読書録──98年4月

4月3日 京極夏彦『塗仏の宴 宴の支度』(講談社ノベルス)

162頁下段「着き切り」⇒「付き切り」?
 『鉄鼠の檻』の初版では数カ所の誤植を発見したものだが、今回誤植かなと思ったのは、上の一か所のみ。これは前編のみなので、まだたちいったコメントはできないのだが、シンメトリーに対する作者のこだわりは、ますます強まっている。頁にまたがらない段落だけでなく、あちこちに文字数上の均整が見いだせる。冒頭、消えた村の謎の呈示は、導入部として抜群の引き込み。六話から成るが、連作短編集というのよりは、謎が解かれていない一連の挿話の集まりという感じ。『狂骨の夢』の朱美、『絡新婦の理』の織作茜が、主役をはるとはちょっとびっくり。中盤の妖怪談義のところは、ちょっと冗長かなと思わないでもないが、とにかく、相変わらずの抜群の筆力である。「宴の始末」で明らかにされるはずの事件の全貌は、見通せるわけではないが、真相の一端は見当がつくところもある。

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4月3日 松本清張『小説 帝銀事件』(角川文庫)

 帝銀事件の犯人と目され、死刑判決を受け獄中死した平沢貞通。諸々の伝聞や、以前に読んだ『読本 犯罪の昭和史』(全3巻)から、彼の有罪判決は冤罪の見込みが大きいという印象をもっていたが、本書を読むことでより詳しい情報を得ることができた。小説の形式をとっているが、実際の公判記録や自白調書などの資料がふんだんに盛り込まれ、ノンフィクション、ドキュメンタリーノベルの体裁である。驚くことに、帝銀事件発生当日の平沢貞通のアリバイは、素直に証言記録を追うなら、成立してしまうように思える。アリバイがなくても犯人である証明にはならないが、それどころか、平沢は事件当日にかなり信憑性の高いアリバイをもっているのである。事件現場に平沢が現れたという主張を成立させるには、相当苦しい時間的なこじつけと、いくつかの証言の無視、改ざんがなければならないのである。死刑判決を受けながら、40年近くずっと執行はなされないままだったのは、法務当局も半ば平沢が無罪であることを知っていたのであろう。731部隊員の関与が示唆されるが、視点役の記者同様、松本清張の調査も、その内部の核心には迫れなかったようだ。作家としての現実的な制約で仕方のないところである。戦後史の暗部を理解するためにも、多くの人に読んでもらいたい一書である。

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4月7日 笠井潔『秘儀としての文学』(作品社)

  この本でなんといっても、読みたかったのは、笠井潔とコリン・ウィルソンの対談。
両者の資質や性向は大いに異なるものの、両者とも評論・小説両ジャンルで大きな業績をあげ、日英両国の文芸界をリードする、多面的にして、偉大なる思想家にして文学者であるから二人の文壇に占める位置や思想家的スタンスにはかなり共通したものも感じられる。のちの銀星倶楽部のコリン・ウィルソン特集号で笠井は、このときの対談を振り返り、「あまりかみ合わなかった」としているが、実際、両者の議論というか立場は、ぶつからずどこかすれ違っている印象がぬぐえない。しきりに至高体験を説くウィルソンに対し、笠井は「個人でなく集団としての至高体験があるのではないか」と反駁している。これは、笠井の評論集『機械じかけの夢』の中で、ウィルソンの『賢者の石』を論じた評論の中でも出てきた批判点である。ウィルソンは、一応笠井に頷きながらも、やはり個人主義的立場は崩さない。このあたり、社会改革の志向が強い笠井と、もっぱら個人へと関心を向けるウィルソンの違いが鮮やかに出ていて面白い。
  この対談の最後の方で述べられるウィルソンの新作長篇"SPIDER WORLD"。3巻の長篇もうだいぶ昔に完結しているのに、日本ではいまだに翻訳が刊行されない(;_;)。どこの出版社でもいいから、はやく出してくれないかしら。あらゆる未訳の小説の中で、俺はこれが一番読みたいぃ〜〜。原書注文しても絶版だったし(;_;)
 ただ、この頃の笠井潔って、まだ文学に対して楽観的な見方をしているんですね。
 最近の『天啓の器』などでの悲観的な発言と対比して、そう思ってしまった。

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4月8日 菱川英一『CD−ROMの冒険』(翔永社)1990年刊

 CD−ROM と題にあるから、これは結構TOWNS の話題が出ているかも、と思って読んでみたのだが、だあああーっ。と。内容はほぼPC98機の話題ばかり。一か所TOWNSが触れられていると思ったら、(148頁)「CD−ROM専用機と言ってよいFM TOWNSは……」と書いてある。だあああーっ。TOWNSをCD−ROM 専用機呼ばわりするとは、なんという、不当な偏見だあっ!!

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4月18日 有栖川有栖『有栖の乱読』(リクルート)

 ミステリファンにとっては、恰好のブックガイド。書物を愛し、作家を志望し、暗く孤独だった青春時代の思い出は、共感するところが多い。スポーツには大体無縁なのだが、阪神ファンになってしまうのは、やはり大阪人の性なのか……。第二部で取り上げられた百冊、結構未読のものもあり、これは、有栖川さんと対談するときまでに読んでおかなくちゃなあ、と思う。古典を読んでない新しいミステリ読者も、この本を入門書として、古典ミステリの世界に入ってくれるといいと思う。第一部の末尾、「買った本はすぐに読み切るのが当然だと思っていた」(85頁)のに、作家になって入ってくる本の量が著しく増加してから、未読本が増えて不本意だと書かれている。私も、このところ、著者や出版社から寄贈される本が増え、その分未読本の量も増加した。でも振り返れば、熱心なミステリ読者だった中学時代から、本を集めるだけで満足して読んでいない本は大量にあった。私の場合、ある興味をもった分野に関して、徹底的に集めたくなる習癖があり、読むのは後からでいいや、と考えがちなので、未読本が山積されることとなる。まあそのうちおいおい読むことにしたいが、この有栖川さんの読書リストを見て、読みたくなった本が色々ある。

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4月18日 ニコス・カザンツァキ『兄弟殺し』井上登訳  (読売新聞社)

 ギリシャの大小説家、カザンザキスの名を初めて知ったのは、高校のころ読んだコリン・ウィルソンの文学評論『夢見る力』の巻末付録のカザンザキス論が最初である。その後、恒文社から出ている『その男ゾルバ』と『キリスト最後のこころみ』を読み、こんな偉大な作家を今まで見逃していたのかと唖然とした憶えがある。本作を読んでますますその意を強くした。もしかして、20世紀最大の小説家の称号に最も相応しい作家ではなかろうと思えてくる。日本語に訳された長編は、この二作と本書『兄弟殺し』(1978年)、そして去年待望の復刊がなされた『アシジの貧者』(みすず書房)の四冊で全部。大学書林から『キリストは再び十字架にかけられる』(キリスト再刑)が抄訳されているが、これは、語学テキストとしての部分訳にすぎず、全体のごく一部しか日本語で読めないのが歯がゆい。この話は、内戦下のギリシャの寒村で起きた殺人事件は犯人探しがあるので、宗教が主題とはいえ、広義のミステリには属する話なので、原書房や国書刊行会で完訳を出してもらはえないものか。主要作品である『オデュッセイア』をはじめとして、未訳の重要作がたくさん埋もれているのがくやしい。英語で書いていれば、もっと文名をはせていただろうにと惜しまれる。この作品、ずっと探していたのだが、見つからず、所蔵している図書館の本をコピーして読んだ。共産軍と、共和国派の内戦で荒廃している第二次世界大戦後のギリシャの寒村カステルロス村が舞台。主人公は、パパ・ヤンナロスという老神父。一人息子は共産軍のリーダーとなり、妻も共産ゲリラに身を投じている。キリスト教信仰あつい神父は、村を必死で守ろうとし、神への疑問をなげかけながら、両軍の和解を命懸けで斡旋しようとするが、両陣営から不信の目で見られ……。カザンザキス自身が体験した凄惨なギリシャ内戦の様子が迫真の描写で描かれている力作である。結局カザンザキスは、一時期は共産主義を信奉していたようだが,終生キリスト像にとりつかれ、神を求めて苦闘した人らしい。一文一文に彼の血と嘆きが刻み込まれている。

血と切り刻まれた肉によって書かれた、重い文学である。

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4月20日 奥泉光『葦と百合』(集英社)

 日本の文壇では、デビューした作品で、純文学か大衆作家の色分けがなされる傾向が強いが、その分類法では、芥川賞受賞の奥泉光は紛れもない純文学作家である。しかし、奥泉は、ミステリか純文学かというジャンル論からは自由なところで仕事をしている。分類の観点で本書を読むなら、ミステリ味濃厚な純文学とでもなるのだろうか。序盤は謎めいてはいるもののミステリ味は少なく、中盤、墜落死が起こり、探偵を名乗る女性が友人と推理に乗り出すあたりは、紛れもなくミステリなのだが、終盤は幻想小説風で、論理的な謎解きへとは帰結しない。末尾のFRAGMENTは、いろいろなパラレルワールドを呈示して、読者を眩惑へと誘う効果を狙っているようだ。最初の方で、ユートピア、コミューンに憧れる若者が、真木悠介の著書を愛読するくだりがある。懐かしや、真木先生。あの人もコミューン主義者で『気流の鳴る音』というコミューン讃歌の著書がある。ぼくが参加していた頃のあのゼミにも、コミューンに憧れていた若者が大勢いた。ゼミの中で結婚した二人は、大学を(卒業したのか中途退学したのかよく知らないが)やめて長野の実験農場とかいうコミューンに行ったのだが、三年後には、ぼろぼろに疲れて帰ってきたと聞いた。結婚するまでや、したばかりの頃は本当に仲むつまじかった二人が、帰ってきたときにはすっかり不仲になっていたそうで、風の便りには離婚したとも聞いた。別の女性は、沖縄にある何とかというコミューンに入るのだと目を輝かせていた。彼女がその後どうしているかは知らない。しかしぼくがいた間だけで少なくとも三人がコミューン運動に参加し、他にも入って行った人間はかなりいたようだから、真木先生のゼミは、コミューン志向の若者の溜まり場だった観がある。オウム真理教にいってしまった人もいたようだが……(伝聞)。かく言う私も、結構コミューンには憧れたくちである。そのコミューン運動のありようが、的確かつ見事に描出されている小説に初めて遭遇した。

 最近読んだ作家・作品で言うと、篠田節子(『聖域』)、恩田陸(『三月は深き紅の淵を』)や、この奥泉光は、謎解きとミステリ技法をかなり作品に取り込んでいるのだが、ミステリとしての収束を欠く、いわばミステリ周縁作家という気がする。

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4月21日 カミ『ルーフォック・オルメスの冒険』吉村正一郎訳・出帆社・1976年9月刊

 トンデモミステリなる用語がFSUIRITを沸かせましたが、海外でトンデモミステリの王座につくのは、この人をおいてないでしょう。カミ。読んでみると結構「六枚のとんかつ」と作風が近い。津島誠司とも相通じるものを感じる。本集にはオルメスもの以外の喜劇・コント・小咄も含まれていますが、以下オルメスものの各短篇をレビュー。

「奇妙な自殺」……オルメスのもとに奇妙な依頼人が現れる。自分は首吊り自殺をしたはずなのに、なぜか生きている。しかし自分の部屋には、たしかに自分の首吊り死体がぶら下がっている。それをこの目でたしかに見た。この不可解な事件の真相は!?オルメスによって解明された真相とは!?

「十一番列車の強盗」……牡牛に姿を隠して、列車強盗をたくらむ一団の話。「調律師殺人事件」……被害者の髪の毛を四万本まで数え上げて、この知人に聞くと、髪の毛が一本足りないという。その足りない髪が落ちているところに犯人がいるはずだとのトンデモナイ推理で、オルメスは犯人を突き止める。

「骸骨の失踪」……自分の骸骨が盗まれたという奇妙な依頼から事件は始まる。よく聞いてみると、依頼人は、いつもベッドの横にX線装置を置いているのだが、その装置に自分の骸骨が写らなくなったという。要するになぜ写らなくなったのか、その理由をオルメスは突き止める。オルメスは推理をするときに、いつも両足を天井からぶら下げるそうだ。「からだじゅうの血流が脳髄に流れ込んで頭がいきいきとはたらき出るそうだ」。JDCにぶら下がり探偵として入れそうだ。

「鮮血トランク事件」……死体の詰められた血染めのトランクが759個も見つかるという恐るべき大規模な猟奇バラバラ殺人事件である。犯人の動機は金目当てなのだが、最後、つかまった犯人が、儲けそこなったことを嘆き「トランク代丸損だあ」と嘆息して終わる。それだけ大量のトランクを購入してれば、すぐに警察に足がつくと思うが。

「ヴェニスの潜水夫」……大蛸にまたがって水中のギャング団を追跡するオルメス。

「仇討二重奏」……冒頭、巨大地球儀に首を突っ込んで死んでいる女、という大坪砂男の「天狗」にも匹敵する奇想の風景。そんな仕方でなぜ殺す必要があったのか、というホワイダニットが焦点となり、二重の殺人計画があばかれる。

「大西洋の海賊」……大西洋上で次々と勃発する盗難事件。実は氷山をよそおった乗り物に乗った怪盗スペクトラの一味の仕業だった。氷山が火事になるくだりと、謎の電報の解明はおかしい。ラストで捕縛されたスペクトラは「自分の氷山に火災保険をかけておけばよかった」と嘆く。

「赤ん坊は渇く」……赤ん坊による連続襲撃事件が発生している、という発端の謎は幻想的なまでに美しい。またしてもスペクトラの一団の仕業なのだが、しかし、一体どんな赤ん坊だったのだろう?

「細菌の正体」……細菌と、ガラスによる光の拡大による錯覚トリック。犯人たちが細菌の扮装をしてかけずり回っていたかと思うと、想像するだけでおかしい。

「カタコンブの怪」……集中、このトリックは一番あっといわされた。(以下ネタバレ感想が書かれていたので削除)。

「インクは昇る」……インクまみれの黒色の男が「インクは昇る」という謎の言葉を残して死ぬ。おりしも、パリには謎のベストセラー作家が席巻していた。はたして、スペクトラの悪巧みとは!? ううむ、これぞ、トンデモミステリでも極北の作品だなあ。

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4月24日 松田道弘『トリック専科』(教養文庫)

 フーディーニは脱出マジックに失敗して死んだとばかり思ってたら、それは映画でつくられたフィクションだそうだ。「ワンアヘッド」のマジックというのが出てくるが、村瀬継弥さんの『藤田先生のミステリアスな一年』に使われていたトリックと同様だが、ここで紹介されているやりかたは高等でスマートな技である。あの作品、奇術のトリックに通じた人なら、割合どれもみえみえになるんじゃないかなあ。

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4月24日 ジョン・ダニング『死の蔵書』宮脇孝雄訳・ハヤカワミステリ文庫

 去年の海外ミステリで一位になるなど、評判の話題作を遅ればせながらようやく一読した。たしかにかなり面白い。捜査の過程がゆったりしすぎているが、それも、主人公の警官が物語の途中で警察を辞職して、古本屋に転職してしまうためである。彼が再び捜査へと乗り出すのは、自分の店で、親しい者が殺されたときからである。ボクシングに達者で、有能な刑事げ、玄人はだしの本好きというのを同時に兼ね備えた、というなかなか特異な主人公だが、その三つの特徴はいずれも事件の中で、有効に活用される。我孫子武丸氏が創元の本格ミステリベスト本に寄稿したエッセーでは、本書を「本好きにはこたえられない一冊」と評すると、評論として失格の烙印を押されてしまうようだが、やはりそう評したくなる。

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4月24日 安房直子『日暮れの海の物語』(角川書店)昭和52年7月刊

 安房直子は物故して数年たつが、死後著書が復刊・再刊されていないのは実に残念なことである。黒岩涙香全集も、鮎川哲也全集もやってほしいが、同様に安房直子全集も、どこかの出版社で出してほしいものである。文庫になったのはみな所持して(講談社文庫5冊、ちくま文庫2冊)全部読んでいるし、単行書も目につくかぎりは集めているが、それでも全作品を集めるのには、まだまだ遠いし、入手困難本も多い。

「日暮れの海の物語」……病気を直すこうらと引き換えに、美しい村の娘に結婚を迫る亀。「鳥」と似ているが、それよりひねりが効いてない。

「声の森」……生きては帰れぬ〈声の森〉。少女を救ったのは,美しい子守歌であった。

「ほたる」……白いトランクから広がる蛍の群れにいもうと幻像を見る。イメージ画のようで,筋立てはあまりない。

「小さい金の針」……裁縫をするねずみとおばあさんの交流する物語。

「奥さまの耳飾り」……おやしきのだんなさまが実は鯨なのだが、異世界に行く話は「銀のくじゃく」や「夕暮れの国」などいくつかあるが、これは、元のところに帰ってきて、魔法も消えてしまう。どちらかというと、行ったきり帰ってこない「夕暮れの国」の方が好み。

「冬の娘」……日本の昔話の風景なのに、最近は、冬の娘も洋装になっているそうだ。馬が荷車を引く間に見た雪中の幻想譚である。

「日暮れのひまわり」……珍しく人の死が出てくる。少年がなぜ踊り子を殺したのか、まるで不明だが。童話としては失敗作だろう。

「カスタネット」……集中では長めの短篇。森の精に取り込まれた夫を取り戻すべく妻が奮闘するのだが、肝心のカスタネットを奪えず、夫は戻るが不具になっていたという話。

「西風放送局」……三匹のねずみが、芸能界にデビューしようとして苦心する物語。一種の立身出世譚であろうか。

「天窓のある家」……花の影を盗むというイメージが美しい。異世界からの警告を破ると、何らかの罰を受けるというのが、昔話や口伝物語の約束ごとだが、この話のように安房直子作品には、本人は罰や被害を受けないで終わる話が結構ある。

「だれにも見えないベランダ」……講談社文庫では表題作になっていて、この作品は既読であった。異世界に誘われてそのまま帰ってこないパターンが、安房直子の作品内では好き。

「赤い魚」……助けてくれたお礼の三つだけ願い事をかなえましょうという、よくあるパターンの話。しかし結末は、ありがちなところに帰着せず、消える魚の美しい幻想を残して閉幕する。

「海からの電話」……ギターを弾こうとする蟹たちが、そのままでは鋏で弦を切ってしまうので、手袋をするなど工夫を凝らす。

「夏の夢」……巻末のは集中では一番長い短篇。耳鳴りをもたらす蝉が、一幅の美しい夢を届けてくれる。少年が、おしの少女にほのかな恋心を抱き、こう語る一節が印象的。「ぼくは、ふと、自分もこの子と同じ世界に生きてみたいと思った。音のない国----光と色だけの、かなしいほどに明るい国に」(222頁)。

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4月25日 戸松淳矩『名探偵は千秋楽に謎を解く』(ソノラマ文庫)

「45回転のレコードを33で回しているみたいな喋り方だ。」(24頁)
 こんな比喩は、CDが普及した今となっては、通用しないというか、今の若い人には理解できない表現と化しているんだろうなあ。私が小学生の頃、自宅にあったレコード機は、33、45、78回転の三つの選択肢があったが、当時売っていたレコードは、33か45のどちらかで聞けたものだ。78回転とは何だろうというのは永らく子どもの私には謎だったが、あれはSPレコード用だったとは後に理解した。
 ジュブナイル小説なので、殺人未遂めいた事件は起こるが、死人は出ない。誘拐犯が「一週間以内に、町を出ないで300万円を使い切れ」と要求する趣向は面白い。フーダニットの謎は、こんなことをして利益を得る者を割り出すことで進展し、ホワイダニットにしぼられてくる。

ジュニアものにしては、割にしっかりしたミステリーでした。

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4月22日 フロイト『夢判断』高橋義孝訳(新潮文庫)

フロイトの『精神分析入門』(正・続)を通読したのは何年も前になるが、そこで述べられていることは、フロイト自身の注釈的解説によるなら、ほんのとばぐちのとばぐち、フロイトの学問的研究のほんの一部、氷山の一角に過ぎないことを強く印象づけられる。「この点をここで詳説する余裕はない」とか「簡略に要約するにとどめる」とか「この点を論じるのは別の機会に譲りたい」という類の言辞が頻出するので、そう印象づけられるのだ。しかし、いま人文書院から出ているフロイト著作集を見渡してみると、主著というべきはやはり『精神分析入門』とこの『夢判断』。後はもっと短い論文集が、書かれたものとして残された業績である。そこからみれば、フロイト思想に占める『精神分析入門』の占める比率は、著しく大きいことがわかる。だが、肝心なことを同著でフロイトは、とうとう言わずじまいだったという印象が拭いきれない。タナトス(死への衝動)の話は『精神分析入門』には出てこないが、そのタナトスをめぐるあたりが、フロイト思想の一番の中核ではないかと思えるのだ。
 さて、『夢判断』である。

 上巻・40〜42頁近辺。ニーチェが『偶像の黄昏』で砲弾の夢を分析しているところで、夢の中で時間が逆行しうるということを論証している。夢研究の大家フロイトがやはりこの事例を知らないはずはなかった。46頁〜「入眠時幻覚」の話。ルドルフ・シュタイナーによれば、過去の心霊とまじわるのにもっともいいタイミングは、眠りに落ちるときだという。フロイトは無論、シュタイナーのような心霊主義者ではないが、この当時ヨハーン・ミュラーという研究者がこの現象を指摘していたとは。
 上巻より−−
「手当たり次第の言葉で呼んだって起きなかったひとが、名前を呼ばれると眼を覚ます」(72頁)。「夢が苦もなく時空を超越しうるということ」(86頁)。「世間でよくいわれている夢の予言力という問題」(87頁)。「われわれの夢の性格は、われわれの全体的気分のきわめて忠実な鏡だという点にある。その全体的気分については、われわれが覚醒時の自己観察によって知るよりも、夢のほうがずっと忠実にそれを教えてくれる」(フィヒテ)(94頁)。「夜、われわれが夢に見るものは、昼間われわれがなおざりにしたもののあわれな残滓である。夢はしばしば、軽蔑された事実の復讐であり、見棄てられた人々の非難の声である」(アナトール・フランス、「赤い百合」)(108頁)。「どんな夢にも、すくなくとも一箇所、どうしてもわからない部分がある。それは、それによってその夢が未知なるものにつながっている臍のごときものなのである」(146頁)。「一度文字を書き、さらにその上にまた文字を書いた再記写本のように、夢は、その無価値な表面的性格の下に、ある古い・貴重な消息の痕跡を現わすのである」(176頁)。「催眠状態にある患者に何か命令すると、患者は醒めたのちにその命令を実行するが、君はなぜそのことをするのかとたずねられても、患者は「なぜそのことをするのか、わかりません」とは答えないで、それに必ず何か理由をつける」(192-193頁)。「ヒステリー……再演にまで高められたところの共感」(195頁)。わざわざフロイトの理論を否定することを願望として夢を見た女性患者の例は興味深く、不意打ちの鮮やかな解決が呈示されたような驚きがある(198頁)。ある女性、姉の息子が死んだ夢を見て、それのどこが願望充足? フロイトの答え。その子の葬儀があれば、あなたの思い人にそこで会えるから(199-201頁)。

下巻。「風景あるいは土地の夢で、われわれが『ここへは一度きたことがある』とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの『既視感(デジャ・ヴュ)』は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母親の性器である」(119頁)。「夢を見るということは、大づかみにいえば、その本人のもっとも早い諸事情への部分的退行であり、……この個人的幼年時代の背後には、系統発生的な幼年期、つまり人類の発展期が顔を覗かせているのである」(309頁)……ユングがこのことを掘り下げたのに、フロイトのお気に召さなかった?

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4月22日ピランデルロ『作者を探す六人の登場人物』(『ピランデルロ著作集』所収)(白水社)

 大学に入ったころ、自由国民社から出ている「世界の怪奇オカルト文学総解説」という本を読んで、それを頼りに面白そうな本を読んでいったことがある。当時あまり知られていなかったエンデの『モモ』も、それに載っていて、粗筋が面白そうだったので、買ってきて読み、随分感動した憶えがある。本作も、同書に取り上げられていて、当時からどうやらメタフィクションに興味があったらしい私は、早速書店に注文を出したのだが、古い本で品切れ絶版になっていて失望させられた。新保博久氏が拙作『バビロン 空中庭園の殺人』で、この作品に触れているところからも気になってはいたのだが。今日、駒場図書館でこの本を見つけたので、読んでいたのだが・・メタフィクションに関する先鋭的技法が、ほとんど先取り的に用いられている。いわゆる内輪ネタやギャグなどが頻出し、前衛的で先鋭的な作品が、数十年も前に書かれているわけだ。この作品と、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の二作が、暗い20世紀を象徴する、今世紀の戯曲文学の極北かもしれない。この集に収められた「ヘンリー四世」は、とち狂って自分がヘンリー四世と信じ込んでしまった男が、正気に戻った後も、狂ったふりを演じなければならないという不条理コメディー劇で、筒井康隆の「将軍が目覚めたとき」の元ネタは、この戯曲だったのね。

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