読書録/2002年10月
10月2日 アントニイ・バークリー『ウィッチフォード毒殺事件』 藤村裕美訳・晶文社
同月にバークリーの長編の第一作と第二作がたてつづけに刊行された。『レイ
トン・コート』でシェリンガムの助手役をつとめたアレックスがこの作でも助
手的役回りで登場する。
愛人がいた妻が夫を砒素で毒殺した容疑をかけられたメイブリック事件は、英
国犯罪史上有名で、黒岩涙香『美人の獄』も、それを題材にしたものだとされ
ている。コリン・ウィルソンの犯罪百科で、この事件の項目では、メイブリッ
ク夫人は無罪である説をとっていた。バークリーのこの本の影響関係があるの
だろうか。
メイブリック事件を模したベントリー夫人の事件で、容疑者として有罪が確定
的に思われたベントリー夫人が無罪ではないかと考えたロジャーが、独自に捜
査を開始した。中盤の軽妙洒脱な展開が、読ませる。最後のおとしどころは、早い段階で見当がついてしまった。
10月5日 IDRIES SHAH"THINKERS
OF THE EAST"
(PENGUIN BOOKS)
イドリース・シャーのスーフィー寓話を中心とする一冊。
中に出てくるスーフィーでは、バハウディン・ナクシュバンドのエピソードが
多い。この偉大なスーフィーの墓は、アフガンのカブールにあるというから、
かつてはかの地は、偉大なスーフィズムの伝統が息づいていたのだと思うと、
ため息が出る。
p86のWhen even kings are weakとp118のUnsuitableは、表現が多少違うもの
の同じ話である。重複に気づかんかったのかなぁ。盲信が道に反すると説くあ
たり、今のイスラム教のありようからは大分異なっていると思うのだが、巻末
の教義問答ではイスラム教の枠内に入る教えが説かれている。
10月7日 山口雅也『奇偶』(講談社)
もう相当な作家歴をもつのに、長編としてはこれが第二番目とカウントされる
山口雅也の新作。易が二進法の八卦×八卦の六十四の卦をもつことは知ってい
たが、それと量子力学や、ゲーデルの不確実性定理、ユングの共時性理論をか
らめた、偶然と神についての考究を進める小説である。主人公の作家は、著者
本人の境遇と共通して、目の疾患を経ているらしい。
知能をもつ類人猿という趣向では北川歩美『猿の証言』を想起させるし、冒頭
の原発事故では芦辺拓『十三番目の陪審員』を連想した。本書のトンデモな解
明法で示された趣向の一つは、竹本健治と清涼院流水が先鞭をつけているのだ
が。衒学的な思想小説としては非常に面白いが、ミステリとしては、ちょっと評価が難しい。
10月19日 "THE LIFE AND TIMES OF SHAIKH FARID-U'D-DIN
GANJ-I-SHANKAR"
by Khalif Ahmad Nizami
IDRAH-I-ADABIYA-I-DELLI,1955
パキスタンで「ファリド」の歌が歌い継がれている、イスラム教、スーフィー
の聖者シャイフ・ファリド(1175-1265)の評伝。パンジャビ語では「ファリダよ」の歌集が有名。シーク教の経典『グル・グラ
ンタ』にも、ファリドの歌が収められている。現在のパキスタン地方が、イス
ラム教に改宗したのは、この聖者ファリドの感化によるものが大きいという。
著者のカリフは、アラビア人でイスラム教徒らしく、時折引用されるファリド
の教説が、アラビア語のままで、英訳がないところがかなりあり、読めないの
がちょっともどかしく思える面も。全部で21章から成り、前半の十一章は、
ファリドの生涯を年代順に追う。何人かの師匠についた話や、二人の妻と結婚
し、大勢の子どもをもうけたが、死ぬときまでずっと貧乏だったと書かれてい
る。同時代に活躍したスーフィーのバハウディン・ナクシュバンドが、豪奢な
暮らしをしたのとは好対照をなしていると著者は述べていて、バハウディンは
相対的に貶められる評価が与えられている。バハウディンがナクシュバンディ
教団を築いたように、ファリドは、チシュティ教団の祖となった。
12章ではファリドの子どもたちのその後、12章はファリドの弟子たちのその後
を描き、14章はファリドの人となり、15章は「学者」16章は「詩人」としての
ファリドの評価。
「ガンジ・シャンカル」との愛称がつくのは、「砂糖(シャンカル)」好きだっ
たことに由来するという。有名なエピソードとしては「我に鋏でなく針と糸を
与えよ」と王侯に対して述べたことか。ファリドの著書は散逸しているので、
17章のファリドの教えが、この中では要諦となる。
民衆にファリドの歌として親しまれているのは、主に『グル・グランタ』に収
められた歌集だが、この著者は、文献学的に、それらがファリドの作であると
は疑わしいとしている。17世紀頃に成立した『グル・グランタ』のファリド
は、その時代の別のファリドという神秘詩人がいたそうだ。
10月29日 二階堂黎人『宇宙神の不思議』(角川書店)
原書房のベスト投票の締め切りが近づいてきたが、今月も大作が目白押し。
この新作長編、連載形式だったせいか、他の二階堂作品と比べて、章と章と
の切れ目が大きいような気がした。
UFOに幼い頃にさらわれて、宇宙人に変な実験をされた記憶をもつ女性が
登場し、その謎を追うことが焦点になる。島田荘司の『眩暈』の、奇怪な手記
の謎とある種パラレルな謎の提示なので、途中まで読んだときには、あの『眩
暈』に似た展開を予想したのだけれど、その予想は部分的にしか当たらなかっ
た。二枚腰・三枚腰の仕掛けと解明があって、本書を前半まで読んだときに予
測したものよりはるかに濃い内容が盛られ、今回もミステリとして骨太な力作
でした。
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