読書録/2003年4月
4月5日 東野圭吾『分身』(集英社文庫)
1993年刊行のこの作品、扱ったテーマは、もし今年あたりの新作なら、後追
いと目されかねないが、93年なら時代を先取りしていた一作。題名が類似し
た『変身』では、脳移植を受けた主人公が、人格乗っ取りの恐怖に直面する
という趣向。本作は、自分の知らない分身がいるという話で、『変身』と同工異曲と言えなくもない。終局の出会いと対決は、あまりサプライズはないが、
サスペンスフルな盛り上がり。
4月12日 コリン・ウィルソン+ランド・フレマス『アトランティス・ブループリント』松田和也訳(学研)
コリン・ウィルソンの新作の邦訳がすぐでたことは慶ばしい。アトランティ
スの話らしいから、大西洋の地下遺跡でも見つかったかと思ったが、古代文
明アトランティスの栄えた場所として海底は否定される。一夜にして大陸が水没する天変地異などありそうもないというのが一つの根拠。かわりにアトランティスの場所とされるのが、南極大陸である。地軸が移動する前の温暖
だった南極大陸に古代文明は栄え、今も氷の下にその遺跡が残っているとい
う。エジプトやマヤの遺跡の調査から、過去に超古代文明が栄えたという推
論は説得力があるが、そんな遺跡があるのなら南極の厚い氷の下の調査をすればよいのにと思ってしまう。
子午線をエジプトのギザに置くべきだとの主張はなかなか論拠に富んでい
る。そうすれば、世界各地の有名な遺跡がきれいに、きりのよい緯度・経度
にならぶそうで、日本の伊勢や京都もそうだという。
テンプル騎士団に関する章もあり、もともとイエスが属していたエッセネ派
の流れを汲むものらしいと推理している。
4月13日 "THE INDIAN
MIND :Essentials
of Indian Philosophy and Culture"ed.by
Charles A.Moore, East-West Center Press,1967
インド思想と文化を主題とした、十九篇から成る論文集。著者は主にインドの学者だが、一人
日本人の仏教学者も含まれている。同じハワイ大学の出版から"THE
JAPANESE MIND"と"THE CHINESE MIND"も出版されている。インドからみて、アジアの三
大国は、インド・中国・日本になることが多いようだ。
編者ムーアの序文は、総論としてインド思想全般の特徴を考察。普遍性・霊
性の探求が基盤で、charvakas派を除く、とある。以降、決まり文句のよう
に、チャルバカスは「除く」というのがこの論文集には頻出する。唯物論
で、現世の楽しみのみを肯定したチャルバカスは、インド思想史上よほどの
例外者だったようだ。
以下、簡単に各論文へコメント。
S.K.Saksena "Relation of Philosophical Theories to the
Practical Affairs ofMen"
インド思想史を、いかに思想の理論と実践をいかに一致させるかに取り組ん
できたかという点から俯瞰。過去と現在を比較して、現代は哲学への不信が
強いと論じる。
P・T・Raiu"Metaphysical Theories in Indian Philosophy"
インドの主たる形而上学体系を概説。チャルバカス、仏教、ジャイナ教、ニ
ヤーヤ、サーンキヤ、ヨーガ、ミンマーンサ、ヴェーダンタの各派の教え。
Gunapal aPiyasena Malalasekera"Some Aspects of Reality as
Taught by TheravadaBuddhism"
初期仏教を主題とし、認識論と現実の把握について論じる。
Junichiro Takakusu(高楠順一郎)"Buddhism as a Philosophy
of "Thusness"
如性とも訳されるtattvaの概念をキーワードとして、仏教哲学を考察。ニル
ヴァーナ(涅槃)や法(ダルマ)への示唆に飛んだ論考もあり、読みごたえが
あった。日本にもすぐれたインド学者がいたものだ。
Dhirendra Mohan Datta "Epistemological Methods in Indian
Philosophy"
インド哲学における知の方法論というか、認識論の概観。論理学派の議論の
洗練の度合いがまた格別で、これに比べると西洋の論理学は、まだまだイン
ド論理学にかなり遅れをとっている。
Swami Nikhilananda "Concentration and Meditation as Methods
in Indian Philosophy"
この著者は学者というより、瞑想を実践しているヨーギか行者らしい。「バ
ガヴァッド・ギーター」や「ヨーガ・スートラ」を取り上げつつ、瞑想の実
践法と思想論。
T.M.P.Mahadevan"Social,Ethical,and Spiritual Values in
Indian Philosophy"
カースト制度、人生と時代の四分法、カルマ論、解脱の方法と実践など、ヒ
ンズー教の価値体系を論じる。
S.Radhakrishnan"The Indian Approach to the Religious Problem"
インド哲学者として屈指の名声をもち、インドで大統領にもなったラーダク
リシュナンの要約的・紹介的な論文。東洋と西洋を比較し、インド思想の生
へのアプローチ法をさぐる。
P・T・Raiu"Religion and Spiritual Values in Indian Thought"
インド思想(宗教)の特徴を、社会的・美学的・倫理学的方面から考察。この
世界をマーヤ(幻影)として、すべてを真我(アートマン)に帰する、シャンカ
ラのヴェーダンタ哲学があまりにも有名なために、まるでインド思想そのも
ののように誤解されている弊害を説く。シャンカラの思想は、インドの代表
的な思想ではあっても、数ある思想学派の一つにすぎないと説く。
Swami Nikhilananda "The Realistic Aspect of Indian
Spirituality"
再びニキラナンダの論文。ヨーガや、ラーマクリシュナまで含めたインドの
霊性運動が、いかに社会的な価値と結びついていたかを考察。
C.P.Ramaswami Aiyar"The Philosophical Basis of Inaian Legal
and Social Systems"
法と社会のかさまざまな価値体系を根拠づけるインド思想。
Dhirendra Mohan Datta"Some Philosophical Aspects of Indian
Political,Legal,and Economic Thought"
インド思想と、政治、経済などとのかかわりを考察。
Kalidas Bhattacharyya"The Status of the Individual
in Indian Metaphysics"
シャンカラのアドヴァイタ(不二)思想を主眼とし、個と非個ないし集団、現
世棄却と在家の対立などを考察。
T.R.V.Murti "The World and the Individual in Indian Religious
Thought"
仏教とヒンズー教をとりあげ、俗世と出家の止揚はいかに可能か、それも
ヘーゲルの弁証法ではない方法で。
Surama Dasgupta"The Individual in Indian Ethics"
仏教とヒンズー教を主題とし、いかに社会と協調してきたかを論じる。それ
ぞれに発達した道徳規範があると、この著者は道徳を強調している。
S.K.Saksena "The Individual in Social Thought and
Practice in India"
古代、中近世、現代と大雑把に時代を三つにわけて、インドの社会状況を概
観。古代ではカーストは固定化したものではなかったし、女性の地位と自由
度はずっと高かったと論証している。個と集団がいかに折り合いをつけてき
たか。
Tara Chand"The Individual in the Legal and Political
Thought and Institutions of India"
ヒンズーの法体系と法思想。イスラム教がインドに入ってインド化。類似の
法体系をもつようになる。
P・T・Raiu"Extracted from "Indian Epistemology and
the World and the Individual"
別の本からの抜粋らしい。サンスクリット語の思想用語の多義性と難しさ。
インド思想を総覧するには至便な一冊。個別思想としてはそんなに踏み込ん
だ考察はないが。道徳とか社会とのかかわりを強調する論調が多く、反体制
的な、破壊的なインド思想の側面があまり取り上げられていないのが残念。
4月15日 松本清張『黒い福音』(新潮文庫)
実際に起こった、スチュワーデス殺害事件の、最有力容疑者と目されなが
ら、日本を脱出して訴追を免れたカトリックの神父。その実話を小説化し
た、半ばノンフィクションの一作。推理小説としては、犯行も動機も明白す
ぎて推理を働かせる余地もないが、犯罪実録としてはよく調べてあり、迫力
がある。当該の神父が所属するカトリック教会の信者たちが、口裏をあわせ
て、犯人のためのアリバイ工作に協力するあたり、なんと腹黒い集団だと、
社会的な怒りを覚えさせるつくりになっている。
4月24日 アントニイ・バークリー『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』武藤崇恵訳
晶文社
発表順では、長編第三作になるシェリンガムもの。探偵捜査における証拠の
解釈とその両義性が、けっこう重要なテーマとなっていて、バークリーの作
品全体からみれば、後の『毒入りチョコレート事件』の先鋭的な技法につな
がるステッピング・ストーンとも位置づけられそう。事件そのものは比較的
単純な、崖からの墜落死事件。バークリーの小説では、周囲からうとまれる
いやな女性が殺されるというパターンが割合多いようだ。モースビー警部と
シェリンガムのやりとりが、軽妙で、なおかつ微妙な問題を扱っていて面白
い。
4月25日 "THE
PATH OF THE BAAL SHEM TOV"by DAVID SEARS,
JASON ARONSON INC.1997
17世紀ポーランドに勃興したユダヤ教神秘主義運動とされるハシディズム
の創始者、バール・シェム・トヴ(1700--1760頃)の教えを体系的にまとめた
一冊。ユダヤ教におけるハシディズムの影響は広汎で、ナチスで弾圧される
直前の東欧ユダヤ教社会は、半分近くがハシド派だったと序文には書かれて
いる。
その重要なバール・シェムの教えの要項を50項目にわけ、アルファベット
順に記してある。バール・シェム自身の著書は残っていないので、大半が伝
聞かまた聞き。妻が死んだときに大袈裟にまで悲嘆しているのが印象的だっ
た。巻末の二通の書簡は、バール・シェム直々の書き残したものとして貴重
な歴史的資料。二通目の長めの手紙には、天使の出現するさまを幻視したこ
とが書かれていて、バール・シェムもやはり幻視家だと知らされる。
この著書の著者はユダヤ教信者らしく、注釈で護教的なことをたくさん
言っている。たとえば、バール・シェムの有名な教え「あらゆるものが神聖
である(Everything is Godliness.)」は、ユダヤ教の教義にとっては相いれ
ない汎神論(万物が神である教え)につながる。この世俗的な世界を神と同定してはま
ずいので、著者は補論で項目を設けて、この言は特殊な意味合いで用いられ
ていると論じている。
読んでいて「おや」と思わされたのは、「神の正義」の一挿話(p.37)。
バール・シェムのところに「神の正義がいかに実現されるのか?」と聞きにき
た人が目撃したのは、以下のような出来事だった。ある泉のそばで、一人の
男が金の入った荷物を置き忘れて去り、続いてきた男がそれを見つけて持ち
去った。つづけてやってきた乞食が水を飲んでいるところに、荷物を置き忘
れたことに気づいた男が戻ってきて、乞食を締め上げ、荷物を返さないとい
う理由で殴り倒す。この出来事は、一見正義がまったく実現していないよう
に見えるが、どのように神の正義が実現されるのか?とユダヤ教徒の質問者が
問う。それに対してバール・シェムは、殴られた乞食は前世でその殴った男
に罪を犯していたのであり、生まれ変わって、この人生で負債を返している
のだと説く。これって、輪廻転生を信じるインド宗教の教義だと思うが、ユ
ダヤのラビ、バール・シェムが教えていることなのでびっくりした。
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