読書録──98年8月

8月5日 P.D.OUSPENSKY"TERTIUM ORGANUM"(VINTAGE BOOKS)

  愛読しているロシアの思想家・著作家ウスペンスキーの最初の大著"TERTIUM ORGANUM"。これは感動的な名著です。グルジェフの弟子になってしまったので、今やその側面のみで知られていますが、実際は、彼はグルジェフと出会う前に、本書や『新しい宇宙像(NEW MODEL OF THE UNIVERSE)』、それに「悪魔との対話」「イヴァン・オソーキン」といった小説を上梓し、独自の地位を確立しています。「イヴァン」は、魔術師の魔法によって、時間がループする男の話なので、西澤保彦の『七回死んだ男』の原型のような話ですが、これまでのところ残念なことに、上述の本はいずれも日本語訳されていません(『新しい宇宙像』は全体の約三分の一の抄訳が『超宇宙論』の題で工作舎より刊行されている)。
  この『TERTIUM ORGANUM』こそが、ウスペンスキーの出発点であり、理論的規基盤となっていますね。先に『奇蹟を求めて』や『新しい宇宙像』や『人間に可能な進化の心理学』を読んでしまいましたが、そこでの議論は明らかに『ターシャム』をふまえています。『奇蹟』の中でもたとえば高次元論議のところなど、難解でわかりにくかった覚えがありますが、こっちを読んでようやく合点がいくところが多々あります。『ターシャム』は、数学論文のようであるとか、数学者の業績である、という前評判を聞いていましたが、たしかに、前半の次元談義は、かなり数学論文のような展開をしています。イントロはカント哲学の現象と物自体との区別から、実証主義や唯物論を批判する哲学論議。その後、多次元的宇宙という、ウィリアム・ジェイムズにも依拠した概念をつかって、延々と数学的な議論が続く。そして後半。多次元を経験するのには「神秘的意識」「宇宙意識」が必要だ、というあたりから、一転神秘主義へと走る。しかし、いわゆるオカルト派の文献と一線をかくしているのは、学者として、とにかく、一歩一歩論理的に論を進めていくその姿勢。

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8月7日  島田荘司『羽衣伝説の記憶』(光文社文庫)

  背表紙の紹介には「ラブストーリー」とあるから、ミステリ味は薄そうな印象を与える。たしかに本筋は、吉敷と通子の恋愛物語なのであるが、本筋とは別の、小さめの謎解きと、ラスト近くでは、通子の過去にまつわる謎解きがある。離婚しても実は相思相愛らしい二人だから、最後にはまた再婚してもよさそうな雰囲気なのに、そうはならないのは、推理の検証のためとはいえ、通子に断りもなく、彼女の飼っている熱帯魚を殺してしまっている吉敷の無神経さが敗因ではなかろうか。

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8月9日 フリッツ・ピーターズ『魁偉の残像』(前田樹子訳・めるくまーる社)

(初版1987年2月)

 考えてみれば、数年前に読んだ『グルジェフ・弟子たちに語る』とか、ハートマン『グルジェフと共に』とか、このパティオの読書録でもとりあげたウスペンスキー『人間に可能な進化の心理学』も、みな前田樹子氏の訳業なので、彼女の翻訳にはかなりお世話になっていることになる(上述の本の版元は、みなめるくまーる社)。
 少年時代をグルジェフとともに過ごした回想録である。本書もそうだが、ウスペンスキーの本を除いた、グルジェフ関係の本は、本人による『森羅万象』シリーズも含めて、グルジェフがとりとめのない、明晰さが足りない混乱した教師であるとの印象を与える。ハートマンの本や、ジョン・G・ベネットの本もそうである。やはりグルジェフが、書物に関するかぎり、その偉大な相貌を現すのは、『奇蹟を求めて』ただ一作であり、これがグルジェフを学ぶためのワン・アンド・オンリーの書物といっても過言ではない。前田樹子氏は『奇蹟を求めて』を入門書であると位置づけているが、それだけでなく、上級編の本でもあると言えよう。他の書き手が、いずれも、ウスペンスキーほどの筆力をもっていないことにも一因があるだろうが。
 そういうわけで、本書はそう大した書物ではないのだが、そこかしこに面白いエピソードは散見される。たとえば、前科者のサージという男をプリオーレの学院に入れるのを許可するが、しばらくして、学院内の物品が盗まれ、サージは行方をくらましてしまう。生徒はみな、サージの犯行であると信じて疑わず、警察に彼の逮捕要求をするように訴えるが、一人師のグルジェフは、頑として、彼の犯行を認めない。その物品を彼がもっているにしても、それは彼が一時的に借りただけであり、間もなく彼はここに戻ってくるのだろうと言うのだ。その章には、ことの顛末は書かれていないが、この話からすると、予期される展開は、やはり、サージは、グルジェフが言ったとおり、罪人ではなかったということであろう。ところが、二章のちに、サージがやはり学院の物を盗んで逃亡していたところを、警察に逮捕されたとのニュースが入ってくる。グルジェフはそれに対して知らん顔だったそうだから、生徒たちをさぞや呆れさせたことであろう。
 有名なグルジェフが瀕死の重傷を負った自動車事故に関するかぎり、本書での記述は、その事故が意図的であったことを示唆しているようである。
 かつて日本で刊行されたグルジェフ関連の本は、これで一冊残らず読んだように思うが(といっても全部で十数冊しかないのだが)、興味をおもちの方も、本書を読むのは、後回しにしてよい。

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8月12日 P.D.OUSPENSKY"A NEW MODEL OF UNIVERSE"(VINTAGE BOOKS)

  大著にして名著である。刑務所では月に新しい本を三冊読めるそうだが、この本ほど長く繰り返し読んで楽しめて勉強になる本を他に知らないので、務所入りしたときには是非この本をもって行きたい。
  前に読んだ"TERTIUM ORGANUM"も厚い本だったが、本書はさらに厚く、邦訳すれば二千枚は超えるだろう。
  本書は12章からなり、元々はそのうちの幾つかの章は革命前のロシアでは独立して刊行されており、本書二章の「第四次元」が刊行順では、ウスペンスキーの第一著書である。12章の題を順に訳してみると、以下のようになる。
 1章/秘教と近代思想
 2章/第四次元
 3章/超人
 4章/キリスト教と新約聖書
 5章/タロットのシンボリズム
 6章/ヨガとは何か?
 7章/夢と催眠の研究
 8章/実験的神秘主義
 9章/奇蹟を求めて
 10章/新しい宇宙像
 11章/永劫回帰とマヌの法典
 12章/性と進化

 
この本が完成したのは1914年で、まだグルジェフと出会う前に書かれている書物なので、グルジェフへの言及は本書にはない。ロシア語版が刊行されたのち、英国亡命後の1931年に著者による増補改訂の英語版が刊行されたので、最終的な底本はロシア語版ではなく、英語版となる。

学生時代に買った一冊は読み返しすぎてボロボロになってしまった。最近大阪梅田の旭屋書店で、また新しい本を買った。今回は7〜9章を読み返したのでその感想を。

9章の「奇蹟を求めて」は、同題の著書とは別物で、ノートルダム寺院、エジプトのピラミッドとスフィンクス、セイロン島の仏像、タージマハール、コンスタンティノープルのスーフィーダンスの見聞録である。スクールを求めて世界各地を漫遊したウスペンスキーは、それだけ世界各地をまわったのに、ついに求めるものに出会えず、失意のうちにモスクワに帰り、そこでグルジェフと遭遇するわけだから、求めていたものは案外近くにあったという意外な結末である。

7章の「夢と催眠の研究」は、まだ精神分析が勃興する以前の1905年に書かれているが、1929年に書かれた追記らしき冒頭の脚註で、あからさまにフロイト派の精神分析をののしっているのが面白い。その註にはシュテファン・ツヴァイクの名も登場するが、フロイトの擁護派の一人という扱いである。同性愛を擁護したのが、精神分析が普及した要因であるとまで言い切っているのは、なかなか過激である。

8章の「実験的神秘主義」は、コリン・ウィルソンの『ウスペンスキー』(河出書房)では、ウスペンスキーの全著作の中で最も重要な章と呼ばれている。ウィルソンの『超オカルト』(ペヨトル工房)の終章でも、かなり詳細に分析されていた有名な章であるが、これは示唆に富んでいる章だが、なかなかに難解で読解が困難である。数学者らしい洞察としては、高次の意識の世界では、世界は数学的に構成されているというのがポイントの一つであろう。

  こんな簡単な感想だけでは、本書の一端の一端も伝えられてないが、いろいろな課題提起をしてくれるテキストなので、今後も折にふれて読み込んでいきたい書物である。

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8月16日 歌野晶午『ブードゥー・チャイルド』(角川書店)

歌野晶午氏、三年以上ぶりとなる新作書き下ろし長編。丹念につくられた力作ですね。「美しい本格」と評されるのも、わかる気がします。
ちりばめられた謎が、結末できれいに収束していきます。中盤で大体の真相は、おおよそ見当かつきましたが、
(以下、本書の結末にかかわる内容に触れているので自粛しておきます。
続きはニフティのパティオにはあります。

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8月17日 中島梓『夢見る頃を過ぎても』(ベネッセ)1995年1月刊

  「海燕」に一年間連載された、中島梓の文芸評論集。初回の「不思議の島のガリバー」では、くだけた会話調の文章で、その月に刊行された文芸五誌の掲載作品をすべて論評していく。要するに純文学の文芸誌に載っているものは、どれもこれもつまらなさそうである。ここだけ読むと、門外漢のナイーブな感想かとも思われかねないが、第三回の「欲望という名のファンタジー」にいたって、第一回の批評に根拠を与える論理的な評論が展開される。その前の第二回「ガリバーばななを読む」は、吉本ばなな論。なるほどと共感してしまうところあり。私は以前、これほど評判になるのなら、と『アムリタ』を読み始めたことがあるのだが、全然読めない。目があちらの方を向いてしまう。中島梓の評論でも、ばなな初読の印象は私の感じと似ているようだが、それでも粘り強く読み終えて、吉本ばななが現代の感性にフィットしている理由を分析している。いい評論家になるには、我慢強く粘り強くあることが肝要なのであろう。ところで、本書58頁に、著者が笠井潔『哲学者の密室』に長文の評論を書いた、とあるが、この書評を読みたく思うけれど、単行書に収録されているんですか? 知っている人いたら、教えてください。

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8月24日 芦辺拓・有栖川有栖・二階堂黎人編『鮎川哲也読本』(原書房)

   鮎川哲也ファン感涙の一冊。鮎川哲也ファンあるいはマニアにとっては、いたれりつくせりの豪華本で、私も執筆に参加しているものの、読者としては、近年これほど待望した刊行物は、ほとんどない。圧巻は、数十頁におよぶ鮎川哲也ロングインタビュー。年代を追って、興味深いトピックを次々と掘り起こしてくれるので、資料としても読み物としても一級の価値がある。しかし、気になる表現が一か所あった。377頁で、『白の恐怖』を持ち上げるために、二階堂氏が、『白の恐怖』を「我孫子武丸さんにも読んでもらったら、良かったって言ってました」と言っている。我孫子氏が『白の恐怖』を読んでないのはいいとしても、なぜその本をわざわざ読んでもらって、お墨付きを与えるような存在してしまわなければならないのか、謎である。この箇所だけを読めば、我孫子武丸という人は、鮎川哲也よりずっと権威のある人で、その方に伺いをたてたところ「良かった」とのお言葉をいただきました、と読めてしまう。「最近この本を読んだ我孫子武丸さんも、良かったって言ってました」とでも書いてあれば、ひっかからずにすむのになあ。

  三篇載っているパスティーシュは、贋作というよりどれもパロディに近い。有栖川有栖さんの「下り『あさかぜ』」は、十津川警部と西村京太郎ファンの非難は大丈夫なの? と心配になる。二階堂黎人氏の「風邪の証言」は、パソコンでのデジタルカメラの専門的な(でもないか)知識を駆使したアリバイトリックなのだが、デジカメは使ってないので、読んでもよくわからない、というか、技術は日進月歩なのだろうけれど、なぜ細工不可能なデジカメ写真だと言えるのか、という限定と解法の落差の設定が難しいように思った。

  鮎川先生の未発表中編「占魚亭夜話」は、期待して読み始めたのだが、どこかで読んだ覚えがある。『死が二人を別つまで』(角川文庫)に収録されている「霧笛」の原型短篇とのこと。まったくの新発掘作品というわけではなかったのが少し残念。でも鮎川作品リストのトップにくる幻の処女掌篇「ポロさん」が読めたのは嬉しい。インタビューでも「ポロさん」の思い出を鮎川哲也が語っている場面がある。満州時代のことは、よく覚えているらしく、もっと長く話を聞きたい気がした。

  「エッセイ・アンソロジー」は、鮎川哲也先生との個人的な思い出話が過半をしめ、それに次いで多いのは、鮎川作品との出会いや、読んだ思い出を語っているもの。それらのエッセーも面白いのだけれど、全エッセーの中のピカ一は、「赤い密室」の作品論になっている西澤保彦氏の小文。作品論を書いていたのは、西澤氏と麻耶雄高氏の二人だけだが読者としては、その種のエッセーが一番読みたかった気がする。「赤い密室」を「キモチワルイ」と断言する篠田真由美さん、すごいぞ。島田荘司氏のエッセーは、鮎川哲也と全然関係ないじゃん!

  巻末の山前譲氏のリストは、労作ですね。『本格ミステリーを楽しむ法』(晶文社)のリストと比べたら、掌篇・ジュブナイル作品を主に、作品が増えていた。ほぼ鮎川短篇は全作品蒐集したと思ったら、またゴールが遠のいた〜〜。しかし、ショートショートで短篇集一冊と、ジュブナイル集成を二冊刊行すれば、鮎川短篇総ざらえができそう。

  有栖川有栖氏の「時を超える魔術」は、鮎川作品の魅力をリリカルに語り、これを読んだ人で、鮎川作品を読みたくならない人はいないだろうと思わせる名文。鮎川哲也の入門者向けのエッセーなのに対して、芦辺拓氏の「四〇〇のトリックを持つ男」は、鮎川作品を全部読破している上級者向けエッセー。このエッセーを書くための労力を考えると、その熱意に頭が下がります。私も以前鮎川トリック集成というノートをつくりかけたことがあるので、このエッセーを手引きに、もう一回勉強してみよっと。

 北村薫氏のエッセーは、さすがにツボをおさえたもので、トリックメイカーとしての表の顔と、抒情性をたたえた奥の(裏のとは言わない)顔の両方をしっかりとおさえている。 
 エッセー・アンソロジーでは、作品論になっている西澤・麻耶氏に言及したが、それ以外だと、歌野晶午氏の「『黒いトランク』のふるさと」が、しみじみと味わい深いものがあって、出色でした。

  私の書いた長篇レビューの箇所は、鮎川ファンの方々のお目にかなう出来になっていればよろしいのだが……と願いつつ、簡単な感想文を終えることにする。

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8月26日 黒岩涙香『非小説』

  芦辺拓氏より借覧したもの。メロドラマと、ミステリー的な結構の両者が融合した、涙香ものの中でも、最も面白い作品の一つではなかろうか。吉川英治の『ひよどり草紙』が、伊藤秀雄氏の指摘では、この作品を原型としているそうだ。なんといっても魅力的なのは、悪役・枝村牧斎の、徹底的な冷酷非情ぶり。この悪人造型は、素晴らしい。

  全体は三部構成で、第一部は、ロンドンの町でのムッシュー・堀井なる人物の怪死事件に視点となる新聞記者が巻き込まれる。町であった素姓のわからぬ美しい女性をかくまうことになるが、彼女こそは、堀井殺しの最大の容疑者と目される人物であった。第二部は、ガボリオの諸作やホームズものの長篇と似て、過去に遡る因縁話だが、割に短く、堀井変死事件と密接に結びついているので、さほど話が分断される印象はない。そして第三部は、精神病院を運営する枝村病院の内部に潜入し、秘密の文書を入手しようとする、冒険と死闘の物語。

  この原作は、不明である。乱歩のエッセーには、誤った情報に基づきコリンズの『月長石』が原作と書かれているものがあるが、それとは全く違う。一応コリンズの作品が原作らしい、とは書かれているので、未訳の『ノー・ネーム』か、何かの長篇だろうか。英国が舞台だし、作風が違うので、ガボリオ、ボアゴベといったフランス作家のものではなさそうである。でも、これは、原作も相当波瀾万丈の面白い話だと思わせる。こんな面白い話なのに、なんで埋もれているのかしら。

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