探究』を読んでいると、吉田戦車の『伝染るんです』がしょっちゅう想起された。あの漫画には、ビッグコミックスピリッツを中村と名付ける男が出てくるが、『哲学探究』の中で、「私的言語はどこまで有効か」を延々と考察しているときの例として考えられているのが、まさにそうした事例である。あるいは、プールに「プール」と張り紙をする傷男の例とか。
 以下、印象的な言葉の抜き書き。

「哲学的な諸問題は、言語が仕事を休んでいるときに発生する」(46頁)
「道しるべは──ふつうの状況のもとでその目的を果すときに──正常なのである」(87頁)
「理想というものは、われわれの考えでは、揺ぎなく固定している。きみはそれから抜け出ることができず、常にそれへ立ち戻っていなければならぬ。外側などないのだ。外側には生のいぶきが欠除している。──こうした考えはどこから来たのか。この理念は、いわばメガネのようにわれわれの鼻の上に居すわっていて、われわれの見つめるものは、みなそれを通して見えるのである。われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない」(96頁)
「われわれはなめらかな氷の上に迷いこんでいて、そこでは摩擦がなく、したがって諸条件があるいみでは理想的なのだけれども、しかし、われわれはまさにそのために先へ進むことができない。われわれは先へ進みたいのだ。だから摩擦が必要なのだ。ザラザラした大地へ戻れ!」(98頁)
「われわれが『言語』と呼んでいるものには規則性が足りない」(165頁)
「哲学者は、病気をとりあつかうように、問いをとりあつかう」(182頁)
「表象は映像ではないが、それに対応しうる」(202頁)
「哲学におけるあなたの目的は何か。──ハエにハエとり壺からの出口を示してやること」(205頁)……有名な一節。
「『なぜ』という問いをさしひかえるとき、われわれはしばしば始めて[ママ]重要な諸事実に気がつく。そのとき、それらはわれわれの探究の中で一つの解答に通じるのである」(268頁)
「よい根拠とは、そのように見える根拠のことである」(271頁)
「ひとは自己の感官を信用しないことはできるが、自己の信念を信用しないことはできない」(377頁)
「わたくしは、他人の考えていることを知ることはできるが、自分の考えていることを知ることはできない」(443頁)
 430頁、「こい」という言葉を「濃い」と「来い」に解すると訳されているところは原語が何か気になって、(そう言えば哲学科にいたときに原書を本郷通りの古本屋で買ったことがあったのを思い出し)書棚から探してみてみると「Weiche」であった。「離れろ」と「柔らかい」のダブルミーニングに原語ではなっている。

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12月7日 辻真先『デッド・ディテクティヴ』(講談社ノベルス)

 ベッド・ディテクティヴならぬデッド・ディテクティヴというのが、辻真先の新作。 最近カルト集団を主舞台にしたミステリが多いが、本書も、「ダイゴ」という新興教団の教祖と信者が主要登場人物。

 教祖の多聞は、詐欺師の俗物だが、教団の巫女的存在のレンゲは、本当の霊能力の持ち主だった。教団の幹部ら住人を乗せた船が嵐に巻き込まれて転覆するが、転覆に先立って、毒が飲物に混入されたとおぼしき事件が起き、教祖の多聞のものと思われる首なし死体が発見される。レンゲを除いて全員が死亡し、閻魔大王の前で裁判を受ける。誰も嘘をつくことは不可能なのに、殺人を犯した者が船に乗っていた者の中にはいないと思われる。はたして真相は?
 嘘をつけないという設定を、映画の一人称カメラという設定と結びつけているのは、なかなかの着想だと思った。本人の主観から見た映像はきっちりたどれるという設定だということがわかるので、その映像は虚偽ではありえないことが前提となり、そこからわかることの限界と盲点について、推理をめぐらせることができるからである。

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12月9日 西澤保彦『転・送・密・室』(講談社ノベルス)

 う、うまい……。西澤作品は、毎作書かさず読書感想を必ず書いている割に、手放しの絶賛はしてなかったような気もしますが、本書にいたって絶賛モード。今年のベスト投票は、10月末で締め切られてしまいましたが、今年読んだ短編集の中では、本作がベストかな。西澤作品を読むときは、いつも解決の前で一旦休んで、データから真相を推理しようと努めていまして、時々あたりますが、真相はわからない方が多いです。でも、推理に飛躍があると思えるときもあるので、必ずしもやられたと思わない場合が多かったのですが、本書に関しては、どの作品もそういう不満を感じませんでした。
 各短篇が、なんとパズラーとしてよくできていること。ほぼ全作、きっちり真相を推理できる手がかりがありながら、なかなか気づけない。シリーズキャラクターが、この中で一挙に増えますが、「うる星やつら」みたいに続いていくのでしょうか。短篇でシリーズキャラクターが多いと、各キャラの描写に枚数とられて、手綱さばきが難しくなる懸念もありますが、本集に関しては、そういうアンバランスさは感じられず。最後の「神麻嗣子的日常」を読んで、神麻嗣子シリーズへの見方が、根本から覆されたので、あわてて「念力密室!」を書棚から持ってきて、巻頭と巻末の短篇を再読しました。しかし、全体の世界観というか構図は、いま一つよくわからないな……。
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12月9日 OSHO"SHOWERING WITHOUT CLOUDS" REBEL,1998

 セージョ・バイ(SAHAJO BAI or SEHJO BAI)は、18世紀のインドの女性神秘家・詩人。所持している本でセージョに触れている本が他に二冊あるが、そのうちの一冊は次のように書かれている。発音は、サハジョやサージョでなく、セージョが正しい。

Sahjo Bai lived in the eighteenth century and was a disciple of Charandas.
She lived a married life in Rajputana.("SARMAD" by I.A.EZEKIEL,SONDHI,1966,p.140)

ところが本書のセージョに関する説明では──

Sahajo was a sannyasin,a nun,a celibate.She had no experience of family life,a family did not appeal to her. (p.45)

 とあり、家庭生活を営んでいたか、結婚していたか、両者の記述は真っ向から対立し、どちらが正しいか私はわからない。もう一つ、ダルシャン・シンの本にセージョに関する説明が一頁あるので、引用してみよう。↓

THE NAMES OF Mira Bai, Sahjo Bai, and Daya Bai
are famous in the spiritual annals of India. They are
remembered as the three great women saints of
India. In the case of Mira Bai, who lived in the sixteenth
century, the more significant facts of her life are known. But
we know next to nothing of the lives of Sahjo Bai and Daya
Bai who lived much later. What we do know we learn from
their own compositions. For example, Sahjo Bai, in one of
her devotional poems, records that she belonged to a Dhusr
family from Rajasthan and that Hari Parshad was her father.
The most important fact of her life, according to her, was the
privilege of coming to Sant Charan Das. Through him she
gained access to spiritual realms denied to the most advanced
exponents of traditional forms of yoga.
Though we know extremely little about the lives of
Sahjo Bai and Daya Bai other than that they were disciples of
Sant Charan Das, we do have through their compositions a
living testament of their spiritual life. Sahjo Bai in particular
can compress a whole world of meaning into a single image,
packing the ocean into an earthen pitcher. This idiom cer-
tainly applies to the verses of Sahjo Bai. The examples she
takes are drawn from everyday life. And yet they carry such
a wealth of meaning. They can speak to young and old, to
the lettered and the unlettered with equal force.
("STREAMS OF NECTAR" by Darshan Singh,WILEY EASTERN LIMITED;1993,292p)

 要するにセージョに関しては、詩集は残って伝わるが、伝記的事実は、チャランダス(1704-83)の弟子だったこと以外、ほとんど不明ということらしい。

 同じインドの女性詩人でも、ミーラとはだいぶタイプが違う。ミーラは、陶酔的な愛への没入を歌うが、セージョはもっとクールに、天然の理に則した歌を歌う。

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12月11日 KAHLIL GIBRAN"THOUGHTS AND MEDITATIONS"
tr.by ANTHONY R.FERRIS, CITADEL PRESS,1960

 カリール・ジブランの本書(「思索と瞑想」)は、アラビア語の文集から英語版で独自に編集されて翻訳されたものである。ジブランの英語オリジナルの著作七作("THE MADMAN〜"THE GARDEN OF THE PROPHET")はすべてKNOPF社から刊行されている。アラビア語からの英訳は、KNOPF社とCITADEL社がそれぞれ刊行しているが、互いに同じソースから独自編集をしているために、二社の本を比べてみると重なりあっているところが多い。本書には29編の短篇・詩・寓話等がおさめられているが、私が気がついた範囲でも、以下の編は、KNOPF社の⇒の先の著作に収められている。

THE RETURN OF THE BELOVED ,UNDER THE SUN, AMONG THE RUINS,A GLANCE AT THE FUTURE,A STORY OF A FRIEND⇒A TEAR AND A LAUGHTER
MY SOUL PREACHED TO ME ,AT THE DOOR OF THE TEMPLE, O NIGHT ⇒PROSE POEMS
MARTHA, ASHES OF THE AGES AND ETERNAL FIRE⇒NYMPHS OF THE VALLEY
YESTERDAY,TODAY,AND TOMORROW⇒WANDERER

 ジブランの詩は、どれも美しく、原語のまま味わえないのが残念である。「O NIGHT」はジブラン版「夜の歌」で、ニーチェの「ツァラトゥストラ」の絶唱「夜の歌」に挑戦したと言えるものだが、天上の蜜のように甘く麗しい。ナイーミの『ミルダッドの書』にも「夜の歌」があり、これもまたニーチェ、ジブランに比肩する美しい詩であった。
 戦争や飢饉で荒廃した祖国シリアを嘆く詩が、中ほどにはかなり収められている。
"NARCOTICS AND DISSECTING KNIVES"は、実際のジブランがどういう批判や非難を受けてきたかを実体験として語っているようで、興味深い。批評家にボロクソに言われた作家の嘆きと恨みを語っているとも読める。「私の書物が毒だという連中がいるが、そいつらは、自分のことを語っているのだ。たしかにそういう連中にとって私の本は毒だろう。そういう連中には、純度の高い毒を透明な器にいれて差し上げてやりたい」(p.92)などと、ジブランのような、天才としか呼びようのない作家でさえ、怒りを露わにしているようです。

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12月11日 ディオニュシオス・アレオパギデス『天上位階論・神秘神学・書簡集』
上智大学中世思想研究所・大森正樹編『中世思想原典集成第三巻/後期ギリシア教父・ビザンティン思想』(平凡社)所収

 ディオニュシオスの神学に、現代から光をあてたのがアラン・ワッツである。元は牧師として神学を研究していた彼は、鈴木大拙などの知遇を得て、東洋思想へと傾斜していくが、その著書の中では、キリスト教神学の中に、東洋思想・仏教的なものがいくらか見いだせると述べている。そのとき引っ張りだされてきたのが、このディオニュシオス・アレオパギデスである。たしかに、その『神秘神学』の第五章あたりを読むと、神の属性を、「不垢不浄不増不減不生不滅」と述べた般若心経の一節とそっくりな形容をしていて、たしかに類似性を認めることができる。ワッツ的な読み方で一貫するなら、この『天上位階論』も、人間から天使へといたる存在の位階を述べている論述は、神人合一の思想を背後にひめた思想かもしれない。
 ギリシャの教父ディオニュシオスは、素性も年代もはっきりしないが、最初に葡萄酒を発見したという伝説もまとわりついている。

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12月14日 ウィトゲンシュタイン『哲学的考察』(ウィトゲンシュタイン全集第二巻・大修館書店)
奥雅博訳

 『論理哲学論考』に続く、第二主著を計画していたウィトゲンシュタインの草稿から構成され、死後刊行されたのが、本書。ある欲求を満たすという事態の成立に必要な事柄が、ラッセルは三項だというのに対しウィトゲンシュタインは、二つで充分だと反論している。たとえば、

 私が空腹であり、リンゴを食べて空腹がいやされた。

 という事態を例にとると、ラッセルの理論では、リンゴを食べた後に、自分の空腹がいやされたことを追認することが必要だという。そうでなければ、

 私が空腹であり、空腹を癒すためにリンゴを食べたが、空腹が癒されなかった。(リンゴが充分な食物には足りなかった等の理由により)

  ということも起こりうるからであり、それはラッセルの理論では、事態の不成立になる。ウィトゲンシュタインは、この三項めは不要だと言い、
 私は空腹である。
 私はリンゴを食べた。
 の二つの事態が起こっただけであるという。ラッセルの理論への反論として、本書68頁でウィトゲンシュタインは次のように述べている。

「私の思うには、ラッセルの理論は次のようになることであろう。……(私がリンゴを食べたいと思っており、そして人が私の胃に一撃を喰わせたので私の食欲が消え失せたとすれば、この一撃こそもともと私が望んでいた当のものなのである)
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12月19日 "JONATHAN LIVINGSTON SEAGULL" by Richard Bach,AVON

 アメリカの小説の、累積販売部数で歴代二位は『風と共に去りぬ』である。では、第一位は? と質問をすると、結構その答えを知らない人が多い。一位は本書、リチャード・バックによる『かもめのジョナサン』である。ベストセラーになる本というと、『脳内革命』とか『窓ぎわのトットちゃん』とか『気配りのすすめ』とか、たいてい私にとって興味のない本ばかりなのだけど、『ジョナサン』は別で、五木寛之訳で何度も再読・愛読している。英語でも読んでみたくなって、東京駅の本屋で買って、新幹線の中で読んでいたら、100頁ほどの中編の分量しかないので、静岡を過ぎたあたりで、全部読み終わってしまった。
 処女作が天啓の傑作で、以降その作品を越えられない作家というのが、日本にも海外にも結構みうけられると思う。たとえば、カリール・ジブランの『預言者』、中井英夫の『虚無への供物』、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』、バックのこの本もそれに該当すると、英語であらためて読んでそう思った。瀬戸川猛資の『夢想の研究』では、唾棄すべき最近のアメリカの軽薄文学と非難されていたのが『ジョナサン』であるが、瀬戸川は、バックの深みが全然わかっていないと思う。

 バックの小説を、私はほぼ全作読んでいるが、どれも『ジョナサン』の域には到底及ばないし、『ONE』とか『翼に乗ったソウルメイト』になると、「念じれば思いがかなう」式の、アメリカン・ドリーム的ポジティヴ・シンキングのニューエイジ的ブレンドに堕している気がする。後者の本は、『ジョナサン』を刊行して以降のバックの自伝的小説で、『ジョナサン』で一夜にして大富豪になったバックは、(印税は数百万ドルを越えたそうだ)資産管理を代理人に任せていたら、代理人に資産を使い込まれ、本人も浪費生活をしていたために、自己破産をしてしまったそうだ。破産したのでやむなく十年ぶりに小説の筆をとるが、昔の筆力はなく、今は生活に苦労しているそうだ。その後バックは、森林保護運動とかに携わっているらしい。
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12月21日 松永有慶『理趣経(中公文庫)

 仏典の、密教の聖典の中でも、性の交合を修行に使うものとして、一部で有名な経典、「理趣経」を解説・解題したもの。修行の最初の段階では、異性との交わりを必要とするが、修行が進むと、一人でやれるようになり、段階的な進歩を説く経典。好事家にお勧め。

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12月21日 KAHLIL GIBRAN "BROKEN WINGS" tr.by Anthony R.Ferris, CITADEL PRESS
(アラビア語版は1912年、英訳刊行は1962年)

 カリール・ジブランは、二十歳そこそこの若さでアラブ文学界に盛名を馳せるが、その著作が、宗教を侮辱するものだとして、国外に追放され、亡命に近い形で、アメリカに移住せざるをえなくなる。その後愛した故国レバノンに帰れることはなかった。そのジブランの盛名と国外追放の最大の契機となった著作が、本書『折れた翼』である。アラビア語からの英訳版だが、翻訳をつうじても、詩情あふれる名文が美しい。
 一応小説の形式をとっているが、事実に基づく、半自伝小説。読後、大きくため息をつきたくなるほど、名著にして名文。しみじみと美しい読後感に浸ることができる。
 語り手は、貧しい詩人で、地方の名家の美しい娘セルマと愛し合うようになる。しかしレバノンのキリスト教社会では、教父が力をふるい、支配をほしいままにしていた。教父はセルマの美しさに眼をつけ、自分の従兄弟に嫁がせるようセルマの父に強要する。教区の貧しい者たちの生殺与奪の権利をにぎる教父に脅され、父は不本意ながらもセルマを嫁がせることを承諾する。語り手とセルマは、互いに愛し合う身ながら、引き裂かれる間柄となって……。粗筋だけを書くと、平凡な悲恋小説にすぎないと思えるが、ジブランの筆にかかると、一つ一つの描写が、魔法のようにみずみずしく精彩を放つ。たとえば、主人公がセルマに夢中になるくだり、四章でさらりと次のように書いているが、なかなかジブラン以外に書ける文章ではないと思う。

Every visit gave me a new meaning to her beauty
and a new insight into her sweet spirit, until she be-
came a book whose pages I could understand and
whose praises I could sing, but which I could never
finish reading. A woman whom Providence has pro-
vided with beauty of spirit and body is a truth, at the
same time both open and secret, which we can
understand only by love, and touch only by virtue;
and when we attempt to describe such a woman she
disappears like a vapor.
(試訳)
 セルマを訪ねるたびに、彼女の美しさは新しい意味を開示し、彼女の麗しい精神が新しい洞察を私にもたらした。彼女は私にとって、一冊の本となった。そこに書かれている内容は理解できるし、讃歌を歌うこともできるのだが、決して読み終えることができない本だった。天意が心身ともに美を賦与した彼女のような女性は、一個の真実であり、あらわであると同時に隠された秘密だった。理解するのは愛なくしては叶わず、触れるのは美徳によらなければならなかった。彼女のような女性は、描写しようとすると、蒸気のように消え失せてしまうのだった。

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12月25日 AJIT MOOKERJEE"TANTRA ART" RAVI KUMAR,1966

 アジット・ムッケルジーの著作は、『理趣経』の著者、松永有慶による邦訳書が一冊だけ日本でも刊行されている。『タントラ──東洋の知恵』(新潮選書)。インドのベンガル出身で、宗教美術研究書を多く刊行している。
 本書は、大判でカラーの美術書。カラーの図版が百点近く掲載され、解説が付されている他に、タントラ経典からの抜粋英訳と、序文としてタントラの哲学を著者が解説している。
 PLATE 25や28など、宇宙像を数値と対比させているのが、ウスペンスキー『奇蹟を求めて』に出てくる数値の類比と連動しているようで面白い。最も大きな宇宙の周期として画像に書かれている数値は、翻訳するとなんと47桁もの数になる。ダーウィンの進化論を先取りしたような、卵⇒魚⇒爬虫類⇒人類と、一枚の絵の中で進化が描かれている画像がある。PLATE75のカーリー女神は、剣をふるって殺戮しつつ同時に股間から合掌をした男の神を生みつつある構図が印象に残る。

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12月26日 AJIT MOOKERJEE"TANTRA ASANA" RAVI KUMAR,1971

 アジト・ムッケルジーによるタントラ画集の続編。「TANTRA ART」の姉妹編である。題名の「ASANA」はサンスクリット語で「座法」とか「体位」という意味だが、続編の本書に収められている極彩色の絵画は、男女の性交を描いているものが多い。77頁の絵は、下方で男神と女神が愛の交合をしている上で、剣をふるう二人の女神が左右に立ち中央に蓮華座に坐る女神は首が切られ鮮血が噴き出している。その鮮血を皿に載った女神の頭が口から啜っているという構図である。なかなか強烈な絵だが、ムッケルジーの解説を読むと、それぞれ宗教的な意味がこめられたタントラ絵画ということらしい。
 「TANTRA ART」のときよりも性交の絵画の比率が高く、序文と解説も、今回はそちら方面に重点が置かれている。絵画に描かれた男女の体位は、易しいものばかりではなく、アクロバット的な、曲芸師でないと到底できないような難しい体位のものも結構ある。

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12月28日 OSHO "THE LAST MORNING STAR" Rebel,2000

 セージョ・バイ(SAHAJO BAI)と姉妹弟子だったダヤバイ(DAYA BAI)の歌を題材にしたもの。F.E.KEAYの"KABIR AND HIS FOLLOWERS"によれば、ダヤとセージョは、姉妹だったと書かれている(p.164)。伝記的事実がはっきりせず、少ない情報に関しても、相互に矛盾していて、確定しにくい。インドの文学史にも、ごく少ししかスペースは割かれてなく、師のCHARANDAS(チャランダス)の死後、セージョ派とダヤ派が後継を争い、セージョ派が勝ったという情報もあった。
  最近は、海外から私のホームページに、英単語検索を介して訪ねてくれる人がいるので、そういう人のために、参考資料をまた、英文から転記しておく。

The lives of the saints are a great inspiration for
humanity. If we know very little of the life of Sant
Charan Das and his disciple, Sahjo Bai, we know
even less of the life of his other well-known disciple, Daya
Bai. It is not even certain when she was born or when she
died. It is believed that she was born at the close of the
seventeenth or the beginning of the eighteenth century. Like
Sahjo Bai, she belonged to a Dhusr or family of businessmen
and came into association with Sant Charan Das fairly early
in her life. She served him over the years with great devotion
and she suffered trials and tribulations. After her death her
writings were collected under the titles of Daya Bodh,
(literally, the wisdom of Daya), and Vinaymalika.
The following verses are drawn from Daya Bodh. They bring out the
pangs and the sufferings that the seeker must face.

("STREAMS OF NECTAR" by Darshan Singh,WILEY EASTERN LIMITED;1993,306p)

 ダヤの師のチャランダスは、ダヤに「亀になれ」と教えたそうだ。ダヤはそれを「亀の誓い」と歌っている。「夜閉じる花弁の中にひそかなスペースがある。蜜をすする蜂が花弁の中に閉じ込められて一晩蜜に浸って恍惚とするように、ハートの中にも、ひそかなスペースがある」(p.301)という比喩は、美しい。

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