読書録/2001年9月

9月1日 サルトル『存在と無 ──現象学的存在論の試み』松浪信三郎訳・(全三巻)人文書院

 大学院のゼミで一年間、本書を講読したことがあるが、そのときはこの大部の哲学書の全体は読み通せず、緒論「存在の探求」と第一部「無の問題」の「自己欺瞞」の章を洋書をテキストに丹念に読み、討議したものである。私はフランス語の原書は読めないので、英訳版・ドイツ語訳版とこの日本語版の三種を比較講読した。奥が深い哲学書だとそのときはかな感銘したものだが、日本語訳では第一分冊(第一部・無の問題と第二部対自存在)までしか読んでいなかったので、今回第二分冊の「第三部・対他存在」と第三分冊の「第四部『持つ』『有る』『為す』と結論部」を通読した。ハイデガーの『存在と時間』に啓発され、明らかにハイデガーに対抗しつつ、乗り越えようと意図して書かれたものであるが、ハイデガーの講義録を読んでいると、学生がサルトルについて質問しても「あんなの」と軽くあしらう程度にしかハイデガーは評価していなかったようである。

 「対自(pour soi)」と「即自(en soi)」の対立と弁証法が、本書を貫く大きな主軸となっている。「即自」とは「それがあったところのもの」と規定され、「対自」は「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるような存在」であると規定されている。人間存在は本質的にこの「対自」であり、常におのれの存在が無によって脅かされ、無によって切り離される存在である。既に死んだ者をとらえるときには、死者は「即自」存在と言えるが、生きている(実存している)人間におけるありようは、常におのれのありようが無によって否定され、それによって自由(という刑罰)を処せられる存在である。その意味では、「自己欺瞞」はサルトルによれば、人間の本質的な存在様式である。「自己欺瞞」にあたるフランス語の原語は「悪しき信仰」であり、常に人間は、おのれがそれでないようなものであろうとする自己欺瞞によって、おのれの存在をとりつくろおうとしているわけである。

 ハイデガーは、『存在と時間』において、死へと投企することにおいて、現存在(人間)は本来的に実存する、と述べたが、サルトルは、本書「第四部」の「私の死」において、そのハイデガーの議論に真っ向から反論している。サルトルによれば、「死」は「無」同様、おのれの存在を限界づけるものであり、「私の死は私によってしか体験されえない」とするハイデガーに対して、サルトルは(おのれの)死の不可知性を説く。死をめぐる、この二人の大哲学者の対立と議論は、たぶん両者それぞれに正当性があるわけで、人が自己の死を知り得ないのはサルトルの言うとおりだが、その一方で、死をめぐる意識が必ず現存在には内在している点でハイデガーの論に正当性はある。

 終盤近く、「存在を顕示するものとしての性質について」の章では、「ねばねばする」ことについて延々と数十ページにわたって、哲学的考察をしていて、その分析は実に見事。哲学にせよ、文芸批評にせよ、こういうサルトルの「ねばねばした」思索のありかたがその本道ではないかと、その章を読みながら考えさせられた。

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9月3日 DU BOISGOBEY "THE OLD AGE OF LECOQ,THE DETECTIVE"
VIZETELLY CO. 1886

 長年探していた本なので、ようやく入手できたときには感涙したくなった。
かなり長い長編なので、読み通すのにかなり骨が折れた。19世紀の英語を今話されている言葉と比べれば、日本語に比べて差異は少ないと言えそう。ただ、「始まる」という意味にbeginとかstart といった単語は使われず、もっぱらcommnceが使われ、toiletが、服装の意味で用いられているあたりがちょっと時代を感じさせる。
 江戸川乱歩の選んだ海外ベスト30のミステリは、一応全作翻訳があると言えるが、ガボリオとボアゴベは完訳されていない。たぶんベスト30作品の中では、本書が一番入手困難度が大きい。

 これはやはりボアゴベの代表作のみならず、ポオ以降ドイル以前の時代に書かれた探偵小説の中では、最高傑作だろうと思う。もともと私が最初に読んだ涙香が本書の翻案「死美人」で、開巻一頁より物語の圧倒的面白さに引き込まれてしまったのは昨日のように覚えています。あれほど夢中に貪り読んだ探偵小説は、他に数少ない。その原作を読み通して、あらためて原作の面白さを実感し、あの原作となった小説をより隅々まで味読できたのは幸運でした。
 冒頭、雪が降りしきる中、美しい女性の屍体を詰めたトランクを運ぶ聾唖者が警官二人に発見される。その胸には兇器が残り、トランプのカード、スペードのクイーンが間に挟まっていた。警察は聾唖者を尋問するが、何も情報を提供しない。引退した名探偵ルコックに相談しに行くと、その聾唖者を泳がせて帰り着かせれば情報を得られるだろうという。その案を採用して聾唖者が向かった家には、商人の屍体がまた発見される。部屋には一人遊びをしたとおぼしきトランプのカードが残され、スペードのクイーンが欠けていた。状況からすると、同一犯による連続犯行の確率が高い。警察は、往年の名探偵ルコックの出馬を懇願するが、引退した名探偵は同意しない。かわりに英国の名探偵トルバック(涙香訳では鳥羽)に事件の指揮が任されるようになるが、トルバックは、遺産相続人探しの仕事をやっている最中だった。やがて死美人事件の容疑者として、ルコックの身近の、意外な人物が浮かび上がってくる……。
 涙香訳「死美人」と読み比べてみると、圧縮されているとはいえ、かなり原作に忠実な訳をしていることがわかった。手際よく冗長な部分をカットする一方で、読者に訴えかける詠嘆がしばしば書き加えられている。後半の方に行くと、原作より涙香の翻案の方が、事件の詳細に踏み込んで説明しているところもある。

 前半「引退したルコック」と後半「活動するルコック」の二部構成。死体発見のシーンからモルグ(死体陳列所)でのトラッピング、容疑者の逮捕と尋問、証拠調べ、裁判と判決までを描く第一部から、息子の冤罪を晴らすべく奮闘するルコックを描く後半の第二部まで、骨太な展開で読者をひきつけて離さない。江戸川乱歩の長編の原型素材となった要素がこの「晩年のルコック」にはぎっしり詰まっている観がある。

 その昔、涙香の「死美人」を読んだときに、記述がアンフェアだと思って気になっていた箇所があった。死んだと記されていた人物が、後になって死んでいないことが判明する箇所があるのだが、今回原作を読んでみて、原作にはそういうアンフェアな記述はなかったことは確かめられた。ただ、水に襲われるシーンは、涙香翻案の方が枚数が長く書き加えられ、より盛り上がっている。

 ピードゥーシュ(稗田)刑事といえば、ボアゴベの「探偵眼」などの著作で主役を勤めているのだが、本書ではルコックのよき相棒にして引き立て役である。他作家のシリーズキャラクターの用い方としては、かなり謙虚と言える。その一方で、名探偵ルコックを使うからには、相応の大事件にしなければならぬというボアゴベのなみなみならぬ意気込みを感じさせて、まさにこれがボアゴベの代表作にして真骨頂と思わせる。

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9月5日 芦辺拓『赤死病の館の殺人』(カッパノベルス)

『和時計の館の殺人』で開幕した、森江春策の〈館〉シリーズの二作目となる中短編集。表題作の「赤死病の館の殺人」は、ポオの「赤死病の仮面」を現代の本格ミステリに移植しようとする試み。先頃出た山田正紀『ミステリ・オペラ』の作中にも、「赤死病館」というのが出てきていて、内容は異なるものの、題名の類似に共時性を感じさせるものがあった。作中で引用される、乱歩じきじきに訳出したという「赤死病の仮面」の文章は、珍しくも貴重。『虚無への供物』の中で、登場人物がポオの作品の最高傑作はなにかと論じるシーンがあり、そこで「赤死病の仮面」があげられている。さらに「赤い部屋」や「黄色い部屋」が出てくるところも『虚無への供物』を彷彿とさせる。本作は、かなり変わった設計の館が舞台となっているけれども、ちゃんと必然性が付与され、また謎解きとも有機的にリンクされている。古典的な意匠と、現代的・社会的な主題が共鳴しあった本格ミステリ中編の力作だった。
「疾駆するジョーカー」は原書房の密室アンソロジーに収録されたもの。
「深津警部の不吉な赴任」は、事件設定として乱歩の「赤い部屋」を連想させるところがあり、乱歩の好んだ手法が応用されているのを感じさせる。
「密室の鬼」は、大学の研究者の閉鎖的な世界が舞台で、不可能興味が横溢する中編。

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9月7日 セイヤーズ『学寮祭の夜』(創元推理文庫)

 戦前に『大学祭の夜』として抄訳されたセイヤーズの量的最大長編の初完訳。戦前の黒沼訳を読んだ感想として、「探偵小説ではなく普通小説である」というのを聞いたことがあり、実際本書は殺人が起こらない地味な話ではある。しかし、腰を据えてじっくり読んでみると、ミステリとして案外奥行きが深く、構成もしっかりしている。初期作品からの作風の変化は、セイヤーズ自身の文学観からすると、格段の成長と進化を遂げたということになるのだろう。黒沼訳は未読だが、抄訳になると、ミステリとしての面白さを味わうのは困難な気がするので、その訳のみでは普通小説と受け取られても無理はない気もする。

 セイヤーズ自身の実体験もかなり反映しているとおぼしき、オックスフォード大学での学寮暮らしが活写され、当時の女子大学生の生活風景が堪能できる。

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9月16日 山田風太郎『明治断頭台』(ちくま文庫)

 最近亡くなった巨匠、山田風太郎の、異色の明治・探偵小説。
私は、山田風太郎の作品はまだ読んでないものが多く、どこから手をつけていいのかも見通しがつけづらいほど作品が多い上に、山田作品をよく読んでいる人にどの作品がよいか聞いてみると、「どれも傑作」とかいう返答がかえってくることが多いので、ますます見通しがつけづらい。とりあえず本格探偵小説の傑作とされる本書を一読してみたが、なかなか凄い。明治初期の時代設定とマッチした堂々たる本格謎解き小説に一読三嘆。明治初期の有名偉人たちがゾロゾロ出てきて、時代描写と物語に見事にはまっている。

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9月21日 カーター・ディクスン『第三の銃弾・完全版』田口俊樹訳・ハヤカワ文庫

 「第三の銃弾」というと、中学生の頃、「カー短編集」(創元推理文庫)を読んだときに、その第二巻に収録されていたのを読んだことがある。ところがそのバージョンは原作より二割ほどカットされた圧縮版だという。内容についてもかなり忘れていてそろそろ再読したかった頃なので、今回新訳で完全版が出たのは、ちょうどタイミングがよかった。
 かつて有罪判決を受け、その刑期を終えた服役囚が、その裁判官を射殺した疑いで逮捕される。しかし、よく状況を吟味してみると、容疑者がもっていた銃は一発しか発射されておらず、その一発は、判事を殺した弾丸とは別物だった。第二の拳銃の行方を追おうとした矢先、現場からは第三の銃弾が見つかって、事件は不可能殺人の様相を帯びる……。 この一作かぎりの活躍をするマーキス大佐は、明らかに「不可能犯罪科」のマーチ大佐と同一人のようである。フェル博士やH.M卿とキャラクター的には、近い探偵である。

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9月25日 "THE LIFE,PERSONALITY AND WRITINGS OF AL-JUNAYD"
by Dr.ALI HASSAN ABDEL-KADER, LUZAC & COMPANY 1962

 「我は神なり」と宣言した冒涜の罪で処刑されたアル・ハッラージは、史上最も有名なスーフィーの一人だが、本書はその師ジュナイドの研究書。今日のイラク、バグダッドに住んでいて、生年ははっきりしないが、没年は西暦910年。ジュナイドに関する研究書は、アラビア語では色々出ているようだが、英語ではほとんどこれが唯一のもの。
全部で三部から成り、一部は「ジュナイドの人柄と著作」。第一章は「ジュナイドの生い立ちと教育」第二章は「ジュナイドの精神的先達たち」第三章は「バグダッドの神秘スクール」第四章は「ジュナイドの人となり」第五章は「ジュナイドの著作」第二部は「ジュナイドの教義」で、第六章は「合一の教え」第七章は「ミターク(神との関わり)の理論」第八章は「ファナー(神への消滅)の理論」第九章は「醒めていることの教義」第十章は「神の知識」第十一章は「ジュナイドとプロティヌス」そして第三部は、ジュナイドの残存する書簡の翻訳集。
 多くのスーフィーは、神への陶酔を歌い教えたが、ジュナイドは、大勢に反して「陶酔では足りない、素面であれ」と教えたという。当時のバグダッドでも、スーフィーはしばしば反体制的であるとして弾圧の対象とされた。ジュナイドは、弾圧を避けるための処世術からか、「教える言葉はカムフラージュして、限られた人にしか教えを伝えるな」とさとしていたという(51頁)。アル・ハッラージは、そう教える師に背いて、民衆に教えようとして結局処刑されることになったのだが、師弟のどちらがより正しいとは、判断も評価もできかねる問題である。
ジュナイドの言葉をいくつか拾ってみよう。
「合一とは、時間に属するものからの分離である」(70頁)
「ファナーとは、仏教でいう涅槃(ニルヴァーナ)のような、単なる自己の消滅ではない」(82頁)
「神の全き臨在において、人は自己を失う。彼は神へと現存するが、自己には現存しない。彼は同時に存在し、かつ存在しない。彼はいるところにおらず、いないところにいる」(172頁)

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9月27日 『エックハルト説教集』田島照久・編訳(岩波文庫)

 中世ドイツのキリスト教思想家としては、有名なエックハルトの説教集。エックハルトの本を読んだのは、『神の慰めの書』(講談社学芸文庫)についで二冊目。その本に収められていた内容と本書では、「離脱について」等、一部重なりがある。聖書の言葉を取り上げて、時に牽強付会と思えるような解釈を施して、新しい見方を示している。たとえば、イエスがエルサレム神殿で暴れた記述に関して、神殿とは魂の比喩であるとエックハルトは説く。「死んでいる」という言葉を「死んだ」と「いる(有)」に分けて、「死んで」なおかつ「存在する」というありかたを聖書が教えていると説く。「パウロは何も見なかった」という言葉を「パウロは無を見た」ととらえて、「無」が「神」であると解したりする。エックハルトに異端思想の疑いがかけられたのは、神や被造物を大胆に「無」と結びつける思想があるためだろう。数十の説教の中から一つ選ぶとすれば「像を介さぬ認識について」(説教83)。神秘なる合一を語っているエックハルトは、ここにおいてまさに一番の高揚に達している。

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