読書録−−98年7月

7月11日 笠井潔『ユートピアの冒険』(毎日新聞社)1990年

  奇妙な形式の笠井潔の評論集。著者と、インタビューに来た女性記者の対話形式で全編が構成されている。奇妙、というのは、くだけた会話体の中に、観念論批判とかで、難解な思想用語で哲学論文みたいな文章が出現し、作中の著者だけでなく、対話相手の女性までもが、専門的な難しい用語で応戦しているところである。この本が刊行された、1990年は、いわゆるバブル期にまだ属する時期のはずだから、今よりずっと日本経済は繁栄を謳歌していたはずであるが、この書の中には次の一節がある。
「1990年代のうちに、世界規模の詐欺みたいな日本の繁栄は破局を迎えるよ。最初は、これまた空想的な高値を更新し続けてきた株価の暴落からはじまるだろう。株がさがれば、おなじようにカネ余り時代の過剰流動性を吸収してきた地価も暴落する。土地本位制の錬金術の土台が崩壊する。これが急激に進行すれば、体制危機的なパニックが到来するかもしれない。……」(263頁)
この90年時点での笠井の予言は、たしかな正確さをもって、日々実証されつつある。

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7月12日 シュテファン・ツヴァイク『精神による治療』高橋義夫・中山誠・佐々木斐夫訳(みすず書房)ツヴァイク全集第12巻

メスメル、メアリ・ベッカー=エディ、フロイトの三人の伝記が収められている。
メアリ・ベッカー=エディは、世に言うクリスチャン・サイエンスの創始者であるが、この伝記を読むまで、その教祖の人となりや人生について、ほとんど知らなかった。予備知識として知っていたことといえば、「クリスチャン・サイエンス」は「病は気から」を極端にまで押し進めた教えであることくらいか。キリスト教界では統一協会やモルモン教、エホバの証人と同列に、異端視、蔑視されていた感じだ。迷信を奉じる邪教集団みたいに言われていたが、私は、伝え聞くベッカーの教義には、一抹の真実はこめられているような気がして、なんとなく興味と共感できるものを抱いていた。80歳過ぎてもなお教祖としての権力にしがみついた老女の執念には、鬼気せまるものがある。かなりうさん臭い人物であることがわかるが、それでも、ツヴァイクは、ある種の共感と賛嘆をこめて、この特異な女性の生涯を活写している。天理教の教祖となった中山みちと、政治権力に屈しない不屈の信念など、ある種の共通性を感じた。ただ、中山みちの場合は、夫や子どもたちに、商売魂と組織力があり、中山みちが獄中にいる間に、天理教を組織的な教団にまで発展させたのだが、メアリ・ベッカーは、本人に商才があったらしく、自分の教義を広め、教団を経済的に発展させる抜群の手腕をもっていた点は感嘆に値する。たいていの大きな新興宗教は、現世的な教団運営は、教祖の周囲の人間がやっているからである。

  本書で扱われている三人、メスメル、メアリ・ベッカー、フロイトはともに、生前は、信奉者を多く集める一方で、政治権力や教会などの既成宗教から弾圧を受けた点で共通しているし、人を癒すのに抜群の実績をあげたところも共通している。この三人は、たしかに一つのカテゴリーにまとめられるべきものをもっている。

 メスメルについては、今日でも、やま師、詐欺師めいた印象をもって伝えられている。しかし、その人となりは、当時の最新の学問を修め、医学、哲学等の博士号をもち、合理的に推論をすすめる科学者のそれである。メスメリズムの名でつたわるものの主体は、彼の弟子が構築したものであり、彼の悪評の主因は、彼をメシアのような治癒者と崇めた崇拝者と追従者による行き過ぎた個人崇拝であったようだ。フランス革命直前のフランスに滞在し、モーツァルトをはじめとして、ラヴォアジェやバイイといった科学者や、王妃マリー・アントワネットやルイ16世、ラファイエット侯爵といった当時の有名人たちも、メスメルと親交があったわけだ。20世紀は、メスメルに似た、悲劇の精神療法者を生んでいる。ナチス・ドイツに追われ、亡命先のアメリカで獄死した、ウィルヘルム・ライヒである。この両者は、その思想、態度、人生がなんと似通っていることであろう。
 ちなみに、ショーペンハウアーの『自然における意志について』という、今日ではあまり読まれない著書の中には、メスメリズムに関する一章がある。迷信として退けられていたメスメリズムと、当時の学問を橋渡ししようとする、なかなかに興味深い一書である。
 フロイトについては、ツヴァイクが執筆した時点ではまだ存命だったためか、伝記的記述はほとんどない。ただ、フロイトの学問と思想、生活態度のありようを淡々と述べるのみである。最近読んだウスペンスキーの『新しい宇宙像』では、ツヴァイクは、フロイトの信奉者として退けられていたが、本書を読むかぎり、ツヴァイクは、フロイトを賛嘆しつつも、決して公正さを失っているわけではない。特に、フロイトの人間観の根本的な暗さに対して、ツヴァイクは異議を唱えているようである。

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7月12日 ウスペンスキー『人間に可能な進化の心理学』(前田樹子・訳)(めるくまーる社)

 この本は、再読である。といっても、この訳書は初読で、数年前に原書(英語)で一読したものである。原題は"PSYCHOLOGY OF MAN'S POSSIBLE EVOLUTION"。訳題が「人間に可能な進化の心理学」では、あまりにこなれていないと思い、別の訳題を考えてみたが、どうもいいのが思いつかない。内容からすれば、「進化という潜在可能性からみた人間心理学」ということなんだけどね。訳者による巻末の解説は、ウスペンスキーその人よりも彼の師グルジェフに重点をおいている。私自身は、グルジェフにも興味はあるが、ウスペンスキーの方が、師グルジェフよりはるかに興味深く、偉大な思想家であると思える。ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』( 平河出版社) は、グルジェフ思想の恰好の入門書だが、本書は、グルジェフ思想に基づくとはいえ、ウスペンスキー自身の思想への恰好の入門書である。ウスペンスキーの主要四著作( 「ターシャム・オルガヌム」「ニューモデルオブユニバース」「奇蹟を求めて」「フォースウェイ」) は、奇妙なことに、上級⇒中級⇒初級⇒入門と、順を追って、初心者向きになっていき、処女作の『ターシャム・オルガヌム』が最も高度で難解な作品になっている。著者の死後公刊された短い本書も、『フォースウェイ』と同じく、位置づけとしては、入門書であろう。

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7月12日 コリン・ウィルソン『スクールガール殺人事件』(高見浩訳・新潮文庫)

 解説では「警察小説」と銘打たれているし、題名も「殺人事件」といかにもミステリらしいので、ついミステリ的なプロットや仕掛けを期待してしまうが、その期待はかなえられない。一人の有能な警察官を主人公にして、発生した殺人の容疑者を丹念に追う、リアルな捜査小説である。ウィルソン得意の人間学と思想は、この殺人にまつわる魔術と性秘儀にからんでおり、その方面の蘊蓄でウィルソン節を満喫できる(^_^)。主人公のソールフリート刑事の卓越した直感力が、ウィルソンのいう「X機能」の犯罪捜査方面への適用であることは言うまでもない。
「彼が有能な刑事になれたのも、四十六歳にして主任警視という要職につけたのも、いざというときにいつでも寛ぐことのできるこの能力のおかげだった」(17頁)という一節から、最後の「あなたは刑事より牧師をやった方がよかった」という同僚のかける言葉まで、それは一貫している。

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7月14日 夢枕貘『空気枕ぶく先生太平記』(フレーベル館)

以前にエッセー集として刊行された『夢枕貘の外道教養文庫』(小学館)は、作家の原稿料や収入の話を赤裸々に活写していて面白く読んだ憶えがあるが、その小説版ともいうべき作品が、本書。売れっ子作家は、幼児的でも、横暴でも、許されるという内幕暴露的なユーモア小説。楽しく読めることは読めるが、読後感はなんだか虚しい。主人公の作家が庶民の共感を得るには恵まれすぎた立場にいるためだろう。

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7月14日 連城三紀彦『夜よ鼠たちのために』(新潮文庫)

「シャレード」という同人誌上のインタビューで綾辻行人氏は、本書を日本ミステリ・ベスト5の一角にあげている。収められた六つの短篇は、いってみれば、「反転の美学」に彩られた作品群で、終盤の真相でネガとポジが反転するような眩惑感を味わうことができる。連城三紀彦の筆致は、それとともに、哀切な男女の運命を叙情的に描き出している。

  自分でこの手で殺して埋めたはずの妻が、別の場所で死体として発見される「二つの顔」、ある誘拐事件にひめられた意外な真相を語る「過去からの声」、鍵の付け替えをめぐって二重三重に張りめぐらされた陰謀を描く「化石の鍵」、夫と妻の双方から互いの身辺(浮気)調査を依頼された私立探偵の奇妙な事件を描く「奇妙な依頼」、死者のための復讐という構図がラストで鮮やかに反転する「夜よ鼠たちのために」、互いにパートナーを裏切り合って情愛関係に陥っていた四人の男女、その背後にあった意外な人間関係は? という「二重生活」、いずれも佳品ぞろいの名短編集でした。

  解説で関口苑生氏は、本集中の男たちを「ダメ男ぞろい」と評しているが、ダメ男というよりは、アウトサイダーといった方が適切な気がした。

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7月20日 島田荘司『本格ミステリー宣言II』(講談社文庫)

  親本(ハードカバー)が刊行されたときに、ざっと一読されているのだが、文庫であらためて再読。最後の質疑応答の箇所で、島田は「メタ」を「メタファー」の略ととらえており、「メタ本格」を「模造品本格」「まがいもの本格」に近い意味でとらえていた。これは、「メタ」の原義からすれば、明らかな誤用である。ところが、文庫版では「メタ」を「メタファー」の略であるとすく記述はなくなっていた。その箇所のみならず、前半の論文の部分も、ハードカバー版とは相当書き直されている印象であり、改変はちょっとした修正にとどまるものではない。全体の総論は控えて、二点ほど感想を。
  日本の警察に対して、「警察の現場では、こういう行刑の精神の変遷はまったく理解されていず」とか「拷問屋にすぎない日本警官」(31頁)といった記述は、あまりに軽率な断定ではなかろうか。せめてもう少し保留をつけたもの言いをすべきだと思う。捜査一課の刑事に、殺人捜査のプロセスを実際に取材してもらった後ではなおさらそう思える。

  「メタ」という言葉には、個人的にはこだわりがある。辻真先・著『白雪姫の殺人』(徳間文庫)の解説でそのあたりを詳述したので、興味おありの方は参照していただきたいが、簡単に言えばギリシャ語の「メタ」は「後の」「次」を意味する言葉であり、その意味の変遷が生じたのは、アリストテレス全集の最終巻の題名が失われていたために、やむなくその巻を「自然学の次の学=メタ・フュジカ」と呼んだことから来る、というものである。それがアリストテレスの学問の集大成をなす、哲学の巻『形而上学』となるわけである。ハードカバー版での、島田のメタ把握は、むろん誤解であるが、以下のようなメタ把握によって、通底させられなくもないという気がした。つまり、「メタ」とは本来の名前が失われているという意味で、「エヴァ」の使徒みたいな正体不明の後継者であり、超越的な最終完成形態である。

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7月22日 城平京『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫)

  書き方は、やや稚拙な感じがします。家庭の様子を描写するのに「家族の雰囲気はよかった」(206頁)とか、主婦のことを「いい人だ」(207頁)と総括したりする、具体性のない記述は、描写としてはまずいでしょう。
  「小人地獄」という「希代の毒薬」の設定は、ご都合主義すぎるので、架空の毒薬であるにせよ、その毒薬が作品内で成立させるまでの、手続き的な書込がほしいところ。十代にして名探偵の業を背負ってしまった女性というのも、地の文で「素晴らしい推理力を発揮した」とか「名探偵である」とかを連呼するだけで、読者にその名探偵ぶりはあまりつたわらない。
  鮎川賞の選評で、前例があると指摘された結末の趣向。綾辻氏が思いついたという三例に加えて、本書解説の津田氏は、戦前の短篇にも前例があるという。その戦前の短篇というのは、創元推理文庫・日本探偵小説全集第12巻で読むことができる、あの作品であろう。この先例作品って、どれもかなりの名作で、本作はそれらを越える水準には届いていない。 

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7月26日 FORTUNE DU・BOISGOBEY "THE RED LOTTERY TICKET"

百年以上も前に出版された珍本の古書をインターネットを介して入手しました。

1891年の刊行で、ボアゴベの長篇『赤い籤』の英訳本です。劣悪な紙が使われているので酸化してボロボロでした。

  この本を破壊なしに読むことは不可能でした。本ののどの方の文字を読むために、本をこじ開けようとすると、ページがばりばりと引き剥がれていきます。しかたがないので、ページを引き剥がして、コピーにとりましたが、のどの側の文字がうつらないところが多く、うつらないところは、筆写しました。それでも、印字がかすれて文字が読めないところがあり、完全な復元は無理でした。19世紀の本は、今まで何度か読んだことがありますが、このボアゴベの本は、廉価版のペーパーバックで、日本で終戦後に出た粗悪な紙の本とつくりが似て、保存が効かなくなっています。羊皮紙の上製本などは、百年後でも十分読めるのに。それでも、中の頁が全部ある状態で送ってきてくれたカナダの古書店に感謝。
  で、今日この本全部読みました。(筆写がえらいしんどかった)
  以下、あらすじの紹介です。
  ボアゴベ作品の常道、二人の男が馬車の中で会話する場面から話は始まる。
  一人はこの話の主人公、ジョルジュという法律家志望の青年。相手は、アデマーという医者志望の若者。二人とも出世を志して、地方からパリにのぼってきたが、試験に受からないうちに資金が尽きてきて、不本意ながら、田舎に帰らざるをえない状況に直面している。彼らの共通の友人、ピエールが、美貌の資産家の令嬢との結婚が決まり、その婚約披露の昼食会に二人は赴くところであった。ところが車道で、怪しげな男が、彼らの馬車に突然財布を投げ入れて、逃走してしまう。財布を調べると、宝くじが数枚(赤い籤が含まれている)と、筆跡のそれぞれ違う三人の女性からの手紙が入っていた。持ち主を後で探そうということになり、アデマーがその財布を預かる。
  昼食会には、ピエールの友人シャルルの他に、意外にも、ピエールの前の恋人ブランシュも来ていた。婚約者のレコンバは、所用があり欠席、ピエールに後で来るよう言づけをもたらす。ブランシュは、レコンバの経歴がいかがわしく、本当は下層階級の出身で富裕な貴族の後見人に養子として引き取られたという、レコンバの隠された素姓を暴露する。彼女の後見人は病没して、彼女に多大な遺産を残したが、その後見人は、レコンバが毒殺した疑いがあるとも示唆する。ジョルジュは、ブランシュが嫉妬でレコンバを中傷しているのだろうと、彼女の話をまともには受け取らない。
  その昼食会は、主賓のはずのピエールがとうとう現れない。ともかく昼食をすませたジョルジュとアデマーは、不審に思い、ピエール宅を訪ね、自室で彼が何者かに射殺されているのを発見する。
  その後の調べで、犯人は、ピエールの財布を物色していたことが判明。召使が、彼が常用していた財布がないことを証言。
アデマーとジョルジュは、馬車で拾った財布が、そのピエールのものであることに気づく。手紙を調べると、三人の女性の、愛の告白と、恐喝の手紙が含まれ、いずれも署名はなかったが、二通は、知っている筆跡であることから、差出人がわかった。一つは、ブランシュが書いたもの、もう一つは、レコンバが犯罪の証拠を明かさないようピエールに訴える手紙。三通めは、差出人不明の、なにかの隠蔽工作を示唆する手紙であった。 殺人犯が手紙を取り戻そうとしていたところからすると、その手紙の差出人である三人の女性が怪しく思われる。重要な捜査資料として、本来は即座に警察に引き渡さなければならないが、ひそかにレコンバ嬢に思いを寄せていたアデマーは、彼女を容疑者にしないため、そして彼女の心をつかむために、その手紙を官憲には渡さない。レコンバ嬢と接触したところ、彼女は明らかに紛失したピエール宛ての自分の手紙を取り戻そうと必死。しかし、アデマーが接触を試みるも、彼女がアデマーに心を傾ける様子はまったくない。
失意のアデマーは、クラブでのバカラで大敗し、なけなしの金を失い窮地にたつ。
自分のまわりに、財布を取り戻そうとする男がつきまとうようになったアデマーは、ジョルジュに三通の手紙を委託する。
一方、失われたピエールの財布の行方を追う警察は、ピエールが購入した宝くじの番号の控えが見つかったことから、新聞で、その番号が一等百万フランの当選であるにせ記事を載せる。アデマーは、その記事を見て自分のもっている籤が大当たりと思い、喜び勇んで換金に行ったところ、殺人事件の容疑者として逮捕される。
親友が殺人の容疑者として逮捕されたことを知ったジョルジュは、友人の罪を晴らすために、預けられた手紙を警察に渡そうと一旦は決意する。しかし、突然そうできない事情が生じる。彼が婚約しているガブリエル嬢の家で、彼は、三通めの差出人不明の手紙と同じ筆跡のものを発見する。もしかしたら、自分の婚約者が、三通めの差出人でピエールの元恋人であり、殺人犯なのであろうか。苦悩するジョルジュ。
黙秘を続けていたアデマーは、とうとう折れて、財布を入手した事情を予審判事に告白し、ジョルジュが自分の証言を裏付けてくれるので自分の濡れ衣が晴れると言う。
しかし、呼ばれて現れたジョルジュは、アデマーの証言を肯定せず、手紙など知らぬと言う。はたして、アデマーの運命は如何に……!?

というところまでで、全体の三分の二ってところです。

この本に関しては、日本国内で私以外にもっている人間や、読んだ人間がいるとは思えないので、最後まで筋を書いても、ネタバレの被害にあう人は皆無だと思いますが、一応この後の展開をアップするのはやめておきます。ニフティのパティオでは、ネタバレ警報とともに最後まで、犯人の名も含めてアップしてあります。

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7月30日 『新世紀「謎」倶楽部』(角川書店)

この、自分も参加しているアンソロジー、早速読みました。なかなか良質の短篇ぞろいで、上出来の作品集と言えるのではないでしょうか。

芦辺拓「《ホテル・ミカド》の殺人」……博識の芦辺氏、戦前の事柄に関しても学識豊かなので、結びつきを発見するのに才を発揮しているなあと思う。姓と名のイニシャルが一致して、戦前の東洋人系社会ときて、私は、おお、J.P.マーカンドの創造した日本人探偵ミスター・モトが出てくるかと思ったが、出てきたのは、もっと有名な人たちだった。

村瀬継弥「藤田先生、指一本で巨石を動かす」……東京創元社より刊行された『藤田先生のミステリアスな一年』と設定も趣向も同じ話をまたやるとは。村瀬さんの作風の幅の狭さが気になる。巨石が動いた謎へのもっていきかたがかなり強引。藤田先生は、手品を披露すれば、生徒たちを善導できると信じている信念の人。ある種、サイコで近寄りがたい性格の人だ。

西澤保彦「蓮華の華」……手応えがあり、読後感のよい短篇でした。児玉美保の死が偶然でなく、なにかの作為の結果として、有機的に結びついている構成になっていたらもっと傑作になっていたのに。

集中の三短篇に軽くふれただけですが、他のもみんなよみごたえある短篇ばかりでしたから、世の多くのミステリファンに是非行き渡ってほしい作品集です。

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