読書録/2001年12月
12月2日 喜国雅彦『本棚探偵の冒険』(双葉社)
「小説推理」誌上の掲載でほぼ目を通していたのだが、あらためて通読して堪能。著者の天性のエンタイテイナーぶりの発揮されて、とても楽しく読めた。
文中の「幻影古書店」を読んで、私もそういう本屋に遭遇したことがあるのを思い出した。私が大学生で文京区M町に住んでいたとき、その古書店は、私の住んでいた所から、道路を隔てた真向かいにあった。古書店をよく回っていた私としては、当然最短距離にある古書店を覗かないはずはないのだが、その店はあいにくいつもしまっていた。「F原書店」と看板が掲げられていたが、その書店は常時シャッターをおろしていた。だから私はてっきり、既に閉店した古書店としか思っていなかった。ところが、その町に住み始めて半年ほど過ぎたある日。その古書店から明かりが洩れ、店が開いているのを発見。好奇心をそそられ、早速店に入ってみると、結構通好みの人文書や文学書・小説類がある。デュ・モーリア著作集とかみすず書房の本とか創元推理文庫もかなり古いものからある。店の奥には初老のおやぢがいた。通路の下に面した棚にはポケミスが数十冊あり、そこをチェックすると、当時としては指折りの探求書で古書価もついていたエリザベス・デイリイの『二巻の殺人』がある。売値も1000円と穏当だったので、早速購入することにした。本を買った後、私は質問した。
「この店っていつ開いているんですか?」
「それはね、不定でね。私が店をやるときにやるんだよ」
……。
他にもほしい本やチェックしたい本があったのだが、そのときは持ち金が少なかったのでまたの機会に来ることにした。そしたら、また延々とその店が開いている機会に遭遇しない。
数カ月間開いているのを目撃しなかったので、あきらめかけていたある日の夜。午後十時頃、家を出てみると、驚いたことに、その古書店が開いている。急いで入ってみる。品揃えが若干変わっている。ポケミスをチェックすると、なんとまた、デイリイの『二巻の殺人』が千円で売っている。自分の分は買ったからよいが、知り合いのミステリファンがほしがっていたこともあって、またしても私はその『二巻の殺人』を買った。ジョン・ビンガムの『第三の皮膚』(創元推理文庫)も珍しい本だったので二百円程度の金額で購入。その後私は、店主らしいおやぢに質問した。
「なんでこんな時間に開いているんですか?」
「ここに来たときに開けることにしてるからね」
……。
その後私はその町から引っ越してしまった。ひさしぶりにその町を訪ねた一年後、もうその場所に古書店はなくなっていた。
という実話なのでした。
12月5日 ピーター・ディキンソン『キングとジョーカー』(サンリオSF文庫)
その昔、ミステリマガジンに連載されていた瀬戸川猛資の『夜明けの睡魔』をリアルタイムで読んでいて、そこで推薦された本は結構買いに行っていた。当時まだ私にとって初めて読む作家だった、デアンドリアの『ホッグ連続殺人』やコリン・デクスターの『キドリントンから消えた娘』やスティーヴン・キングの『ファイアスターター』は、いずれもそこで推薦されていたから買って読んだ。その時期にやはり『夜明けの睡魔』で推薦されていたために買ったのに読まずにきた本が、このピーター・ディキンソンの『キングとジョーカー』である。購入価格は、新刊で420円だったのに、今は稀書として古書価格が上がっているらしいと聞く。買ってから二十年以上たって初読した。
イギリスの王室をモデルにしたとおぼしき宮廷内で、いたずらとおぼしき不可解な事件が続発する。おしゃまなルイーズは、可憐に勇ましく立ち向かうが、やがて殺人事件までもが起こり……。
キャロルやチェスタトンに連なる奇想の作家と、瀬戸川が評しただけのことはある、ディキンソンの世界は異様なおかしさと不条理観、そして醒めた知性が統べている。
12月6日 ポーリン・レアージュ『O嬢の物語』澁澤龍彦訳・河出文庫
世にある官能小説やポルノ小説は大半が男性による男性読者のためのものである。女性のためのそれがどのようなものになるかは、私のような者にはなかなか窺い知れぬところなのだが、本書は女性作者による性文学の傑作の一つとされている。
匿名の女性主人公、Oをめぐる性と愛の魂の遍歴を描いた文学作品。微細な筆致で、繊細な女性の生態を活写している。
ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』の中には、次のような大意の一節がある。
男性の喜びは「我は欲する」である。女性の喜びは「彼は欲する」である。
このツァラトゥストラの言葉は、真実の一面は衝いていると思うが、Oの物語を読みながら感じたのは、むしろ女性は「『彼は欲する』を通して私は私を実現する」ということではないかと、つらつら考えたりしたのだった。
12月20日 横溝正史『悪魔の寵児』(角川文庫)
角川文庫の横溝正史、全部集めたはいいけれど、読んでないのも多いし、大学のミステリ史の講義で横溝を扱う時間もあったので、何冊か読んでみた。
『悪魔の寵児』は、代表作の一つ『悪魔の手鞠唄』と平行して連載された。エログロものと思われがちな道具立てだが、そういった要素がちゃんとミスディレクションとトリックに奉仕しているあたり、横溝正史のミステリ魂の図太さに感心させられる。この中でつかわれた偽造トリックの一つは、鑑識が発達した現代にこそかえって有効では?と思わせるものがあった。
12月25日 西澤保彦『夏の夜会』(光文社)
この作品、発端から結末までが一昼夜の出来事から成り、登場人物にも派手な動きやアクションはなく、外面的な設定は極めて禁欲的である。延々とディスカッションだけから成る小説としては既に『麦酒の家の冒険』があるが、それに近いテイストでもある。人間の記憶が時に不思議で怪しげで不可解な性質をもつのを主題とした、ミステリー作品。細かい点ではいくつか釈然としないところもあるが、精神分析を取り入れたミステリの佳品である。
12月27日 "DADU:THE
COMPASSIONATE MYSTIC"
RADHASOAMI SATSANG BEAS,PUNJAB,INDIA 1979
16世紀にインドで活躍した神秘家ダドゥ(1544-1603)の歌と教えを集めた研究書。「ダドゥ」という名は、本名ではなく、「兄弟」という意味の呼びかけで、「ダドゥ・ダヤル」の「ダヤル」は、「愛情深い」という意味らしい。ダドゥが生きていたのは、ムガール帝国のアクバル帝の時代で、アクバル自身がダドゥに会いに行き、その堂々たる教えに感銘を受けたことが序文の伝記に記されている。ヒンディー語のダドゥ歌集からテーマ別に十の章立てに分けられて英訳されている。一章は「人間の形の目的」。輪廻を基本思想とするヒンズーの思想家であるダドゥは、人間の体をもつときのみが解脱のチャンスであると説く。第二章は「神(ブラーマ)は内にあり」。第三章は「生きた導師の必要性」第四章は「サットサングの重要性」。第五章「(神の)御名への献身」。第六章は「真の愛」。第七章「心」。第八章「カルマ(業)」。第九章「菜食主義」。第十章「儀式への非難」。という風に各章が名付けられている。
以前に読んだカビールの詩と味わいが似ていて、思想的にも共通性が多い。経歴にも共通性があり、カーストの最下層の出身で無学文盲だったとされる。イスラム教とヒンズー教の橋渡し的な思想をもち、既成の儀式や宗教を厳しく批判した。神を讃えつつも神は自分の内にいるとする神人思想。その詩の主流は短い四行詩で、最後の行で「カビールはこういった」とか「ダドゥはこう言った」というフレーズが頻用される。
これだけ共通していながらも、なおも両方の詩を読んで混同することがないほどに、個性がくっきりとその詩文には刻み込まれている。前に読んだカビールの「BIJAK」は訳文がいま一つの感があったが、本書は訳文が大変
洗練されて美しく、詩的な高揚感を醸しだしている。タゴールが英訳した「SONGS
OF KABIR」の絶唱には及ばないにしても、それに次ぐ出来のよさだと思った。
12月29日 エックハルト『ラテン語説教集』中山善樹訳・創文社
1999年に刊行された、大部のエックハルトの五十六からなるラテン語説教集の完訳に丁寧な訳注と解説を付したもの。研究書として翻訳書としてきわめて良心的な労作である。エックハルトといえば、前にドイツ語の説教集や『神の慰めの書』は読んでいたのだが、それとこのラテン語の説教集の味わいや印象はかなり異なっている。訳者の中山氏は、エックハルトを神秘主義思想の中に位置づけることは適当でないとしていて、むしろトマス・アクィナスをつぐ堂々たるキリスト教神学の哲学者と位置づけたいとしている。たしかにラテン語の説教から成る本書は、あまり神秘主義の味わいは少なく、卓越した聖書の解釈者と説教者という印象である。ドイツ語の著作や説教の方が民衆向けで、ラテン語は神学者や専門家向けという対象の違いがあったのだろうか。私はどちらかというと、ドイツ語著作の方に本領があるという印象をもったが、エックハルトの思想の定点とすべきは、このラテン語説教集であると言えよう。
12月29日 ヤコブ・ベーメ『キリストへの道』福島正彦訳・松籟社
ヤコブ・ベーメ(1575〜1624)に興味をもった最初の契機は、コリン・ウィルソン『宗教と反抗人』(河出文庫題では『宗教とアウトサイダー』)で、ドイツの注目すべきキリスト教神秘思想家として一章が割かれていたこと。日本語に訳されたベーメの本は、ほぼ全部集めたと思うが、一番苦労したのは、大正時代に刊行された『曙光(アウロラ)』で、これは牧神社版の復刻版で入手した。
ベーメは、キリスト教の枠内での思想家としては、エックハルトやフランシスと比肩すべき地位を占めていると思うが、いかんせん、キリスト教の制約が大きすぎるのが惜しまれる。
ベーメは死後に十一巻から成る全集が刊行されたが、25歳のときに『アウロラ』を刊行して以降著述活動をキリスト教会によって禁止され、六年間沈黙する。死の数年前に再び活溌な著作活動を再開し、『アウロラ』に次ぐ第二の長編著作がこの『キリストへの道』である。
全部で八章から成り、一番面白いのは、第五章「超感性的な生について──師と弟子の対話」。ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』で引用されたときには、「師と弟子は、低次の意識と高次の意識の比喩とみるべきである」とコメントされていた。そのコメントに従って読むと、なるほど非常に興味深い。人類を一本の樹にたとえて、我々はその一本一本の枝であるとベーメは述べている(178頁)。「愛を見いだす人は、無と一切を見いだす」(169頁)。
12月30日 ヤコブ・ベーメ『ドイツ神秘主義叢書第九巻
ベーメ小論集』
薗田担・松山康國・岡村康夫訳・創文社
ヤコブ・ベーメの短い著作を集めたもの。「汎智学の神秘」「神智学の六つのポイント」「神秘学の六つのポイント」の完訳と、「恩寵の選び」「キリストへの道」の部分訳から成る。「キリストへの道」はやはり一番面白い「師と弟子の対話」と、三章と六章。
1991年に哲学書房から刊行されたベーメの『無底と根底』に収録された著作と結構重なっている。『無底と根底』でも「恩寵の選び」は第四章までの抄訳だったが、この本でも「恩寵の選び」は第五章までの抄訳。この本はなぜ完訳してくれないのかが不思議。ちなみに現在絶版の『無底と根底』収録作は、本書か、『キリスト教神秘主義著作集13ヤコブ・ベーメ』(日本教文館)のどちらかに収録された作品ですべて含まれてしまうので、ベーメの著作を集める上では、必ずしも入手しなくてもよい。
コリン・ウィルソンは『宗教と反抗人』のベーメの章の中で、ベーメの著作が曖昧でわかりにくいのは、表現能力の未熟だろうとしている。その上で本書におさめられた「神智学の六つのポイント」の一部の文章を、「こんな風に書き換えればこんなにわかりやすくなる」として例示しているが、書き換えられたその文章はウィルソンの思想そのもので、ベーメが書いたとは思えないものだったが、たしかに原文ではマイナーチェンジなのだろう。
本書を読むとたしかにウィルソンの言うことはもっともだとも思えるが、一方この時期の神秘思想は、錬金術にもみられるように、多くの隠語・符牒を使っていたことも考慮しなければならないと思った。
(トップにもどる)