読書録−−98年10月
10月1日 カルロス・カスタネダ『夢見の技法』真崎義博訳・二見書房
カスタネダというと、東大の見田ゼミでは、共通了解のようによく読まれていた。「トナール」とか「ナワール」というカスタネダ用語は、当たり前のように流通していた。というのも、見田先生自身が、カスタネダ傾倒者で、真木名義の『気流の鳴る音』(筑摩書房)などで、カスタネダへの言及が多くなされている。しかし私はというと、当時の見田ゼミの空気に反して、あまりカスタネダに心魅かれるものを感じなかった。文化人類学の仕事としては、想像で補った部分が多すぎて、まともに学術的には受け取れないし、いわゆる精神世界の本として評するなら二流であるという意見であった。
この前乱歩賞で会った、朝日新聞記者の加藤くんも、同じ見田ゼミ出身で、カスタネダの愛読者。今年なくなったカスタネダの特集記事を朝日でやりたがっていた様子である。あまりに熱っぽくカスタネダのことを語られたものだから、つい影響されてしばらく読んでなかったカスタネダをひもといた次第。
カスタネダが数年沈黙したのちに発表した本書。ひさしぶりにカスタネダに触れてみると、実直な語り口が割にすうっと入ってくる。真崎氏は、本当にいい訳者で、邦訳に関するかぎり、カスタネダは非常に恵まれている。語りたい内容がよく練られて凝縮されているので、本書は呪術師シリーズの中では一番よい部類に属するのではなかろうか。
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10月2日 秋山英夫『魔性の文学 ニーチェ』(新潮選書)
ニーチェ思想に関する卒業論文を書くときに、秋山論文にはずいぶんお世話になったものである。この本も当時、図書館から借りてきて、論文に使えそうなところだけ拾い読みしたものだが……。西尾幹治、山崎庸佑、といったニーチェ学者と比べても、今世紀の日本の最良のニーチェ研究家は、やはり秋山英夫であったと断じなければならない。他の学者の書いたものからは伝わってこない、ニーチェ思想の息吹、ダイナミズムが、この本からはつたわってくるのだ。本書の第十章で「超人」とは単に「上にいる人」と解するべきではないかという指摘にははっとさせられた。たしかにツァラトゥストラが最初に超人を説く場面では、綱渡り師がはるか頭上で綱渡りをしている場面である。彼は演技に失敗して転落して死亡するわけであるが、この場面でその勇気を讃えられる「超人」とは、頭上にいる綱渡り師のことを指しているのだともとれる。『ツァラトゥストラ』「序説」の末尾にある「こうしてツァラトゥストラの没落が始まった」という一節も、原文の「Untergehen」という言葉からすると、「下山」という意味と、太陽の「日没」という意味(
ツァラトゥストラは太陽にたとえられる存在である)
の三つを含んでいる表現なのだ。やはり原文で読まないと、このあたりの豊かな意味合いを味わうことはできないようである。
以下、本書より抜き書き。
「人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、−−それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない」(「漂泊者とその影」308番)(56頁)
「ひとはものを書く場合、分ってもらいたいたというだけでなく、また同様に確かに、分ってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にはならない。おそらくそれが著者の意図だったのだ−−著者は《猫にも杓子にも》分ってもらいたくなかったのだ。すべて高貴な精神が自己を伝えようとする時には、その聞き手をも選ぶのだ。それを選ぶと同時に、《縁なき衆生》には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこに起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくるのである」(『たのしい知識』381)(113頁)
「われわれには人間に関係しない世界のことなど分りもしないし、この関係の写しでないような芸術など、望むところでもない」(ゲーテ『格言と反省』)(189頁)
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10月3日 星新一『ノックの音が』(新潮文庫)
小学生の頃に読んだ本にも内容を鮮明に覚えているものもあれば、すっかり忘れているものもあるが、読んだかどうかは大体記憶している。ただ、星新一だけは、どの短編集を読んだかはっきりしていない。星新一のショートショートは軽く読める息抜き読書に適当で、最近『できそこない博物館』(新潮文庫)と『ノックの音が』を一読した。やはり名手ですね。結末をあててやろうと身構えても、意表をつかれて、全然あてられない。「金のピン」だけは、集中では結末の切れ味が若干鈍い気がしたが、星作品の技の冴えにあらためて感心させられる読書体験でした。
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10月3日 法月綸太郎『謎解きが終ったら』(講談社)
法月綸太郎・初の評論集は、冒頭の一編(「海燕」に発表された中上健次論)を除いてみな刊行されたミステリ作品の巻末に付された解説12編から成る。解説で既に読んでいたものが多かったので、割にすぐに読めてしまった。名評論「大量死と密室」が収録されてないのは『本格ミステリの現在』(国書刊行会)に収められてるせいかもしれないが、「現代思想」の「メタ・ミステリー」特集号に寄稿したクイーン論は、力作で未完だったので、本書にその完成版が載ることを期待していたのだが、それはなかった。総論的で総括的な視座をもつ中上健次論以外は、各論になるので、これまで法月氏が発表してきた各種の文章を読んできた身には、大して新しい内容は含まれていなかった。タイトルは鷹城宏氏の意見では『謎解きが終っても』にした方がいいそうだ。
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10月6日 ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール『イスラーム神秘主義聖者列伝』藤井守男訳(国書刊行会)
1998年6月22日 初版刊行・定価3900円
国書刊行会、やるな! よくこんなマイナーな本を訳してくれた。大学時代に文学部イスラーム学科から、この英訳本を借りて、一部読んだものだ。大部なので全部は読めんかったが。
著者のアッタールは、12〜13世紀にかけて現在のイランで活躍した人物で、当時伝承されていたスーフィーの聖者の伝承をまとめあげたのが本書。アッタールは、モンゴール帝国の侵略で殺害されたらしい。原著は72人の生涯と逸話が採録された大著だが、本書はそのうち14人のみを訳出した抄訳である。中で異彩を放っているのは、イスラーム史上ほとんどただ一人と言ってよい、女性で聖者と認定されているラービア・アダヴィーア。「神の前に男女の区別があろうか」と語る彼女は、イスラーム史上もっとも大胆不敵な聖者である。一番最後におさめられているホセイン・マンスール・ハッラージは、虐殺されたせいで有名になっているが、本書(357〜360
頁) の処刑の場面を読んでも、手足を切断され、目をくりぬかれ、舌をひき抜かれ、相当残虐な処刑方法であったことがわかる。師のジュナイド伝も本書に載っているが、ジュナイドは、愛弟子のマンスールを司直に売り渡したと読める記述がある。師弟の愛憎関係には、深いドラマが秘められていそうである。
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10月6日 コリン・ウィルソン『コリン・ウィルソンの「来世体験」』
荒俣宏監修・根元靖子訳・三笠書房 1991年3月31日刊行
定価3000円
二、三年前、立花隆の『臨死体験』の研究が話題になったが、コリン・ウィルソンのこの本も、基本的にそれと同じテーマを追求した論書である。19世紀後半に心霊現象を研究しようと発足したSPR(心霊研究協会)の参加メンバーをみると(本書169頁)、詩人のテニスン、首相グラッドストン、電子の発見者トムスン、哲学者ウィリアム・ジェイムズ,、ルイス・キャロル、マーク・トウェイン、ジョン・ラスキン等々と実に豪華メンバーである。哲学者のウィリアム・ジェイムズは、コナン・ドイルに似て、最初は頑強な否定論者だったのに、能力のある霊媒の力を目の当たりにして心霊主義者に転向したという(本書215-218頁)。大著『オカルト』を書いた時点では、霊の存在を容認していなかったウィルソンだが、『ミステリーズ』以降、『ポルターガイスト』や本書では、どうやら霊の存在をすっかり容認する派に転向しているようだ。
ウィルソンの著書で、密度が濃いのは、やはり初期の『アウトサイダー』から『アウトサイダーを超えて』や『実存主義を超えて』にいたるアウトサイダー・サイクルの作品群である。最近の犯罪研究書とオカルト関連著書は、ともすれば事項羅列の集積のみで書かれたやっつけ仕事のように思えて、これまであまり興味をもてなかったのだが、(「創元推理」の「わたしの十冊」でも否定的な評価を書いたことがある)最近それらの作品をよく読んでみるにつけ、やはり最初から一貫したウィルソン節が健在であり、初期作品群に劣らず興味深いものがあると再発見している。何をテーマに書いていても、終章の概括の箇所でウィルソンは、意識の進化・拡大という自分の思想にこじつけても結びつけて語りだす。どの本でも終盤のまとめられた内容は、金太郎飴のように似かよっているので、そこだけ切り出せば、どこの本かわからなくなるくらいだ。しかしウィルソンの議論や記述に最初から辛抱強く付き合っていけば、最後まできて、ウィルソンの言う「鳥瞰的視点」、高みから一気にものを見下ろせる飛翔感を経験することができるだろう。
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10月13日 秋山眞人『実際に起きた驚異の偶然の一致』(二見文庫)
1994年6月刊
雑学本としては面白かった。共時性を唱えたユングが、死後、その伝記映画を撮影しているときに、死亡時とまったく同じ場所に落雷があったのが映画に撮影されているという。また、皇室に嫁いだ二人の女性の名のアナグラムの指摘も面白い。
おわだまさこ
かわしまきこ
互いに一字ずつ、相手の名の字をたどっても、同じ名前になるのだ。
古事記に原子周期表が予知されていたという話も出てくるのだが、そうか、原子周期表と、中国の『易経』と、グルジェフのオクターブの法則は、みなこの八つおきの周期のことを言っているではないか、と気づかされた。
最後の章は、著者自身のシンクロニシティ体験談。競馬で勝った帰りに食事したら、勝ち分とまったく同じ金額になったというのまで、シンクロニシティの例というのはねえ(笑)。
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10月13日 佐野洋『検察審査会の午後』(新潮文庫)
検察審査会という制度については、公民で習った覚えはあったが、その審査会に選ばれた一般市民である教師を主人公にした連作短編集。検察への処分の異議申し立てには、大きな事件から小さな事件までさまざまだが、どの事件も、結局、検察の処置を一つもひっくり返すことができない。ただ、事件の背後にこんな真相があったかも、と審査会が終わってから、臆測の議論がなされるだけ。実際に検察審査会に異議申し立てがなされても、過去の統計で、99%以上、措置が変わることはないそうだから、この作品集は、その審査会の様子をリアルに描いてはいる。ただ、ミステリとしてのひねりや意外性やトリックはこの作品集には、ない。新聞記事をふくらませたような社会派小説である。
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10月14日 小池真理子『恋』(早川書房)
直木賞を受賞し、ベストセラーを記録した評判作。心理サスペンスの妙手として心理描写に迫力とサスペンスがある。筋は単純で、片瀬という夫婦と親密になった女性が、その妻の愛人となった若者を邪魔者として射殺してしまう話である。安原顯の書評で本書を「愚作」と評していたのを読んだことがあるが、安原氏が否定的なのは結構が単純すぎるせいだろうか。主人公の布美子の犯行にいたる動機が単純すぎるのと、展開にひねりが乏しいので、読後感はいま一つだった。
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10月15日 エリザベス・クレア・プロフェット著『イエスの失われた十七年』下野博訳(立風書房)
1998年6月15日刊・1900円
コリン・ウィルソンの『来世体験』に書かれていたが、オカルト現象の法則として、その証拠となるのは、いつも、信者を説得するには充分だが、不信者を回心させるには足りないそうである。イエスの聖書外伝承も、その点では同型。ただ、キリスト教会が、正統とみなした以外の文献をことごとく弾圧抹消しようとした歴史的経緯を割り引いて見る必要がある。福音書にはイエス12歳から30歳までの17歳の伝記上の空白があるが、その時期に東方に行っていたという伝説を検証した本書。レーリッヒの著書の部分訳と紹介、ニコラス・ノートーヴィッチがインドで発見したと主張している「聖イッサ伝」の翻訳が載っている。『神の子の密室』でこのテーマには少し触れたが、この本があれを書く以前に入手できていたら、資料として活用できたのに。残念。
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10月15日 リチャード・キャメリアン『洗脳の科学』兼近修身訳・第三書館
1994年7月1日発行・2000円
思想にせよ心理学にせよ、唯物論の立場にたつものはどうしても共感できない。アメリカの心理学でひと昔前まで主流だった、ワトソン、スキナーらの行動主義心理学がその唯物論心理学の代表。しかし、行動主義心理学といわゆる「洗脳」は相性がいいらしい。刑務所、宗教、共産国家などさまざまな場で用いられている「洗脳」の技法を説きあかしている。用いられる方法も、行動強制から、薬物、電気刺激、脳改造まで多種にわたる。私たちの通わされてきた学校もまた、大いなる洗脳場である。現代社会に生きる私たちは、洗脳の洗礼なしに生きていけないのであろうか。ただ、本書の原題はBEHAVIOR MODIFICATION 。直訳すれば、「行動の矯正」というくらいの意味で、英語のBRAINWASH は、日本語の「洗脳」のように軽々しく用いられてはいない。
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10月15日 佐竹一彦『刑事部屋』(角川書店)
警察の捜査の実情を内側からリアルに描いた、連作推理短編集。本書のウリはなんといっても、著者が、元・警視庁、捜査一課に勤めていた刑事である点だろう。一話めの「手錠のぬくもり」などは、被疑者が悪巧みをしようとしているときは、汗ばむためにいつもより手錠があつくなるというのは、たぶん実地に基づく経験的な知識だろう。そういうところは面白いのだが、やはりミステリに私たちが求めるのは、リアルな警察の内情とか捜査過程ではないことにあらためて気づかされる。想像力の豊かな羽ばたきのようなものがないと、ミステリとしてはつまらない。
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10月16日 コリン・ウィルソン『アトランティスの遺産』(川瀬勝訳)
角川春樹事務所・1997年7月18日刊・1900円
コリン・ウィルソンは、右脳派だという誤解がある。邦訳書には『右脳の冒険』というのがあるくらいだ。しかし、その本の原題は"ACCESS TO AN INNER WORLD"『内宇宙への通路』とでも言うべきもので、内容もいわゆる「右脳派」の主張ではない。コリン・ウィルソンが右脳派とみなしているのは、今世紀のたとえば、D・H・ロレンスやアラン・ワッツといった思想家だ。社会的抑制を取り払え、内なる自然の力があなたを解放する、と要約されるような思想の持ち主たちだ。コリン・ウィルソンは、彼らに一理を認めながらも、それだけではまずいと説く、いってみれば、還帰する左脳派だ。ハワード・ドッサーの命名にしたがって「真の両脳派」と言ってもよいかもしれない。ウィルソン自身、かなり強引な要約をよくするので、それにならって、この『アトランティスの遺産』を乱暴にまとめてしまうなら、存在した古代文明、超古代文明は、右脳を活用する文明だったということである。現代文明は、この右脳との接触を忘れ、左脳文明を発達させてきた。古代文明を学ぶことは、眠っている能力の活性化、右脳へのつながりを回復させることにつながる。その上で、手綱にあたる左脳が主人であることを忘れてはいけない。−−てなところであろうか。ベストセラーになった『神々の指紋』『創世の守護神』のグラハム・ハンコックもよく引用されている。
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10月19日 ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(高橋義孝訳・新潮文庫)
ロッテという美しい女性に恋したウェルテルが、友人のウィルヘルムに悩みと思いを打ち明ける書簡形式の小説。ロッテはアルベルトという青年士官と結婚してしまうが、結婚後も、二人のプラトニックな交際は続く。主人公にはアンナ・カレーニナと同じ運命が待ち受けているが、ロッテという女性は心きよらかな女性と形容されている割に、ウェルテルの気持ちを知りつつ手玉にとっている女性に見えなくもない。翻訳を通じてでも、ゲーテの自然を写しとる詩情豊かな描写は美しい。
一か所抜き書き。
「ぼくはかつて岩にすわって流れ越しにあの丘のつらなりに至る豊かな谷間を見渡し、自分の周囲にあるいっさいのものが芽ばえわきでるのを見、ふもとから頂上まだ高い木を生い茂らせたあの山々、この上もなくやさしい森陰を複雑な線を描いて走っているあの谷々、夕風が空にやさしく揺り集める美しい雲の影を宿しながら、ささやく葦の間を静かに流れていく川をながめ、森をにぎわす小鳥の声を聞き、西に傾く太陽の名ごりの光の中に数知れぬ蚊の群れが元気よく飛びまわり、太陽の最後の明るい輝きが草の間からうなってとぶかぶと虫を解放し、あたりのざわめきや活発な営みを見て大地に注意を向けると、かたい岩から養分を吸いとる苔、地味のやせた砂丘の斜面にはえている灌木などがぼくに自然の内面の燃えるような神聖な生命を啓示してくれるとき、ぼくはそういうものすべてをぼくの心中に抱きいれ、たぎりたつ豊けさのうちにわが身も神の一人になったのかと疑い、無限なる世界の何ともいえぬものの姿がいったいに活気を与えながら魂の中をうごめくのであった」(72-72頁)
長い文章ですね。上の12行、ワンセンテンスです(^_^;)
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10月21日 竹田青嗣「陽水の快楽」 (河出文庫)
庵野監督の作品だとかで、金曜に放送が開始された「彼氏彼女の事情」を見ている。で、そのエンディングテーマが井上陽水の「夢の中へ」である。この歌を聞いて、上述の本を思い出した次第。見田先生のゼミで、テキストとして取り上げられた。哲学者・現象学者の竹田氏は、在日の二世だそうで、ヨーロッパにおけるユダヤ人と、自分の出生を比定している。彼は井上陽水の歌詞に、自らの心に通じるものを感じたらしく、陽水の歌詞を実存的・現象学的に解釈していく。そのテキストで最初に取り上げられるのは「ゼンマイじかけのかぶと虫」だが、この「夢の中へ」も俎上にのぼっている。何気なく歌われる歌詞にも、人によっては、これだけ哲学的に解釈できるという見本のような評論であった。
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10月23日 スティーヴ・ハッサン著『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)浅見定雄訳
自身がかつて統一協会の幹部として、布教活動に励んだ経験のある著者が統一教会を脱し、脱洗脳・脱マインドコントロールを著した指南書が本書。統一教会の内部事情の記述は元信者なだけに迫力がある。人間のタイプを思索型・行動型・感情型・信仰型の四つに大別している。このうち信仰型は、神や霊に人生の意味を見いだそうとするタイプで、一見一番カルトにひっかかりやすそうで、ハッサンによれば、このタイプが一番信者では少ないという。ついで少ないのが思索型で、入信者が多いのは行動型と感情型だという。
信者と脱退者の詳しいレポートもあり、アメリカにごまんとあるカルト・新興宗教のカタログ一覧の様相も呈している。
訳者の浅見定雄は、東大で講演を聞いたことがある。反統一教会運動のリーダーの一人なのだが、割に独善的で独りよがりな人であるという印象をもった。統一教会の教義が非合理的で非科学的であるのは指摘するのはいいにしても、自身がクリスチャンであり、処女懐胎とか復活といった非合理的なことを信仰しているのに、自分の信仰については不問に附す、ダブルスタンダードなところが非常にいやである。
この人が書いた反統一教会キャンペーンの本も読んだことがあるのだが、その自分勝手な論理展開に、統一教会を擁護するわけではないが、いちいち反駁したくなった覚えがある。それにしても、統一教会って一体なんであんなに人が集められるのだろう。東大に入学したときの駒場の第一印象って「統一教会の勧誘のアラシ」だったものなあ。実際、文三の同級だった男性にも二人ほど入信者が出ていたのだ。
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10月24日 D・H・ロレンス『翼ある蛇』(全2巻)宮西豊逸訳・角川文庫
ロレンスの長編では、日英両国で猥褻裁判を起こした『チャタレー夫人の恋人』の知名度が突出しているが、その一作前の長編が本書、『翼ある蛇(THE PLUMED SERPENT)』。夫をなくし一人者になった、アイルランド出身の40歳の未亡人、ケイトが主人公で、彼女がメキシコの闘牛を見学して非常な嫌悪感を覚える場面からこの小説は始まる。彼女は、メキシコ滞在中にそこの荒々しい野蛮な力に魅かれ、メキシコの神を讃える祭りや儀式に参加し、メキシコ人の男性と恋に落ちて、その男女の結合の至福感で宇宙との調和を体験するにいたる、観念的な小説である。ロレンスはやや三島由紀夫に似たところがあって、反知性主義の肉体讃歌を標榜していながら、観念が著しく支配的である。本書の主人公のケイトも、生命哲学みたいな思想を延々と思索していく、非常に哲学的で思索的な女性である。『チャタレー』の一歩手前の作品だが、主張や世界観はきわめて近い。
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10月31日 トオマス・マン『ヴェニスに死す』実吉捷郎訳・岩波文庫
文豪と呼ばれる人には結構同性愛者が多い。ウォルト・ホイットマンがそうだし、日本でも三島由紀夫や、中井英夫、江戸川乱歩など耽美派文学の系譜の代表者がそうである。思想界でもミシェル・フーコーやらロラン・バルトやら、死後のラッセルの証言で明らかになったウィトゲンシュタインとか、枚挙にいとまがない。小説作品でも、その性向があるかどうかは、ある程度判別がつくものである。トーマス・マンも小説から判断するに、どうやらそのけの人だったらしい。「トニオ・クレエゲル」に出てくる同性愛は、少年が同世代の美少年に憧れるという、割に程度の軽いものであったが、本書「ヴェニスに死す」では、作者の分身とおぼしき初老の作家が、ヴェニスで出会った美少年にひとめ惚れして、ストーカーよろしく付け回すという話である。
この作品を理解する鍵語は、文中にちらりと出てくる「ジプシー気質」という言葉だと思った。
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10月31日 ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』枡田啓三郎訳・岩波文庫
サルトルの『実存主義とは何か』とかマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』と同様、ある思想・主義の宣言書というものは、わかりやすく大衆向けに書かれる分、元の思想を簡略化して歪めてしまう作用もあるようだ。ジェイムズの有名な本書もそういう性格があり、プラグマティズムを唱えようとする本書は元は講演録であり、厳密な哲学書ではない。プラグマティズムは、要するに、長年にわたって対立してきた、哲学上の諸々の立場(唯名論と実在論、観念論と経験主義、唯心論と唯物論、一元論と多元論、宗教派と合理主義)を、実際に役に立つか、効果があるかに基づいて決めればよいとする、調停案である。ジェイムズの論調にのれば、過去の偉大なイギリスの哲学者、たとえばロックやバークリーまでみなプラグマティストになってしまう。この立場は、哲学的にはあまり評価されなおらず、ジェイムズの思想的著作でも、後々受け継がれて評価されているのは、ジェイムズが自らの哲学の核心とみなしたプラグマティズムの教説ではなく、その周縁の心理学的な仕事である。
最終章で、ホイットマンの詩を引用して、それが多元論としても、一元論としても解釈できることを示すくだりは、結構感動的であった。
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