読書録──98年3月

3月2日 藤脇邦夫『出版現実論』(太田出版)

 前著『出版幻想論』が、営業サイドから出版の現場をかなり赤裸々に語っていて面白かったので、続編の本書も興味をもって一読した。前著で印象的なのは、小出版社で数々のベストセラーを出しているデータハウス社長の鵜野氏と著者との対談。本は所詮モノ、売れてなんぼのもの、ということで二人の意見は一致し、一見両者は、同じ立場をとるようでいながら、鵜野氏の方が、本をまったく読むことはない非読書人なのに対して、藤脇氏は、文中での言及からわかるように、あの高価な新潮社の三島由紀夫全集を全巻購入するなど、相当の文学好きの読書人である。この両者の、同意しあっているようで微妙に異なる、ズレというか懸隔が興味深く、読んでいてスリリングな対談であった。その快著の続編、この『出版現実論』で一番印象に残ったのは、文中引用された大石英治氏の言葉の引用文である(61頁)。本も商品、売れなければだめという著者(藤脇氏)のスタンスは、前著から一貫している。しかし、作者自身の、本に対する愛情と執着ははしばしに滲み出ていて、痛々しいくらいである。小説の話に比重はあまりかかっていないが、林真理子と渡辺淳一くらいしか取り上げてないのは、ちょっと物足りない。出版業界の先行きについては、これを読むと暗澹たる気持ちになる。

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3月3日 谷俊彦『東京都大学の人びと』(新潮文庫)

 ユーモラスな中編集。
「東京都大学の人びと」……カンニングをめぐる知能戦。作者は私と同じ大学出身のようで、なんとなく、試験会場の雰囲気とかに馴染みがある。後半ドタバタの連続技は、筒井康隆を思わせる。しかし、まともに試験勉強した方が、よほど楽というか負担が少ないぞ。

「駱駝市役所の人びと」……作者の第二短篇のようだが、この人はもともとユーモラス純文学の路線をいきたかった人なのではないか。それを無理に推理小説仕立てにしたような印象の作品。しかし、役所に勤める人間がいかに、その役職を活かして税金を貪っているかが如実にわかる作品である。そう言えば、うちの弟も公務員で、なぜか、通勤用に定期を使ってないのは、作中のヒロインと同じ理由で、通勤手当てを浮かそうとしているのか……?

「木村家の人びと」……金儲けに精を出す一家を描いているが、三篇とも、主人公の苗字が「木村」なのは、わけがあるのだろうか。とにかく、せこい人物ばかりが出てくる、みみっちい楽しさに満ちた中編集であった。

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3月3日 鮎川哲也・芦辺拓編『妖異百物語』第一夜(出版芸術社)

 世間に短篇アンソロジーは数あれど、この『妖異百物語』ほど作家のラインアップがマニアックなのは、他に類を見ないのではないだろうか。

鷲尾三郎「魚臭」……魚の姿になって、戦争で死んだはずの妻が夜な夜な夢枕に現れる。魚になるファンタジーとして、安房直子の「木の葉の魚」を連想したが、戦争直後の時世の空気がにじみ出ている佳品。
川島郁夫「肌冷たき妻」……雪山に遭難死した妻が、冬眠のまままだ生きているという美しい幻想を見せてくれる。
楠田匡介「硝子妻」……怪奇小説に違いないが、無茶なトリックを得意とする楠田の作風からすると、本作は、不可能トリックを描いた本格もののつもりかもしれない。
四季桂子「胎児」……この女性作者は、中絶経験があるのか、その経験をもとにして着想を得たのか、堕胎される胎児の視点をとる斬新な発想の怪異譚。なんとなく文章には既読感があったが、狩久の奥さんなのね。「幻影城」の狩久追悼号は所持していて読んでいるので、そのときの追悼文で、この人の短文は読んだことがあったのであった。
赤沼三郎「人面師梅朱芳」……涙香や乱歩の人面改造の趣向の作品が連想されるが、しっかり巻末の芦辺拓氏の解説で言及されている。手紙文だけで奥さんを信じ込ませるのは少し弱い気もするが、設定のうまさと語り口の巧みさは一級品である。
夢座海二「変身」……動物変身譚の異色作。語り手の言うことが次々と変幻していき、一体何が起こったのかわけがわからなくなってくる。
和田宜久「忘れるのが怖い」……星新一のショートショートに近い味わいの掌篇。健忘症の人間をテーマにしたジョーク集というのがあるが、それと同じのりである。
渡辺啓助「金魚」……珍妃の井戸と幽霊と言えば、最近浅田次郎さんの近作にあったような。舞台となる北京は不思議な郷愁に満ちている。題名の意味は何だろう?と思っていたら、最後近くに唐突に金魚が出てきた。
辰巳隆司「人喰い蝦蟇」……お、面白い! 題名どおり、人を食うがまがえるの話である。科学実験を重ねてついに巨大がまがえるを育成するのに成功した科学者。それはひとえにがまがえる恐怖症であった自分を捨てた女性に復讐するためだった! でも復讐するなら、何も知らない子どもでなく、本人にしろよ、と言いたくなる。とんでもない発想のケッサクである。
鮎川哲也「怪虫」……やっと、知名度のある人気作家が登場(よく考えれば編者だが)。ゴジラに似た人食い芋虫が暴れ回る話。鮎川の初期短篇にはときどき怪作があるが、終戦後の10年間は、かなりアナーキーな時代だったのだろう、短篇小説の怪作がこの時期に集中しているように思われる。
土岐到「奇術師」……作者は経歴不詳でこれ以外は知られていないようだが、文章を書き慣れた人であるという印象を受けた。マスコミの文筆家の書いた手練れの文章という感じである。手首を切り落とす一世一代の大奇術。そのトリックは!?という話である。
光波耀子「黄金珊瑚」……この集中唯一のど真ん中SF。未来世界を舞台にしていて、私は読んでいてどうもその世界観が掴み憎かった。人類家畜テーマというのは、結構よくある趣向らしい。
左右田謙「人蛾物語」……人と蛾の合体動物が出てくる。甘美な幻想妖異譚である。
村上信彦「永遠の植物」……怪異な植物綺譚。密林の世界が如実に描かれていてジャーナリスティックな意味での筆力逞しい作品。

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3月8日 ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー『哀詩エヴァンジェリン』齋藤悦子訳
(岩波文庫・昭和5年10月刊)

最近出ている「新世紀エヴァンゲリオン」のビデオが、テレビ放映時より大幅に増補改訂されているという話を聞き、近くのレンタルビデオ屋に行って、21・22話のところを借りてくる。たしかに二話でほぼ一時間、テレビ放映時より15分ほど増えている計算だ。加持とアスカのからみとか、碇夫婦の過去とか、精神汚染されるアスカの場面とか、随所に増えていて、物語としてはより親切にわかりやすくなっている。というか、元の話が、謎を出しすぎていて、あまりに不親切だったという見方もあるが、それはともかく。

「エヴァンゲリオン」がブームになったおかげで、品切れだった「世界の中心でアイをさけんだけもの」とか「人類補完機構」などの、作中で題名の使われたSF作品が復刊となり、しばらく書店で平積みされていた。そう言えば、キルケゴール『死に至る病』(岩波文庫)も、エヴァ放映中に増刷しているよな。しかし、ハヤカワ文庫と違って、岩波には、エヴァブームに便乗して本を売るというような身軽さはないのでありました。「死に至る病」と並んで、ブームのときに復刊すればよかったと思うのがこれ。その名も『哀詩エヴァンジェリン』。著者のロングフェローは、19世紀アメリカの文人で,これは、アメリカの広大な大地を舞台にして歌われた雄渾な叙事詩なのであります。エヴァンジェリンは、主人公、農夫の娘。時代はアメリカ独立戦争の頃らしい。しかし、同時期の詩として、例えばホイットマン『草の葉』の壮大な、豊かな詩情に比べれば、割合平凡で貧弱な詩想しか含んでいない。好事家のみにお勧めの一冊。

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3月11日 篠田節子『聖域』(講談社文庫)

直木賞受賞後、人気作家となっている篠田節子だが、私が読むのはこれが初めて。
前半、未完の傑作長篇を発見した編集者が、その謎の著者の素姓探しに乗り出すというあたりを読んで、しまった、自分の作品(『ネメシスの哄笑』)と似た趣向のがここにもあった(当然『聖域』の方が先)と冷や汗。趣向が重ならないためには、もっと、幅広くエンタテイメント系小説に目配りしないといかんな、と思いました。もっとも、その後の展開や趣向は大違いで、別に似ていません。

そう言えば、恩田陸さんが、『三月は深き紅の淵を』が、笠井潔さんの『天啓の宴』と、私の『ネメシスの哄笑』に似ているので「冷や汗をかいた」と、語っていますが、(光栄です)ああいう作中作趣向は、今やよくある趣向なので、避けた方がいいですね。

この作品の水名川泉は、江戸川乱歩賞作家の藤本泉がモデル。実際に藤本泉は、「地図にない谷」など、作中の水名川泉が書いているような作品を書いている。突然謎の失踪をとげたのも、同じ。解説の関口苑生氏は、なぜそのことに触れてないのかなぁ? 「猿の手」の粗筋紹介などに、解説の紙面を費やさなくってもいいのに。

藤本泉さんって、失踪したのは、いつ頃のことなんでしょう。東欧で消えたとか変な噂を聞いたりもしますが。謎なのは、推理作家協会の手帳には、ちゃんと住所と連絡先が載っていること。一体どうなっているのだろう?

それで、作品は、生と死のあわいを描いていて、一幅の美しい幻想絵画である。
作中、押井守監督の「天使のたまご」が、小道具として重要な使われ方をしているが、たしかにあのアニメ映画と、この「聖域」って、作品世界の情景がきわめて近いように思える。

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3月13日 菊池霊鷲(靈鷲)『慧日 宿善篇』(慧日会)

奥付によれば、
初版 昭和28年2月15日
再版 昭和50年3月20日

……すごい間隔である。初版から再販までの間隔が。

続篇の「開発篇」が予定されていたようだが、これは未刊のようである。

これは、仏道を修する女性が書いた仏教小説である。
静流という、稀な明覚をもって生まれた女の子が、仏覚をもって成長していくさまを描いている。半ば著者の実録ないし自伝らしい。
ちょっと一節を引用してみよう。
「毎朝夕毎、明慧師の衣の膝に倚りかゝって、誦経に聴き入り乍ら、静流は成長していた。明慧師の口より低く誦し出したるゝ経の響き、それは暢達な気配を以て四囲を充たし、静流をして甘やかな静けさに誘う様に見えた。奇しく秘めやかに流るゝ律動に身を浸しし、恍惚輪燈を見上げている姿は、チロチロ明滅する蝋燭の光の中に照らし出された金壁の白蓮紅蓮、仏前荘厳の品々の中にあって、其の儘小さき仏像であった。」(57頁)

仏教書と古典古文に彩られた文体は、凛々しく美しい。

緊迫感の出る筋立てはなく、強いてあげれば、静流が、細川という先輩に勉強を教えてもらっているのを、先生が不純異性交遊と勘違いして、彼女を叱咤し打擲するところくらい。五百頁を越える大作だが、淡々と、しかし流麗な筆致で、ところどころ仏法の教えを交えながら、話は進む。まだ静流が成人に達する前に話は終わっていて、この後に続くはずだった開発篇は未刊のままのようだが、終盤近くで静流は大悟しているようなので、これはこれで完結しているとも言える。

全編、背後に清々しく神々しい光の川が流れているようで、心洗われる名著であった。

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3月15日 折原一『黄色館の秘密』(光文社文庫)

 折原一というと、この前に読んだのは、『遭難者』(実業之日本社)。遭難者を悼む追悼文集という形式は面白いが、ミステリとしては薄味でいま一つだった。というわけでその後『冤罪者』が出ても読んでなかったが、黒星警部ものは好きなので、今日はキヨスクで買ってすぐに読んでしまった。折原一は、いわゆる叙述トリックを多用する作風だが、これまでの黒星ものは、パロディ路線が主で、叙述トリックものではなかった(短篇では一部あったかも)。ところが、これは叙述もので……。
 黄金仮面を盗もうとする〈爆盗団〉という秘密組織、こういう組織は、ホームズものの「五粒のオレンジの種」や、江戸川乱歩の「黒手組」等で、昔からおなじみだが、この作中に出てきた〈爆盗団〉は、実は……。
 おきまりの密室興味は、過去の黒星ものと比べて薄味だが、意外性が用意されていて、期待を裏切らない。
 企業秘密で明かさない密室(325頁)って一体何!?

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3月15日 都筑道夫『キリオン・スレイの生活と推理』(角川文庫)

 都筑道夫というと、生み出したシリーズキャラクターの探偵役の多さは、随一である。しかし、その割に探偵役の造形にバリエーションが乏しいように思える。このキリオン・スレイも、自称詩人の外国人という設定がちょっともの珍しいだけで、物部太郎とあまり変わりばえしない探偵である。

「なぜ自殺に見せかけられる犯罪を他殺にしたのか」……兇器消失を焦点とするミステリー。拳銃で頭を撃ち抜かれた死体を前にして、現場から逃れた黒人の素性を推理し、消えた兇器の行方を探る。隠し場所トリックの系列としては、なかなか気が利いた好篇である。

「なぜ悪魔のいない日本で黒弥撤を行うのか」……題名だけ読むと、ちょっと京極夏彦さんの『絡新婦の理』を連想させますね。黒ミサというと、ユイスマンスの『彼方』の描写が有名ですね。都筑道夫のミステリは、細部の論理の美しさへのこだわりが本領であろう。だからどちらかと言うと、短篇の方に成功作が多く、長編は、物部太郎三部作にしても、あまり成功していないような気がする。これは表題にもあるホワイダニットもの。山口雅也の短篇シリーズにもよく用いられる、あの解決パターンである。

「なぜ完璧のアリバイを容疑者は否定したのか」……謎の呈示としては面白いが、犯行の動機として、本当に犯人に利益をもたらすか、この真相はやや机上の論っぽく感じられる。

「なぜ殺人現場が死体もろとも消失したのか」……登場人物に「小森君江」というのがいる。殺人を犯したと主張しているのに、死体も痕跡も消されていた謎をスレイたちが追う。依頼者の有罪を立証するために探偵がかけずり回るという趣向は面白い。でもそんな利益のないこと、しないぞ、普通は。いくら不思議に思っても----黙ってれば殺人の罪を免れる状況にいるのに。

「なぜ密室から凶器だけが消えたのか」……謎の出し方は面白い。しかし、肩すかしの真相。一応その動機の説明はあるが、ホワイダニットを重視すると言いつつ結構机上の空論っぽい説明がなされることが多い気がする。

「なぜ幽霊は朝めしを食ったのか」……この短編集、全編、謎先行型のつくりをしている。座敷牢での密室死の謎と、死亡時刻以後に食べられていた朝御飯の膳。(以下ネタバレ感想が書いてあったので削除)  

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3月24日 『'98本格ミステリ・ベスト10』(東京創元社)

内容はともかく、デザインがなってない気がする。
結構読みごたえのある寄稿や対談があるのに、それらを平板に並べただけって感じで編集としては、いま一つうまくいってない---それは、「本格ミステリの現在」にも感じたことであるが。
対談での千街晶之氏の意見---
「本当に優れた小説ならば、地震で失われた命の重みとか、家族や財産を失った人たちの痛みや悲しみ、そういったものですら踏みにじっても構わないと私は思うんです」(54頁)
美のために全てを犠牲にしても構わないという、芸術至上主義の表明と受け取れる。美の追求に殉じた中井英夫の作品に魅せられてしまった者が陥りがちな、それは、魔道かもしれない。
かつてニーチェは、「悲劇の誕生」で、ギリシャ芸術を高らかにたたえながら、「人間的な」で、芸術を、知に反するものとして退けた。それでもなお最後の遺稿でニーチェは、芸術至上主義に回帰したかに見える。ただ、微妙にそれは、芸術至上主義とは異なる。生を高めるものとしての芸術。強壮剤としての芸術。
二十代の頃は、私も上の千街氏と同じような観念を抱いていたこともある。
今の私には、それほどの思い入れは、ない。

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