読書録/2004年8月

8月3日 ショーペンハウアー『意志と表象としての世界・続編』(ショーペンハウアー 全集5巻〜7巻)(白水社)

  哲学科にいたときに「好きな哲学者は?」と聞かれると、私は「一にニー チェ。二にショーペンハウアー」という意見で、それは今も変わらない。し かし、ショーペンハウアーは、マルクス主義者には嫌われる貴族主義者であ り、ずっと不人気な地位に甘んじていた。哲学史でも、ヘーゲルやニーチェ に比べて、扱いは小さく、脚註のみだったり、無視されていたりする。最近 少しだけショーペンハウアーにリバイバルの光がきているらしく、私として も再評価してほしい哲学者の代表格。
 白水社から出ていた14巻のショーペンハウアー全集、大学のときに、既に 絶版になっていた本だったため、苦労して古書店街をまわり、十年ほどかけ て全巻買い集めた。14巻のうち、11巻までは20歳台のときに読破したが、5巻 から7巻の『意志と表象としての世界・続編』のところだけ未読だったので、 あらためて通読。『意志と表象としての世界』は正編を読んでいたので、な んとなくもういいやと思っていたのだが、正編に負けず劣らず、続編の方に も興味深い箇所が多々ある。
 もっとも興味深いくだりは、7巻にある女性への性愛のありかたを、ショーペ ンハウアーが自身の意志哲学から論じているところ。このあたりの見事な分 析は、ニーチェは別にして、カントもヘーゲルもフッサールもハイデガー も、ショーペンハウアーのようには、自身の哲学に有機的に取り込んでうま く論じることはできない。
 宗教に対する価値観は一貫していて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を 明確に劣った宗教と位置づけて、仏教とバラモン教を称揚しているあたりが すがすがしい。


8月7日 プラトン『国家』(山本光雄訳)世界の大思想19・河出書房

  教えている学生に、大学時代の教養として読んでおくべき本の一つとして、このプラ トンの『国家』を勧めたことがあるのだが、私が大学時代に読んだ中央公論 社・世界の名著「プラトンII」に収録されていたのは、抄訳版であった。と いうわけで、あらためて完訳版のこちらを読んでみた。
 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』では、イヴァンの語る「大審 問官」のところが有名で抜き出されることが多いのに似て、プラトンのこの 大著では、七巻にある「洞窟の比喩」が有名。大学の教養時代の哲学史の授 業でも、この箇所だけを抜粋して読まされた憶えがあるし、ウスペンスキー の『ターシャム・オルガヌム』の中にも、長々と引用されている。
 正義に関する議論がイントロの役割を果たす。青少年の教育論では、音楽が 強調され、リズムとハルモニア(調和)を学ばせることが重要だと説く。
 興味深いのは、プラトンの詩人批判が延々と語られる箇所。ホメーロスの詩 が、フィクションであり、想像の産物であり、そういうものを青少年に教え ることがいかに悪影響を与えるかと力説している。その伝でいくと、小説な ども教育には好ましくないことにされるだろう。このあたりの詩人批判は賛 成できないのだけれど、参照すべき議論であるとは思った。


8月9日 『中国の思想V・墨子』和田武司訳・徳間書店

 紀元前五世紀という時代は、全世界的に思想家の黄金時代である。ギリ シャはソフィスト、インドは釈迦を除いて六師外道、中国では諸氏百家、と 総称されるほど大手の思想家が輩出した。その上ペルシャにはゾロアスター がいた。歴史的評価ではギリシャはソクラテス、インドは釈迦、中国は孔子 がチャンピオンの座を占めることになる。老子、荘子などの道家は、「大道 廃れて仁義あり」の言葉に代表されるように、明白にアンチ儒教の立場を とっておる。この墨子もまた、アンチ儒教の立場の思想家である。老子は、 司馬遷の『史記』によれば、孔子より少し年長の同時代人であったようだ。 墨子は、孔子より少し後の思想家らしく、孔子の弟子と論争したりする箇所 が本書には収められている。
 ただ、同じアンチとは言っても、墨子と道家では、批判のスタンスがだい ぶ違う。墨子は、義とか天の道を、儒家とは違った仕方で示そうと努力して いるのがうかがえるが、道家と違って政治的な議論を強く打ち出している。
 京極夏彦の『塗仏の宴』を読んだときに感心したのが、孔子の「鬼神」を めぐる言葉の解釈で、「なるほど」と思わせた。ところが『墨子』中に出て くる、孔子の弟子は、「鬼神などは存在しません」と主張して、「鬼神があ る」とする墨子と対立している。だとすると、やはり「鬼神」に関しては、 『塗仏』の解釈と違って、通常の、鬼神はないとする孔子の立場の方が正し いのだろうか。
 儒教が中国の国教的な教えに祭り上げられたのは、功罪相半ばすると思う が、マイナス面も大きかったと思う。仁政を説く基本的な姿勢は、為政 者が聖人君子でないと成立しない教えである。それよりは、「性悪説」を説 く荀子と、人治主義を排して法治主義を説く韓非子を採用した方が、政治体 制としてベターだったろう。墨子の、儒家批判は、現実的で、孔子とその弟 子たちが、言行不一致の、偽善者であると告発している。道家ほど俗世離れ もしていない中道の思想を説いていると受け取れた。孔子より墨子をとった 方が、政治的にも経済的にも益するところが大きかったのではあるまいか。
 印象的なのは、人類への普遍的な愛を説く「兼愛」と、侵略をしない「非 攻」の思想。音楽を排し、運命論を配する「非命」の思想などがポイントで ある。
 もっとラディカルな思想家かと思っていたが、通読してみて、割合常識的 で中庸な思想だとわかった。


8月13日 『大学・中庸 上』 島田虔次訳・中国古典選 第六巻 (朝日文庫)

 四書五経として尊ばれてきた四書とは大学・論語・孟子・中庸。その薄い 『大学』を朱子の注釈とともに翻訳・解説した本。「切磋琢磨」とか「小人 閑居して不善をなす」といった故事成句の原文が、この『大学』の中にあ り、「修身」とか「大学」といった明治期になって日本で新しい意味をもっ てつかわれるようになった言葉の原典も多く見いだすことができる。
 朱子と陽明の間では、「性即理」とするか「心即理」とするかなど、主要な 教えに関して解釈の対立があるそうだ。ポイントとなる「格物到知」の 「格」を朱子は「いたる」と読む。陽明は「ただす」と読みたいようだ。 大学の教養学部時代に、漢文の先生から習った知識では「格」を「はかる」 と読む解釈もあるようだ。

 『大学』の思想は、大雑把には「心をただす」ことにあるようだ。孔子の教 えと合致するようにエディットされている感じがあるが、やはり政治思想が メインなのが私としてはいま一つな感じ。


8月14日 『大学・中庸 下』 島田虔次訳・中国古典選 第七巻 (朝日文庫)

 下巻の方は全編『中庸』。こんなややこしいタイトルにしないで、素直に上 巻を『大学』、下巻を『中庸』とすればいいのにと思った。
 第一章にある「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆節に中 る、之を和と謂う〜」というくだりが、麻雀の三元牌、白発中の由来となっ ているようだ。もっとも原文に即してネーミングするなら、発・中・和とす べきだったろうが、このくだりは、グルジェフの言う「三の法則」と対応し ているように思った。まず能動力・つぎに受動力、そして中和力が三番目に くるというやつである。この発・和・中の三位一体に先立って、第一章の冒 頭では「性・道・教」の三位一体が説かれている。
 この本の96ページにある解説によれば、儒教の「儒」という漢字は、もとの 原義は、優柔不断とか煮え切らないという意味合いだったそうだ。
この本もやはり『大学』と同じく、朱子の注釈に基づいて解説されている。 孔子の弟子の子思のコメンタリーが、『中庸』の主幹をなしているが、二十 章の後半あたりは、儒教的解釈に規定される以前の、古代の教典の味わいが ところどころ感じられる。天の理を説くあたりは、老荘思想の「道」と結び つけもそんなに違和感がない。
 朱子の解釈では、「老仏」として、老荘思想の道教と仏教を一緒にして排撃 しているが、仏教に中庸がないとする朱子の解釈は間違いがあると思った。 原始仏典でも中道が説かれているからである。


8月23日 殊能将之『キマイラの新しい城』(講談社ノベルス)

 殊能将之の新刊は、やはり石動戯作が探偵のシリーズ。
過去世の不可能状況の殺害を記憶しているという謎設定は、私も『マヤ〜』 でやったことがあるのだけれど、それに似た謎設定で、750年前に密室状況で 殺された城主が、現代の社長さんに幽霊として憑依し、謎解きを求める話。 騎士道物語のような中世ヨーロッパの物語と、現代日本の遊園地のお城の チープな世界の物語とが、対比して進む趣向が秀逸である。
 解決篇で島田作品のあれをやるのか?と思わせるときがあった。しかし──全 体に人を食ったようなとぼけた味わい、物語処理のうまさはあるのだけれ ど、密室ものとしてははぐらかされた感じ。

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